第3話 アキレス腱

 その日の夜、梨香からLINEで部屋に来てほしいと連絡があった。少しだけ迷ったが、結局行くことにした。

 部屋に入ると、床にコンビニで買ってきたらしい食べ物が散乱していた。今朝、ガサキたちが掃除したはずなのに、もう汚している。しょうがないなあと思いながら部屋に入る。

「ねえねえ。シーザーの小説読んでみた。ネットにあったヤツ」

 すでに酔っ払っているらしい梨香の言葉にどきりとした。

「ほんと?」

「ああいう言葉は好きだな」

 梨香はそう言うと、僕の小説の中のセリフをいくつかそらんじた。うれしいけど、恥ずかしい。

「……ありがとう」

 僕が梨香の横に座ると、スマホがツイキャスの画面になっていることに気がついた。

「放送してるの?」

 頭が真っ白になった。一瞬、身バレしたと思ったが、梨香が読んだのはシーザー名義でアップしたものだから大丈夫だった。

「うん。音声だけだから安心して。ねえ、みんなもシーザーの小説読めよ」

── シーザーってワナビだったのか

── 朗読!

 リスナーは勝手に盛り上がっている。やめてくれ。百人以上が聴いているんだ。一斉にけなされたら立ち直れない。

「朗読? どーしよーかなー。あ、でも、あたしスマホで読んだからきっとキャス切らないと読めないや」

 ほっとした。

「でも、気に入ったセリフだけ、メモしたんだよ」

 梨香はそういうと、子供のような笑みを浮かべて僕にメモ用紙を突きだした。コンビニで買ったばかりのものだ。僕のために買ってきてメモしたのかと思うと、胸が苦しくなった。

「なんか、うれしい。ありがとう」

 小説をほめられるとなんかいくらでもあった。学校ではいつもそうだ。でも、この時は心の底からうれしくて声がうまくでなかった。梨香にも、それがわかったみたいで、「ほんとに大好き」と言いながら僕に抱きついてきた。


 僕はそれからほとんど毎日梨香の部屋に遊びに行くようになった。梨香は時間に関係なく、僕にLINEを送り、呼び出す。可能な限り、行くようにしたのだけど、授業で行けないことだってある。そんな時、梨香はツイキャスを開き、口汚く僕を罵った。

 今日来るという約束を破った(もちろん、そんな約束はしていない)。他の女と会ってるに違いない。手軽にやれそうだから中出しして逃げた最低の男。ほとんど言いがかりだ。

 授業を受けながらこっそりイヤホンで放送を聞いた時は、あまりのひどさにショックを受けて、すぐに梨香の部屋に向かったほどだ。部屋に入ると梨香は喜び、それから僕に謝った。「もういいよ」と僕が言っても梨香は謝るのを止めず、髪の毛をかきむしり、号泣しはじめた。こうなると、僕にはなにもできない。

 なぜ、梨香にここまでのめり込むのか自分でもわからなかった。放っておけないという気持ちはあるけど、それはきっとウソだ。だって、僕がいなければガサキやつよぴんが助けに行くだろうし、他にもそういうヤツはいるだろう。

 そのことがわかっているのに、さんざんウソをつかれ、罵られ、面倒を押しつけられているのに離れられない。

 日に日にカノジョはやせ衰え、汚くなっていった。汚いというのは身体のスタイルとかのことじゃなくて、風呂に入らないからだ。髪の毛もぼさぼさだし、ヤバイ。何度か無理矢理風呂場に連れて行って、シャワーを浴びせて洗った。身体を洗うこと自体は嫌いではないらしく、僕にされるがままになっていた。まるで介護をしているみたいだ。

 ツイキャスをやらない時はODか自傷行為をし、その様子をツイッターでつぶやいたり、LINEで僕に知らせてくる。こんなかまってちゃんに付き合っていたら、時間がいくらあっても足りないとわかっていたけど、放っておけない気持ちになり、その都度僕は梨香の部屋まで行くハメになった。

 一番つらかったのは、時々、梨香が文字が読めなくなって泣くことだ。ODをしすぎると字の読み書きができなくなる。見えているのに読めないって感覚はわからないけど、きっとすごくもどかしくてつらいんだろう。

「どうしよう。あたし、字が読めなくなっちゃった。シーザーの言葉が大好きなのにもう読めない」

 そう言って泣かれると、身体がちぎれるくらい痛かった。比喩じゃない。僕は梨香に、「薬が抜ければすぐに治るから大丈夫」と言いながら強く抱きしめ、寝かしつけると自分の脚や腕を切った。そうしないと落ち着かなくなっていた。


 学校をたびたび休んでしまったが、ほんとどの授業は出席しなくてもなんとかなるし、そもそも卒業する意味もない学校なのだ。

 そして梨香と会えば酒とODに付き合う。時には一緒に自傷して、血まみれになる。記憶があいまいだけど、笑いながらおしっこを引っかけ合ったり、土下座する梨香を踏みつけたり蹴ったりしたこともあったと思う。梨香は謝るのが好きで、もっと好きなのは謝っても許してもらえずお仕置きされることだ。

 土下座して許しを乞う梨香の首を絞めながら、「お前は最低のキチガイだ」と耳元でささやいて思い切り耳を噛んだ。

 首の絞め方は梨香から教わった。

「やり方を教えてあげるから、首絞めてよ」

 梨香はそう言うと、僕の首筋を両手で何度かさするように確かめた。時々、くいっと軽く押す。強く脈打っている箇所を探しているんだろう。手が止まって、ぐっと押してくるのがわかった。

「頸動脈の場所がわかった?」

 と言おうとした瞬間、意識がなくなった。視界が暗転し、ものすごい勢いで見たことのない風景が迫ってきて、それから通り過ぎていった。なんと表現すればいいのかわからない。世界がぶつかったような映像だった。

 目を開けても、頭が働かなかった。しばらくどこにいて、なにをしていたのか思い出せない。

「わかった? いいでしょ?」

 確かに他では体験できないものだ。それから僕は、習った通りに梨香の首を絞め、気絶させた。ほんの少し長く絞めれば死ぬ。それを絞める方も絞められる方もわかっているのが、脳みそが痺れるくらいほどにどきどきして興奮する。

 首を絞めるのは僕らのお気に入りの遊びになった。

 たまに他のリスナーさんがやってくることもあったし、僕が部屋に入ると梨香が複数のリスナーさんと乱交していることもあった。最初はひどくショックで、彼らを殺したいと思ったが、何度か繰り返すうちになれた。梨香が他の男とセックスしているのを見ることにも快感を覚えるようになった。カノジョを罵り、殴り、首を絞め、身体を切って犯した。

 世の中には寝取られを好む人もいるから、僕の趣味の範囲が広がったということだ。決して特別異常なことじゃない。

 一日のうち、梨香が正気な時間は限られている。夕方以降は酒か薬もしくは両方が入っているし、朝はそれが抜けずにどんよりしている。昼のごくわずかな時間だけ、ふつうに会話することができる。そのわずかな時間に、僕は梨香のことをいろいろ知った。

「ここにひとりで住んでるの?」

「うん。親を追い出した」

「追い出した?」

「あそこの金属バットで素振りしたら出て行って近所のマンションで暮らすようになった。おもしろいよね」

 なにがおもしろいのかよくわからないし、そもそも素振りすると出て行く理屈も不明だ。正確には金属バットで梨香が暴れて、親を追い出したのだろう。

「仲は悪くないんだ。お金が足りなくなったら、金属バット持って親のところに行くとお小遣いをくれる。優しい親でしょ。あと病院にも一緒に行ってくれる」

 ほんとに仲がいいのかすごく気になったが、訊かない方がよさそうだ。それにしても、梨香の親は今の状態をどう思っているのだろう。どうするつもりなんだろう。梨香本人に、これからのことを考える力がないのは明らかだ。頭が悪いとかってことじゃなくて、将来のことを考えると不安が爆発してODや自傷に走るから無理ってことだ。

 でも、梨香が言うことはつじつまが合っていないし、平気でありもしないことを言ったりする。どこまで本当で、どこからが妄想あるいはウソなのかわからない。本人もわかっていないのかもしれない。

 ガサキのツイキャスに遊びに行った時に聞いた話では、梨香には家族はおらず、風俗をしていて暮らしているということだった。でも、それだって聞く度に実は弟がいたとか、少しずつ話が変わっているそうだ。本当のところは誰にもわからない。

 わかるのは僕らの想像できないような生活を送ってきて、今はひとりぼっちで暮らしているということだけだ。ネットで知り合った人以外に知り合いはいないらしい。


「あんたも病院に行きなよ。障害者手帳もらうと、交通費安くなるし、医療費も割引になるし、美術館や映画館は本人と付き添いひとりまで無料だよ。日本政府公認のキチガイになれる。プライドを捨てる以外のデメリットはないよ」

 梨香に病院を勧められたことがある。

「僕、病気じゃないよ」

 僕がそう言うと、梨香は笑い出した。

「メンタルクリニックって、病気を治すとこじゃないんだってば。あそこは来た人間に病名をつける場所。だからどんなヤツでも行けば必ず病名をもらえる。病気でない人間なんていない」

「そうなんだ?」

「そう。で、病名つけたら、ひたすら薬をくれる。治す気なんかないんだよ、あいつらには」

 でも、やっぱり公認になるのは怖かった。狂気のライセンスは確かに便利そうだったけど、それを持つ覚悟が僕にはまだなかった。

 そんな日々を送ってしばらくすると、僕にも琉金が見えるようになった。梨香に言えば立派な相互依存の沼に落ちたということだ。心の病というのは、一種の流行病(はやりやまい)なのかもしれない。僕は徹底的に感染した。

「僕たち、同じ琉金を見ているのかな?」

「そうなんじゃない? だいだい色でしょ?」

「だいだい色だ」

 そうだ。琉金はだいだい色だった。不安で昏い白い壁を泳ぐ、つがいの琉金。


 その時の僕は健常者のつもりだったけど、傍から見れば完璧なくらいにメンヘラの条件を満たしていたんだろう。生活は不規則、感情は不安定、ODするし、自傷もする。そうなのだ。僕は自宅でも、ODや自傷をするようになっていた。はっきりした理由はなかった。時々不安になったり、苦しくなったりすると、してしまう。不安も苦しさは、梨香と知り合う前だってあったはずなんだけど、もうどうやって我慢できたのかわからなくなっていた。ODや自傷の方が手っ取り早く楽になる。なにもなくても、なんとなくやってしまう。日常生活の一部になっていた。

 僕は自分のおかしさに気がつかないくらいに、おかしくなっていたけど、梨香は僕より早いスピードで壊れていった。そして梨香の依存のかなりの部分が僕に向けられるようになってきた。正直、僕も怖くなることがたびたびあった。

 ある夜、足に違和感を覚えて目覚めると、梨香が僕の足を撫でていた。

「あたしはぼっちなんだよ。シーザーしかいないんだって。だからシーザーもあたしだけにして。ずっと一緒にいて」

 泣きながらそう言って、頬をつま先にすりつけている。よく見ると、手にカッターを持っていた。ぞっとした。

「なにしてんの?」

「アキレス腱を切ろうと思って。これがそうでしょ?」

 梨香はぴったりジャスト僕のアキレス腱に触れた。悲鳴をあげそうになった。完全に目が覚めた。

「ウソでしょ。なんで?」

「そうしたら歩けなくなるじゃん。ずっとこの部屋にいてくれるでしょ」

「歩けなくなるって……梨香、大丈夫? なに言ってんの?」

「あたしと一緒にいてくれるって言ったよね。あれウソ? ウソついたら怒るよ」

「いるよ。今だって一緒にいるじゃん」

 僕はそう言うと、梨香はカッターを部屋の隅に投げ捨てた。

「ごめん。ごめんね。あたし、本当にどうかしてる。許して」

 そして土下座、殴打、首絞め、号泣する梨香を抱きしめ、貪るように互いに傷つけ、血をなすりつけ合いながら愛し合った。こんなことを続けていられるわけがないというのはわかっていた。いつか終わる、最悪の形で。漠然とした予感と不安の中と、それでもいいという諦念。

 梨香はずっと、「死にたい」、「シーザーと一緒に死にたい」と言い続け、僕はその呪文に完全にからめとられていた。

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