第5話 勇気


少しずつ増えていく人波に期待を寄せて、紗矢は肩からかけたポシェットを

ギュッと握りしめながら一人ひとりの顔を確かめる。まだ背が小さな紗矢は時には

背伸びし、時には場所を移動しては見落としがないよう幼いなりに全力を尽くした。


 ――だが、それが逆に奇異に映ったのだろう。


 制服の大人が紗矢に話しかけてきた。


「お嬢ちゃん、誰かを待っているの?」


 いきなり声をかけられたことよりも、「大人」が自分に話しかけてきたことに

紗矢は戦慄した。紗矢の母親は他所の大人が紗矢に話しかけるのを酷く嫌う。


「うん。パパ、まってる」


 精一杯元気な声を作って、紗矢は答えた。

 内心おかしなところがないだろうかと気が気ではなかったけれど。


「一人で? おうちの人は?」


「さや、ひとりでまってる」 


 そう答えると、制服の大人の目が少しだけ鋭くなった。


(どうしよう。まちがえちゃったのかな……)


 紗矢の何気ない言葉から、大人たちは色々なことを読み取って、どんどん先走ってしまう。

 そうするとママの機嫌が悪くなる。

 今までの経験を思い出し、自然と紗矢の鼓動は早くなった。

 そんな紗矢の変化も見逃すまいとしているのか、大人は重ねて質問する。


「パパとお約束をしたのかな?」


 約束はしていない。


 でも嘘を吐くのはダメだと先生が言っていた。

 どうしたら良いのかわからず、紗矢は黙るしかなかった。 


「…………」


 この間も紗矢の周囲を行き過ぎる人たちの数は増えていき、心配と好奇の入り混じった視線を紗矢に送ってくる。

 それが自分を責めているような気がして、紗矢は一層落ち着かない気分になった。


「もう遅いから帰ったほうがいい。おうちの人も心配しているよ」


 紗矢の最も恐れていた言葉が、善意に包まれて投げかけられた。

 だから思い切って反論した。


「……そうかな。あ、でも、あのおねえさんも、さっきからまってるもん。さや、

ひとりじゃないもん」


 そう言って、先ほどから自分と同じく待ち人を探しているらしき女の人を

指差した。

 

 紗矢の言い分には、確かに少しだけ効果があった。

 指さした先に視線をやった相手の表情が少しだけ変わったのだ。

 だが目の前の大人は、なんとか紗矢を家に帰そうと次の手を打ってきた。


「もう暗くなってきたから、おまわりさんにお願いして、ご家族の方に迎えに来て

もらおうね」


 しかもよりにもよって家族に来てもらうなんて……!

 その言葉で、紗矢は以前に似たシチュエーションになった時のことを思い出した。


 そしてその後、家で何が起こったのかも。


「……っ」


 思い出した途端に、その時の感情が一気に紗矢を襲ってきた。


(いやだ。なんとかしないと)


 幼いなりに紗矢が真剣に考えていると、遠くに見知った姿が見えた。


(……ままだ!)


 気が付くと、無意識のうちに紗矢は駆け出していた。

 

 「あっ、ちょっと君!」


 後ろで男の人が紗矢を呼び止める声も無視して全力で走る。


 だが所詮は幼児。母親にすぐに追いつかれてしまった。

 腕を掴まれ、しゃがんで紗矢の顔を覗き込む母親の顔は、予想通り険しいもの

だった。


「まま……」


「紗矢、またここにいたのね! 勝手に出て行ったらダメだって何度も言った

でしょう!」


「ごめんなさい……」


 観念した紗矢は、まともに母親の顔を見ていられなくて下を向いてしまう。

 すると先ほどの制服を着た大人が、紗矢と母親の間に割って入ってきた。


 「あの、この女の子の保護者の方ですか?」


 二人は何か紗矢には分からない難しい話をしているが、母親の機嫌がみるみる悪くなっているのは、その表情からすぐに察した。


 この会話がどれだけ続くのか分からないが、その間になんとか切り抜ける方法を

考えなければ――幼いなりに紗矢が脳をフル回転させていると、緊張でいまだ

ポシェットを強く掴んでいる小さな手をフッと優しく握られた。


 その感触に「え?」と不思議に思って見上げると、いつの間にか横には、紗矢と

同じく誰かを待っていたあの女の人が立っていた。


 驚いた紗矢が固まってしまい、無言のまま見上げていると、女の人は穏やかな笑みを浮かべ安心させるように優しく紗矢の手を握りこんだ。その手が信じられないほど冷たくて、ますます紗矢は戸惑ってしまう。


 驚いたまましばらくそうしていると、制服の大人との会話を続けていた母親が

怒ったような一言を残して、紗矢の空いている方の腕を掴んで強引に歩かせようと

する。あまりにも強い力なので、女の人が握っていた手はするりと抜けてしまった。


 「あ……」と紗矢が思っていると、頭の中で「またね」とふんわりとした優しい声が聞こえたような気がした。


 そのまま女の人との距離がどんどん広がっていく。

 それまで固まっていた紗矢は、ここでようやく目が覚めた気がした。


 伝えるなら、今だ――。


 パパのときには、伝えられなかったのだから。

 だから紗矢は頑張って笑顔をつくって「またね」と女の人に向かって手を振った。

 

 相手の反応が心配だったけれど、それでもやらないで後悔したくなかった。

 びっくりしたけれど、あの女の人からは悪いものを感じなかったから。


 そして――女の人は照れているのか、小さくだけど手を振り返してくれた。


 やっぱり勇気を出してよかった。

 今この瞬間だけ、紗矢は本心から笑顔になった。

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