寝目田

第20話 夢の女


 その日、あの男性がいつものように離れに赤い花を供えているのを見て、寝目田はホッと胸を撫で下ろした。ここ一週間ほど、毎日この立派な一軒家の前を通っては探していた姿をようやく目にすることが出来たのだ。

 

 思わず「あっ……」と声が出てしまった。

  

 するとその声に寝目田の存在に気付いた男性がこちらを向くと、一瞬不思議そうな表情をしながらも、ぺこりと頭を下げてくれた。釣られて寝目田も軽く会釈を返す。


 相手は70歳は越えているだろう白髪頭の人の良さそうな年配の男性で、まだ20代も中盤に差し掛かったばかりの寝目田とは親子以上に年が離れていて、共通点はまるでない。


 それでも近所の人かと勘違いしたのか、こうしてちゃんと挨拶を返してくれるあたり、寝目田はやはり余裕を感じてしまう。


  そもそもこうして寝目田がこの家に日参しなければならない羽目になったのも、もとはといえばこの「余裕」のせいだったか――今更考えても仕方のないことを一人思いを馳せる。


 その一方、挨拶を済ませた男性は今度は箒を手にして「開ノ戸」と表札がかけられている門柱周りを掃き始めた。


 早朝のまだ冷たい空気の中で黙々と花を手向け、掃除をする男性の姿は定められた神事を司る神職のようで、寝目田にはなんだか神々しさすら感じさせる。

 

(しかし、ここからどうしたものか……)


 この家とセットで毎日夢に出てきていた女が、ぱったりと姿を見せなくなって一週間が経つ。 

  

 それがもう解放された証なのか、悪い前触れなのか分からず、寝目田はずっとモヤモヤしていた。だからこそ、こうして自宅アパートから徒歩で10分近くかかるこの家まで毎朝出勤前に訪れていたのだが、いざこうして家主と顔を合わせてしまうと、どうして良いのか分からない。


(明日もこの時間に来たら、また会えるだろうし、今日は一旦帰るか……)

 

 顔を覚えられてしまう前に、さっさと帰ることにした寝目田は、男性に背を向けると来た道を引き返し始めた。


 すると数歩も歩かないうちに、男性が後ろから声をかけてきた。


「ああ、ちょっと! そこのスーツの人!」


 「え?」と寝目田が首だけ後ろを振り返ると、男性が「後ろ、後ろ!」と言いながら、自分のスウェットパンツの腰部分を後ろに引っ張り、持ち上げて見せた。釣られて寝目田も自分のスーツパンツの腰部分を確認すると、Yシャツの裾の大部分が中途半端にはみ出してしまっている。


 「あ、どうも……」


 駅のトイレにでも入った時に気づくだろうし、身なりより生産性を重視する会社に勤めているので、寝目田本人的にはどうでも良いことだったが、せっかく注意してくれた手前、無視するのも後味が悪い。そそくさとスーツパンツの中に裾を押し込むと、再び駅に向かって歩き出した。


 床屋に行く時間がなくて耳までかかった少し長めの髪に、皺の入った安物のスーツを身にまとい猫背で歩く自分は、裾の件がなくとも見る者にだらしがない印象を与えるのだろうと自覚している寝目田は、これ以上何か言われないうちに今度こそ帰ろうと坂道へと歩き出す。


「あ、まだ……ウッ」


 すると少し進んだあたりで、ドタッと重いものが落ちる重い音がした。

 「なんだよ……」と寝目田がダルそうに振り向くと、先ほどの男性が倒れている。


「マジかよ……」

 

 時刻は朝の7時。

 そろそろ駅に向かわないと、出社時間に間に合わない。


 焦る頭で、横向きに倒れている男性を見下ろす。

 真っ青な顔で、首には汗が浮かんでいる。

 放置して良い状態ではないことは確かだ。


 ――悩みながら視線を彷徨わせると、いつの間にか離れの前に子どもを抱いた女がいて「うわっ」と寝目田は小さく声を上げた。


 夢の女だ。

  

「ああ、クソ」  

  

 この後、会社で起こるであろう事態を想像するとウンザリする――が、それでも寝目田には放ってはおけない理由がある。だから親切心というより、半ば脅迫されているような圧を感じて、寝目田は救急車を呼んだ。

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