第4話 小説

 それでも僕はたまには学校に顔を出していた。連日のODと酒のせいで、頭は朦朧として、まるで夢の中のようで、危ない状態なのがわかるのか誰も話しかけて来ようとはしなかった、ただひとりを除いては。

「川名くん! わかってるでしょ。おかしくなってる。病院行こう」

 夏希だけは必ず話しかけてきた。そして、僕を病院に連れて行こうとした。その日も、教室を出たところで話しかけられ、人気のない校舎裏まで引っ張られた。

「心配してくれてんの? ありがとう。でも、大丈夫だから。これってつきあいでやってるだけだから、僕が自分でやりたくてやってるわけじゃないんだ」

 腕を切った痕は長袖を着ていても、ちょっとした拍子にばれる。シャツに血がにじんでいたこともあった。

「じゃあ、そんなつきあい止めなよ」

 全く正論だと思う。僕だって、逆の立場だったら、そう言うだろう。でも、止めるわけにはいかない。僕がいなくなったら、梨香はなにをするかわからない。

「それは……誰と付き合おうが僕の勝手だろ。こんなの遊びじゃん」

「やっぱり、おかしくなってる。ねえ、自分の腕や脚を見てもわからない? 普通の人はそんなことしないって。学校にも来てないし、なにやってんの?」

 夏希が僕の腕をつかんでシャツをまくった時、自分の腕ってこんなだったっけと不思議に思った。何本も切った痕が盛り上がって、気持ちの悪いでこぼこになっている。いつの間に、こんなになっていたんだろう。傍から見たら、僕もメンヘラに見えるんだろうな。でも、僕はおかしくなってなんかいない。梨香に付き合ってるだけなんだ。

「手が震えてるじゃない。それって離脱症状でしょ?」

 夏希が僕の腕をつかんだまま、にらむ。震えてる? 言われて初めて気がついた。ああ、ちくしょう。離脱症状って言葉を知ってるなんて、こいつはよく調べてる。

「なにを飲んでるの?」

「レキソタン、マイスリー、ロヒプノール、ブロン、ワイパックスもあった」

 やけくそになって答える。

「なにそれ? 薬の名前を暗記してんの? 完全に薬中じゃない。メンヘラとつきあってメンヘラになっちゃった」

 夏希の声が震えてる。僕は腕をふりほどくと、シャツを元に戻した。

「僕はメンヘラじゃねえ」

 なんでわからないんだ。こいつだってツイキャスを聞いてるはずだろ。それなら、僕が自分から進んでODやリスカしてるわけじゃないってわかるだろう。

「医者行こう。診察してもらえばわかる。その傷痕とODの話を聞けば誰だっておかしいってわかる」

「行く必要ない。自分のことはわかってる。あいつにつきあってやってるだけだ」

「だからほんとにそうなのか、医者に診察してもらおう」

 だんだん怖くなってきた。もし医者に行って、病気だって診断されたらどうなってしまうんだろう。そんなことは考えたくない。とめどなく不安が湧いてきた。絶対に医者に行かない。

「僕はキチガイじゃないって言ってるだろ!」

「あたしには、そうとしか思えない。メンヘラはうつるんだよ。お願いだから病院に行って、死んじゃうよ」

「おおげさだな。僕は大丈夫だよ」

「就職はどうするの?」

「就職? 僕は小説家になるんだぜ」

 どんどん不安が重くなって、身体が動かなくなってゆく。

「そんな夢みたいなこと言ってるの? あの学科出て小説家になる人は毎年ひとりいるかいないかだよ。みんなは、もう就職活動を始めてる」

 笑いがこみ上げてきた。

「あのさ。どうせ就職なんかしたって、底辺のまんまなんだ。わかってるんだろ? ろくな生活できるわけない。だったら、早く死んだ方がいい」

 そうだ。大学に行かなかったせいで、小説家になる以外の道はなくなった。専門学校のノベルコース卒業でまともな就職口があるわけがない。死ぬまで安い給料のバイトを続けることになるに決まってる。卒業生の過半数は、フリーターか派遣社員だ。

「やってみなけりゃわからないでしょ」

「さんざんやって、みんな死んでるだろ。嫌なことなんかしたくねえ。そもそも親の世代がヘマしたからこんなことになってるんだから、親の金で好きなことして死んだって文句ないだろ」

 わかりきったことを今さら言われたくない。思わず、声が大きくなった。だが、夏希の両目から大粒の涙が止めどなくあふれ出したので、怒鳴るのを止めた。

「川名くんには才能がある。必ず小説家になれる。だからなってよ。なってください」

 夏希は涙をぬぐおうともせず、僕をまっすぐに見つめたまま、そう言った。責められているようで、視線に耐えられなくなってうつむいた。

「才能があるなんて、なんでわかるんだよ」

「だって、すごくおもしろいし、感動する。あんなの私には書けない」

 なんて答えればいいのかわからない。ありがとう、と言いたいが、この状況では少しおかしいような気もする。とにかく恥ずかしい。

「だから、書き続けてください。苦しかったら、ちゃんと病院に行って治してください」

 夏希は僕に頭を下げた。友達だからって、なんでここまで僕のことを心配してくれるんだろう。そんなに言われても、今の僕には応えられない。この状態でいい作品を書ける気がしない。そのことに気がついて、死ぬしかないのかもしれないとふと思った。

「がんばる」

 口からウソが出た。がんばれない。今の僕はただ堕ちてゆくだけだとわかっているけど、そう言わざるを得なかった。

「ほんとに?」

「うん。心配させて悪かった」

 なんで思ってもいないことを言うんだ、と自分で自分に突っ込みながらも表向きまともなことを話し出していた。小説家になれず、梨香と一緒に狂って朽ち果てる未来が頭をよぎる。きっと自殺することになるだろう。梨香と心中する。不安だし、怖い。それなのに、薬と血で彩られた破滅の快楽に身体が震えた。夏希の言う通り、自分は狂っているのかもしれない。もう戻れっこないし、戻りたくもない。だって、こんなクソな学校にいて、小説家になれるわけなんかないだろう。


 鬱々とした気分のまま梨香の部屋に向かったが留守だったので、いったん家に帰ることにした。自分の部屋に戻ってからも沈んだ昏い気持ちは収まらず、無性にODしたくなった。やめとけと頭は止めるのに、止まらない。こんな落ち着かない苦しい状態でなんかいられない。どんどん死にたくなってくる。

 デパスをグレープフルーツジュースで飲んだ。そんなにすぐ効くわけじゃないから、冷蔵庫にあったチューハイ二缶を一気飲みする。少し酔いが回ってくるが、気分は最低のままだ。

 ぶつぶつ悪態をつきながら、書きかけの小説にかかった。僕にできる最後の抵抗手段だ。書いている間ずっと、「なんで無駄なことしてるんだ。小説書いたって受賞するわけないだろ。常識で考えてみろ」という思いに足を引っ張ぱられる。

 だが、書くのを止めるわけにはいかない。手を止めると、「ほら、やっぱり最後まで書き上げることもできない」という自分自身からの嘲笑を浴びることになるのがわかっている。書いている間だけ生かしてもらっている気がする。

 くそっ、ばかやろう、死ねとつぶやきながら、書き続ける。少し意識が朦朧として、気が楽になると手が止まった。そしてデパスをまた飲む。

 あれ? なんでまた飲んでるんだ? と思うのだが、もっと楽になりたい。もっと飲みたいという気持ちが強くなって逆らえない。

 気がつくと二シートも飲んでいた。いつの間に? と怖くなるが、すぐに飲んだものは仕方がないと開き直る。それより、小説を書かなきゃとパソコンに向かうが、画面はよく見えないし、手もうまく動かない。ふわふわして楽しい気分で小説なんか書いてらんない。

 その時、梨香がツイキャスを始めた。朦朧とした意識の中でカノジョのキャスを観た。いや、音だけだったが。

 僕の記憶は、そこから壊れている。梨香は僕が部屋にいないことをなじり、さみしいから誰でもいいから来てほしい、ウットとブロンを持ってきてほしいと放送した。

 それにとどまらず、再び住所と本名を口走り、数人のフォロワーが部屋まで駆けつけた。

 次の記憶は、最悪だ。梨香が、やってきたリスナーのひとりとセックスを始め、残りのふたり(おそらくガサキとつよぴん)は、掃除をしていた。

 止めようとは思わなかった。でも、僕もあそこにいなければならないはずだと強烈に感じた。梨香の近くで壊れてゆくさまをながめ、僕も一緒に壊れなければならない。

 立てる状態ではなかったけど、無理矢理立ち上がった。とにかくカノジョに会わなければという一心で身体を動かした。でも、うまく歩くことができず、気がつくと倒れていた。

 あとで聞いた話だと、僕は何度も立ち上がっては盛大にぶっ倒れるというのをひたすら繰り返していた。母親がその様子を見て、螺子の緩んだロボットみたいと思ったそうだ。

 母親は、とにかく僕がヤバイことになっているのはわかったけど、重篤な病気で動けないというのとも違うし、かといって放置しておいてはいけない気がしたので、とりあえず救急車を呼べばなんとかしてくれると思って一一九番した。そして僕はストレッチャーにくくりつけられて緊急搬送された。

 ストレッチャーにのせられてからも、「大丈夫だから」と言いながら何度も起き上がろうとしていたらしい。母親は、「ほんとに壊れたロボットってこんな感じなのかなあっていう感じ」と何度も同じことを言った。

 そのまま措置入院になってもおかしくないところだったが、幸い意識はちゃんとしていたし(ちゃんと受け答えしたらしい)、母親が大丈夫と請け合ってくれたので翌日いったん家に帰り、支度を整えて入院することになった。病院の管理下で心と身体を治すことになったのだ。

 このへんのことは後で母親から聞いた。僕自身の記憶は全くないので、自分が医師の質問にちゃんと答えられたのがすごく不思議だ。ずいぶん長く説教をされたようなのだが、それも全く記憶にない。

 さらに入院することになったのを医師から説明された時、僕はいたって普通の口調で、「いたしかたありません」と答えていたそうだ。「いたしかたありません」なんて言葉を使ったのは生まれて初めてだ。もちろん覚えていない。

 覚えていることもある。家に戻った僕は、スマホで梨香に連絡を取ろうとしたが、ツイッターでもLINEでも反応がなかった。ガサキのツイートを見て、やっとなにが起きたかを知った。

 あの放送の翌日、ガサキとつよぴんが掃除を終え、寝ている梨香をそのままにして部屋を出た後に、梨香は姿を消した。

「いろいろありがとう。探さないでね」

 という言葉を最後にツイッターでつぶやいた。そのツイートを見たガサキはあわてて部屋に駆けつけたが、もう梨香はいなかったそうだ。ガサキはどこかで梨香が自殺するつもりだと信じて、その場で泣き崩れてしまったという。

 DMでガサキにくわしいことを訊こうとしたが、彼もそれ以上は知らないようだった。

「梨香の周りにはクズがたくさんいた。オレもそのひとりだ。お前もそうだ。言い訳するな。被害者ぶるな。それから死ぬな。それが一番卑怯でクズなことだからな」

 ガサキは僕にそう言った。僕はなにも言えなかった。梨香がいなくなってしまった以上、僕も消えるしかないという気持ちになった。ウソをついてもよかった。「梨香のためにも生きる」くらい言うべきだったのかもしれない。

「わかんない」

 僕はふぬけだ。そんなことを言った。ガサキはなにも言わなかった。

 正直、その時の僕は感情に絆創膏を貼ったような状態だった。病院で処方された薬を服用したせいでぼんやりしていた。梨香を失ったことや、死にたいという思いがあることはわかるのだけど、強い感情と結びつかない。どくどく血が流れている傷があって、そこに直接触れれば痛みが走るけど絆創膏を貼ってあるから痛みを感じないで済む、みたいな感じだ。

 そのおかげで、梨香を探したいとか僕も消えたいとかという衝動に突き動かされることなく入院することができた。

 二週間くらい絆創膏を貼った精神状態で過ごすと、少しずつ薬を減らされ始めた。これがつらかった。絆創膏を徐々にはがすとむき出しの傷が痛みを訴える。まだ傷は完全に癒えたわけではないのだ。もしかしたらずっと癒えることはなく、死ぬまでこの痛みを引きずることになるのかもしれない。

 息ができないくらい苦しくなることもあるし、突然涙が止まらなくなることもある。

 梨香はきっと死んだから、僕も死ななくてはという思いが頭から離れない。その一方で死ぬのが怖くてしょうがなかった。自傷するのとは違う。なにもなくなってしまうんだ。それがどういうことなのかわからない。怖い。でも、死ぬ以外にもう残された道はない。どうやって死ぬばいい? 失敗したらどうする? そんなことばかり、ぐるぐる考えていた。

 離脱症状で手も震え出した。こんなことなら、薬の量を元に戻してほしいと願った。あれがあれば楽になれる。だが、それをやったら終わりだ。

 そんな時、夏希が見舞いに来た。ひどく不安そうで、悲しそうな顔をしていて、それが僕に向けられたものだと思うと惨めだった。学校のことや卒業後のことが頭に浮かび、恐怖を覚える。慰めの言葉を言われていたら、危なかったと思う。

 夏希はバッグから僕のノートパソコンを取り出すとベッドの脇のテーブルに置いた。

「おばさんに頼んで持ってきてもらった」

 どういうことだ? と思っていると、夏希は言葉を続けた。

「スパーク大賞に応募するって言ってたでしょ。締切は三週間後だよ」

 今さら、なんの話だ。こっちは生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ。いや、もう死ぬしかないだろ。身体がかっと熱くなった。入院して以来なかったことだ。

「なにそれ? それどころじゃないだろ」

「やっぱり忘れてた。言い訳してないで、書いて送らないと!」

「それ励ましてるつもりなの? 僕に書けると思う? お前、僕が今どういう状態かわかってんの?」

 怒りとか焦りとか諦念とか、いろんな感情がごたまぜになって、身体の中で渦巻き始めた。

「書け! 書いて!」

「無理。書けない。書いたって落ちるに決まってる。七千人も応募して、大賞を取るのはたったひとりだ。常識で考えろ」

 どれほど愚かなことに時間を費やしてきたか、バカみたいな夢に真面目に取り組んできたか、頭の中で自分を罵倒した。無理、無駄の合唱が頭でこだまする。

「やってみなきゃ、わからないでしょ。川名くんならできる。あたし、信じてる」

「勝手なこと言うな」

 気がつくと僕も夏希も泣いていた。もう声が出ない。

「あたし、諦めないから、川名くんも諦めないでよ」

 夏希は、声を詰まらせて、そう言うと帰った。


 僕がすべきことは小説を書くか、死ぬかのどちらかしかなかった。でも、実際に僕がしたのは、スマホで梨香の足取りを追ったり、梨香と一緒に撮った写真を眺めることだった。考えていたのは、薬をもっともらって楽になる、というクズなことだった。なんの解決にもならない。

 しばらくは、小説を書かなければという気持ちと、死にたいという気持ちと、薬で楽になりたいという気持ちがせめぎあっていた。減薬は無理だと医師に言うのは、ぎりぎりでこらえた。やがてノートパソコンに触れることができるようになった。

 ある日、気がつくと小説を書いていた。いつから書き始めたのかわからない。無心にキーボードを叩いていた。隣に人の体温を感じて、どきりとする。もちろん錯覚だが、梨香が横にいるみたいだ。

 無駄なことするな、梨香をひとりで死なせるのか、といった叫びが繰り返し頭の中で響いたが、書き続けた。書いている限りは、昏い沼に引きずり込もうとする声を抑えることができる。書くのを止めたら、死ぬと思った。

 それから一週間後に退院するまで僕は小説を書き続けた。見舞いに来た夏希は、僕が小説を書いていることを知ると、なにも言わずにしゃがみ込んで泣き出した。僕は夏希が泣き止むまで、何度も、「ありがとう」とお礼を言った。


 結局、一カ月間入院した。退院すると、すぐに僕は学校に戻った。

 だるい身体を引きずって学校に通う。幽霊みたいな顔をしていたと思う。鏡で見た時、あまりの顔色の悪さに自分でも驚いたくらいだ。

 学校では誰も話しかけてこなかった。全ての講義に出席し、家に帰るとひたすら小説を書き続けた。

 なんとか締切前に小説を完成させ、投函するとどっと疲れが出て、数日寝込んでしまった。

 結果が出るのは三カ月後だ。一次選考、二次選考、三次選考、そして最終選考。

 それぞれの選考を通過した応募者の名前は出版社の文庫本の折り込みに掲載される。僕は一次、二次、三次と勝ち進み、三カ月連続で名前が掲載された。発表のたびに学科はちょっとした騒ぎになった。応募するだけでもヒーローになるくらいのところだ。一次選考を通ったら、王子様扱いでみんなが「おめでとう」と言ってくる。三次選考に残った時は、受賞したかと思うくらいの大騒ぎになった。最終選考には残れなかったが、僕の勲章になった。

 結局は落選だったわけだから、ほめられても恥ずかしいだけだ。でも、気分は悪くない。時折、昏い気持ちに襲われて、死にそうになるけど、自傷もODもなしで、こらえることができるようになった。

「お前は、なんとかなるよ。書き続けろ」

 学校の廊下ですれ違いざまに、非常勤講師で現役の小説家でもある柳原に言われた。こいつと話をしたことは一度もないのに、なんで? と思った。

「オレはスパークの下読みをやっててさ。一次選考でお前のを読んだ。おもしろかったよ。最終まで行くと思ったんだがな」

 そういうことか。まさか同じ学校に下読みがいるとは思わなかった。

「ありがとうございます」

 とりあえず礼を言った。柳原は照れたような表情を浮かべると、なにも言わずにそのままどこかに去って行った。見られてる、と思った。僕はまだなにものでもない。それでも自分では気づかないけど、必ず誰かが見てる。ぼっちだと言っていた梨香に教えてやりたい。生きて、なにかをしてれば誰かが見てる。ひとりじゃない。人間はひとりぼっちなんかになれない。

 僕は、幸いに学校の非常勤講師に採用され、ライターの仕事もコンスタントに入るようになった。決して順風満帆ではないが、悪くない。書き続け、新人賞に応募しよう。

 卒業式の後で、夏希から告白された。悪いと思ったけど、すぐに断った。夏希は、それでもいいからセックスしてほしいと言いだし、そんなに処女を捨てたいならということで一緒にホテルに行ったけど立たなかった。

「ほんとに、どうしようもないクズ」

 夏希は泣きながら怒ったけど、今でも僕らは仲のいい友達だ。卒業してからは編集プロダクションでアルバイトをしている。あいつも夢に向かって着実に進んでいる。


 そんなある日、母親が出がけに、いとも自然な感じで、「死なないでよ」と口にした。笑って応えてスルーしようとしたが、言葉が出なかった。黙って家を出た。道を歩いていると、つがいの琉金の幻が見えた。幻覚ではなくて、ただ頭の中に浮かんだだけだ。

 息ができなくなった。とめどなく涙が流れ出し、空が落ちてきたような喪失感が襲ってきた。車道を走る車の音がひどく大きく聞こえ、遠くで梨香が呼んでいるような気がした。視界が暗くなり、身体が動かなくなった。指一本動かせない。

 なにも考えられず、ただ泥のように黒く重いものが身体中に充満しているようだった。その状態がしばらく続いた。このまま死んでしまうのかもしれないとふと思った。不思議と恐怖は感じなかった。

 それが収まると、急に周囲が明るさを取り戻した。無性になにかを書きたくなる。

 生きろ。生きて書き続けるんだ。どんな人間だって、ぼっちじゃない。そのことを梨香に伝えたい。会えなくても、きっとどこかで僕の書いたものを読んでくれる。そう信じてる。



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つがいの琉金 一田和樹 @K_Ichida

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