第8話 本当の家族

 暗闇の中、行きつ戻りつしていた意識が不意に像を結び、あの男の子の崩れた

顔が現れる。


『ずっと、ここにいて』


 同時にすがりつくように強請ねだる、あの可愛らしい声が頭の中に

響く。


 (そうだ。おねえさんの家に行って、それであの子、与太郎ちゃんが……)


 直前の恐ろしい記憶が急速に蘇り、悲鳴を上げて紗矢は飛び起きた。



「あ、あれ?」


 目の前に広がる見覚えのない光景に、紗矢は面食らった。

 天井も床も壁も一面真っ白な部屋には、ガラスを嵌め込んだ引き戸とクローゼットが1つずつ付いており、曇りガラスの付いた折れ戸もある。


 紗矢の家ではないし、保育園でもない。

 昔に行ったおじいちゃんや、おばあちゃんの家でもない。 

 知らない部屋だ。

 そして紗矢自身は、部屋の真ん中にあるベッドに寝かせられていた。


 紗矢が目をぱちくりさせて周囲を眺めていると、ベッドのすぐ傍から聞き覚え

のある声が叫んだ。


「紗矢! 紗矢、大丈夫? 痛いところはない?」


 紗矢の母親の声だ。

 いつものように感情を巻き散らすようなキンキンとしたものではなく、心の芯

から滲み出るような情を感じる声音だったので、はじめ紗矢は誰の声なのか分から

ず、ただキョトンとしていた。


 そんな紗矢の両肩を持って真正面から紗矢を見つめると、母親は涙が流れてファンデーションが崩れるのも気にせず、もう一度叫ぶように尋ねる。


「紗矢、大丈夫? 痛いところはない?」


「え? うん……」


 一瞬母親に怒られたのかと思った紗矢は、ビクッと身を震わせると、なんとか

返事をした。返事をしないと怒られると思ったからだ。


 そんな紗矢のぎこちない仕草に気づいた母親は怒ったような困ったような表情

になり、「ごめんね、ごめんね」と繰り返し、泣きながら紗矢を抱きしめる。

 だが肝心の紗矢は何が起きているのか、さっぱり分からず固まっている。 

 

 感極まってのことなのだろうが、ひたすら「ごめんね」を繰り返す母親の声は

怒っている時と同じくらい大きくて、外にも漏れ聞こえたらしい。

  

 看護師さんが「どうしました?」と紗矢と母親の居る部屋に入ってきた。

 そしてすぐに紗矢がベッドで半身起き上がっているのを見て取ると、「あ、さやちゃん、意識が戻ったのね。よかった! 先生を呼んできますね」と慌ただしく

部屋を出て行った。


 ほどなく看護師さんに先導されて白衣を着たお医者さんがやってくると、聴診器を紗矢にあてたり、脈をとったりと色々調べると「特に異常はないようですね。もう半日ほど休んだら帰ってもいいですよ」と言ってくれた。


 ここまで来て、ようやく紗矢は自分がどうやら病院にいるらしいことに気づいた。

 どこからか流れてくるツンと鼻につく薬品の臭いにも、そこでようやく合点が

いった。


 医者や看護師が出て行くと、母親は紗矢にベッドに横になるように優しく言って

くれた。

 素直に紗矢がベッドに横たわって掛け布団をかけると、その上から優しく撫でて「何か欲しいものはないか」とか「痛いところや困ったことはないか」とあれこれ

尋ねてくる。


 嬉しいけれど、ここ最近の言動とのギャップに戸惑いを隠せない紗矢は戸惑い、

まともに返事もできない。それでも母親はじっとしているだけの紗矢に飽きること

なく、話しかける。


 しばらくそうしていると、「これ、良かったら……」と、唐突に男の人の声が

した。紗矢は気づいていなかったが、実はずっとこの部屋にいたらしい「お父さん」が紗矢のベッドの頭側の端に歩み寄り、怪獣のシールを手渡してくれた。


 そのシールに描かれている怪獣のキャラクターは、どちらかというと保育園でも

男の子の間で人気があるキャラクターで、しかも少し前に流行ったものだった。

 それでも「お父さん」がくれた物だ。

 紗矢は「ありがとう」とお礼を言って、ありがたくもらった。


 紗矢が受け取ったことに安心したのか、「お父さん」はデパートのロゴが付いた

袋に無造作に入れてきたウイスキーボンボンをベッド脇のサイドテーブルに幾つか

置いた。


 かわいらしい見かけに、紗矢が手を伸ばそうとすると、「これは子どもには、まだ早いのよ」と母親が持参していたバッグに入れて、「お父さん」は少し悲しそうな顔をした。


「ふふふ」


 いつも怒っているような顔をしている「お父さん」の初めて見る姿に、紗矢は

思わず笑ってしまった。


 すると二人とも紗矢がびっくりするほど喜んでくれて、三人で思い切り笑った。

 それは母親と紗矢が「お父さん」と住み始めてから、初めてかもしれない、心の

底から三人で声を上げて笑った。


 その日から紗矢の母親は「本当のママ」に戻り、「お父さん」も色々お話をして

くれるようになった。


 話しているうちに、「お父さん」は子ども相手にどう接したら良いのか分から

なかっただけだということが分かると、紗矢も少しずつ自分の気持ちを伝えるようになれた。怖い大人だった「お父さん」は、少しずつ頼りになる存在へと変わりつつ

ある。


 母親も前のようにヒステリックに叱りつけることはなくなり、紗矢も一人で駅に

向かうことはなくなった。


 紗矢が意識を失ったあの夜、何があったのかは分からない。

 ただ1つ分かっているのは、紗矢が「本当の家」を手に入れたということ。

 これはあの日、紗矢があのお姉さんの家に行ってから起こった魔法の話。

  

 時折「本当のまま」になった母親は紗矢に尋ねる。

 「お姉さんと与太郎」の姿や夢を見ないかと。


 だから紗矢も答える。


 「見ないよ」


 本当は一度だけ、病室にいたとき、紗矢は部屋の隅で与太郎を抱いて笑っている

お姉さんの姿を見た。

 与太郎は少し寂しそうだったけれど、二人とも優しそうな笑顔を浮かべて紗矢の

家族を見守ってくれていた。

 

 その日以来、お姉さんと与太郎は紗矢の前には現れないし、夢の世界にもやって

こない。でも「本当の家」をくれた二人のことを、紗矢は絶対に忘れない。

  あの日の優しくて、ちょっぴり怖い、あの魔法のような日のことを。  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る