第6話 離れ


 駅構内を出ると、外はすでに夕暮れ時の黄味がかった街並みが広がり、人々は

それぞれの家へと急いでいた。

 少し歩くと紗矢と母親もその波にスッと溶け込み、家路へと急ぐ風景を構成する

1つになっていく。


 そうして店が並ぶ商店街から住宅街へと歩いている間も、母子はピリピリとした

空気をまとっていたが、温かい家路へと急ぐ人波に紛れて誰一人としてその違和感に気づく者はなかった。

 唯一人、紗矢だけが無言のまま圧を感じさせる母親に対して恐怖に身を震わせて

いた。


 だんだん家が近づいてくる。

 目の前の景色には戸建ての住宅ばかりが立ち並び、店は一軒もない。

 その中の分譲住宅が並ぶ一角にある白い家に、紗矢とまま、そして「お父さん」が住んでいる。


 分譲住宅だから隣近所は似たような外観と構成の家ばかり。

 そこに住む家族も、両親と子どもの核家族がほとんどで、子どもも紗矢と近い年齢の子どもばかりで均質化されている。

 だから紗矢たち一家は、この一帯ではごくごく平均的な「ザ・普通」の家族と言えよう。


 でも紗矢はこの家があまり好きではない。

 小さいマンションの一室だったけれど、前の家の方が良かった。

 それでも「もう逃がさない」とばかりに母親が強く手を引き、嫌いな家はどんどん近づいてくるのだから堪らない。紗矢の願いとはうらはらに、とうとう家の玄関先に着いてしまった。 


 ようやく着いたかと母親が大きなため息を吐きながら、玄関ドアの鍵を開けようと紗矢から手を放してかばんの中にある鍵を探し始める。


(いまだ!)


 その時、注意が鞄に向けられたのを見計らって、紗矢はそっとその場を離れた。


 しかし鍵を探して玄関ドアを開ける時間など知れている。

 紗矢が隣の家の前にある電柱に差し掛かったあたりで、ついに母親に気づかれて

しまった。


 「待ちなさい!」

 

 この前も妙な誤解を受けたばかりの母親が、隣近所をはばかっていつもより抑えた声で叫ぶ。


 でもこの機会を逃すわけにはいかない。 

 そのまま紗矢は当てもなく駆け出した。


***


 紗矢はとにかく走った。


 もう駅には行けない。

 しかし幼い紗矢は駅と保育園くらいしか道を覚えていない。


 (どうしよう。どうしたら――)


 迫ってくる夜と、母親に叱られる恐怖でパニックになった紗矢は、自然と涙がこみ

上げてくる。


 その時、駅で見たあの女の人がスッと紗矢の前に現れた。


100メートルほど先にある家の前に、まるで風景にいきなり描き加えられたかの

ように唐突に姿を見せたのだ。

 あの時とは違って、今度は紗矢を待っているかのように、こちらを見ている。


「お姉さん……?」

 

 驚いて涙も引っ込んでしまった紗矢に、女の人は優し気な笑みを浮かべながら

手招きをする。


 戸惑いながらも紗矢が近づくと、お姉さんはいつの間にか姿が消えて、また少し離れた場所に現れる。

 そしてまた手招きをする。


 女の人は紗矢をどこかへ誘うかのように、それを繰り返した。


(変なの……)


 そう思いながらも、他にすがるものがない紗矢は女の人に付いていった。

 道には他にも人が歩いていたが、誰も二人を気にしない。

 それも不思議といえば、不思議だった。


 そして街が陰りゆく頃、ようやく一軒の家の前に着いた。

 それは周囲の住宅からは少し離れ、木々の生い茂る林を背中にした広い

敷地をもつ古い大きな平屋の日本家屋だった。


 尋ねるように紗矢が女の人を見上げる。


 すると女の人はその家の敷地の中にある離れの前で手招きをすると、

その家に吸い込まれるように姿を消した。


 その離れは母屋以上に古そうで全体的に黒ずんでいたから、そういう家を

見たことがなかった紗矢は恐ろしくて足がすくんでしまった。


 古びた離れの前には、一輪のしおれた赤い花が置かれており、それもまたなんとも言えない不気味さがあった。 


 紗矢がその場で固まっていると、離れの格子戸がガラリと中から開いて、紗矢

よりも小さな男の子が現れた。その子は紗矢が夏祭りでしか目にしないような着物を着ていて、頭はくりくりの坊主頭をしている。

 珍しい格好に紗矢が驚いていると、男の子は嬉しそうに顔をくしゃくしゃにした

笑顔を浮かべて、両手で手招きをする。


 その動作があまりにも可愛らしくて、紗矢は怖がっていたことも忘れて家の中に入っていった。


 後に残された赤い花が侘しくその色を失っていく。

 夜はもうすぐそこまで来ていた。

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