第13話 訪問


 翌朝、富子は一人、例の離れのある日本家屋に向かっていた。


 妻のピンチに、外和山も前に一度ひとりで屋敷を訪れたそうだが、

特に何も異変はなかったという。

 ただ優良が言うには、意外にも外和山はホラーやお化けなど怖い

ものが滅法苦手らしく、屋敷を訪ねた時にもあえて眼鏡をかけずに

行き、すぐに帰ってきたそうだ。

 

『それで特に何もなかったと言われてもねえ。わざわざ行ってくれた

のはありがたいけれど、ちょっと当てにならなくて……』

 

 あの日、応接間で優良が言っていた言葉がよみがえる。

  

 しかしせっかく無事に帰ってきた紗矢をあの離れにもう一度連れて

いくなんてありえないし、優良自身も前の体験がトラウマになっていて、

とても行く気にはなれない。それでホトホト困っているのだと優良はこぼしていた。

 

 そこで思わず富子は小言を言ってしまったのだ。


『ああ、もう仕方ないわねえ。お化けがどうこう以前に、緊急事態とは

いえ勝手に敷地に入ったのを家主さんにお詫びしないでどうするのよ! 

せっかく家に行ったのなら、外和山さんもせめて家主さんにご挨拶をして

これば良かったのに! まったく大人が二人もいて、そこに思い至らない

なんて……』


 その時の富子の言葉に、今やっと気づいたとばかりに、優良がパッと

顔を上げて謝罪の言葉を口にする。

  

『あっ、そうだった!……ごめんなさい』


 反射的に優良が胸の前で手を合わせて謝ったのは良いものの、本来手を

合わせる先は富子ではない。そう思うと富子は簡単に表情を崩せない。

それを見て取った夫が、すかさずフォローを入れる。


『まあまあ、母さん。優良も色々理由があったというし、その辺で……』


 しかしまた娘に甘い顔をする夫に、富子はますます呆れ顔になった挙句、

自ら啖呵たんかを切ったのだった。


『……分かった。私がその家に行ってくる! 菓子折りを持参して、家主

さんに事の次第を話して謝ってくるわ!』


 そして今に至る――引き換えに優良には、富子の付き添いのもとカウン

セリングを受けることと、困ったときには必ず富子たち夫婦に助けを求める

ことを約束してもらった。


 これは孫の紗矢を守るためにも、優良の心を守るためにも必要なことだ。

 だからこの約束をしてもらうためならば、くだんの屋敷に行くことなんて、

富子にとっては全然苦ではなかった。


 ――そして今に至る。

 

 住宅に囲まれた登坂を進んでいくと、遠くから緑の匂いが富子の鼻を掠める。

 確か件の家は林を背にしていたという話だったな――と思い出し、優良に

手書きで描いてもらった地図を確認する。


(うん。道は合っている。地図によると、その家はこの道の行き止まりにある

みたいね。着くのは、あと5分くらいってところかしら)


 順調に進んでいることに満足した富子の足取りは軽い。 

 周囲の一戸建てからは生活音も聞こえるし、時間もまだ昼前であるうえに

空はどこまでも澄み、あちこちからは自然の息遣いを感じる。

 何一つ、不穏な要素はなかった。

 

 当然のように障りとなるものはなく、少し歩くと両脇の住宅が無くなり、

更に数分進むと道は一軒の家で塞がれ、そこで終いとなっていた。改めて

地図で確認して、ようやく富子は胸を撫で下ろした。


(この家がそうなのね……。うん、間違いない)


 その家は林を背にした大きな日本家屋で、広い敷地の右手には母屋以上に

古そうな離れが建てられている。


 母屋の前に立派な門柱があり、「ひら」と書かれた木製

の表札が掲げられているものの、門柱の両脇には門壁はなく、訪問者は外から

でも敷地内をじっくりと見渡すことが出来た。


 全体的に色褪いろあせた外壁と長い年月のうちに黒ずんでしまった屋根

瓦は時間帯によっては暗い印象を見る者に与えるが、明るい日の下では、ただ

の年代物の家屋にしか見えない。少なくとも富子はそう思った。


 敷地内も、所々思い出したかのように雑草が顔を見せているだけで、庭木

の手入れはそれなりに行き届いている。庭仕事の道具やゴミなどが放置され

ていることもなく、家人の乗用車も玄関脇の車庫にピシッと停められている。


 離れだって、相当古そうな外観だがボロボロで廃屋同然という訳ではない。

損傷した箇所を修繕した痕跡が見られるので、家人が適宜手入れしていること

が伺える。だからこそ倒壊することなく、今の状態を保っているのだろう。


 ただ一つこれはあくまで偶然なのだろうが、一輪の赤い花が離れの前に

置かれていた。優良が目にしたものと同じかどうかは分からないが、随分と

しおれている。


 優良の話を事前に聞いているので、富子も少しは不気味に思わないでもなかったが、自分のやるべきことをさっさと終わらせることが先決だと気持ちを切り替えると、玄関の門柱に設置してあるインターホンを押した。


 ブーという最近では珍しい、一昔前の電子音が響き渡る。


 ……しかし、誰も出てこない。

 母屋の方を眺めても、中で誰かが動いている様子も、玄関の引き戸の内から錠を

開けようとする人影も見当たらなかった。


 もう一度ドアベルを鳴らす。

 ……やはり反応はない。

 

(……お留守なら、出直すしかないわね。もともと約束をしていた訳でもないし、

仕方がないわ)

 

 家主不在なら仕方がない。幸い季節は秋。汗だくになるほどの気温でもない。

 娘と孫がご迷惑をかけたのだから、これくらいの手間を惜しむ立場でもないし、

ここは一旦駅まで戻って出直そう――そう判断した富子は、家に背を向けると、駅に向かって坂を下り始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る