第5話 ……ううん。必要なことだから


 本校舎4階は、研究室棟になっている。


 2限が始まっているこの時間に、ここを通る学生はほとんどいなく、静けさだけが漂っている。


 そんな中、通路付近に用意されたフリースペースで、俺は項垂れていた。


「あぁぁぁ〜〜……あのクソ教授まじで許さねぇ」


 悪態をついてはみるものの、普通にショックだった。

 単位がもらえない……それが、5月もはじめのこの時期に確定してしまう––––大学生なら、これがどういう状況か分かるだろう。


 落とした科目の分も、他の講義に力を入れる必要が出て来る。

 それだけ力を入れても、落とした科目が足を引っ張って成績が伸びない。やりがいがない。


「現在進行形で許されてないのは倉本くんだけどね」


 テーブルを挟んだ向かいの席で、頬杖をつきながら青山が言う。


 2限が空きコマのこいつは、まだ諦めきれないのか俺についてきやがったのだ。


「まるで他人事のようだなぁ? 残念女ぁぁ……!!」


「残念じゃないから! 朝もそれ言ってたよね!?」


「モテるのに彼氏ができないお前が残念じゃなかったら何なんだ?」


 そう言い放ってやると、青山の顔がぷるぷる震え出した。


「わ、私はお願いする身……我慢……我慢……!!」


 お、なんか面白いぞ。


 どうやら青山は、多少のことなら我慢してくれるらしい。なら……


 ニヤリと口角を上げ、俺は攻め立てる。


「そうだよなぁ? さっきから、人に物を頼む態度じゃなかったよなぁ?」


「そっ、そんなことは……!」


「誠意が感じられねぇな? せ・い・い・が!」


 ふぅ……ちょっとスッキリしたぜ。


 頬を赤く染めながら俯く青山を見て、満足して腕を組んでいると––––


「わっ、分かったよ。本当は、はじめては好きな人とって決めてたけど……」


「え?」


 弱々しくそう呟いた青山は、テーブルに手をつき、俺の方へと身を寄せてきた。


「ここで立ち止まったら、その先はないもんね。……だったら、こだわってなんかいられないよね……」


 目に涙を浮かべながら、青山は顔を近づけて来る。

 そうすると、今まで見ようとしなかったところにまで目が行くようになる。


 身を乗り出したことで、重力に逆らえずにその存在感を放つことになった胸元。

 いつになく真剣な眼差しに、小物雑貨みたいに小さい鼻、少ししっとりとしている唇といった、青山の顔を形作る一つ一つのパーツ。


 さらには、僅かに揺れた首元の茶色い毛先から、なんとも言えない良い香りまでもが––––


「……おい。待て何してる。やめろ……やめろよ? フリだよな? そう言うネタだよな?」


 その場から動けずに、青山の冗談であることを祈るが……


「……ううん。必要なことだから」


 青山はそれを認めない。それどころか、俺と青山の距離はどんどん近づき––––


「……なーんてね? どう? ちょっとはどきどきしたかな?」


 鼻と鼻が触れ合う直前で、青山は身を引いた。

 あろうことか、くすくすと楽しそうに笑っている。


「……あ?」


 そしてこいつは何を言っている?


 激しく脈をうつ胸を落ち着かせながら、青山を睨む。


「これなら、彼女持ちの男の子も落とせちゃったりするかな? どう思う!?」


 にっこにっこで詰め寄る目の前の女を見て、俺は全てを理解した。


「横恋慕じゃねぇか!! ……あと、俺はどきどきしてないからな」


 こいつ……っ!! 俺で試しやがったな……クソ教授もろともぶっ飛ばしてやる……!!


「だよねぇ……あれ、でも倉本くん顔赤くない?」


「怒ってんだよ!! 紛らわしいことすんな!! 危うく、協力するって言いそうになったじゃねぇか!!」


 ……ったく、油断してたぜ。これもこいつの作戦の一つか。

 だが、乗り切った。これでもう、俺がこいつに協力する必要は––––


「あはは、心配しなくてもよかったのに。こんなことしなくても、用意はできてるからね」


 だが、青山は悲しむそぶりすらなく、むしろ達成感に満ちた顔をしていた。


「……用意? お前、何言って––––」


「……単位、欲しいんだよね?」


「……何のつもりだ」


「法律事例、必修だもんね。来年、一年生に混じって講義受けたくはないもんね?」


 色々デメリットを解説したが、結局はこれが1番のデメリットだ。

 2年になった俺が、新入生と一緒にまた一年あのクソ講義を受ける––––こんな辱めはない。


「だから、何のつもりだ……!!」


 にこにこと不敵な笑みを浮かべている青山が、なぜだかとても大きな存在のように見える。


「私が、教授に頼んであげるよ」


「そ、そんなことであいつが……」


 言いかけて、考えた。


 あのクソ教授、やけに青山を気に入ってたな……もしかして……!


「ていうか、もう頼んでおいたんだ」


「まじか!?」


「うん。講義が終わった後にね。任せておきたまえ! って言ってたから、多分大丈夫だよ」


 あのむっつり教授め……!! だが助かった……これで俺の大学生活の平穏は守られる。


「そうか……ありがとな」


「いいよ、お礼なんて」


 ん? なんだ、こいつ意外といい奴––––


「私たち、パートナーなんだから」


 にっこりと微笑むその姿を見て、俺は固まった。体も、心も両方だ。直後、押し寄せる恐怖に体を震わせた。


 あの筆談も、俺が声を出すように誘導するような煽り言葉も……先を見据えて教授に話をつけていたことも……全て、この女の思惑通り……?


 そう思うと、背筋の寒気が止まらなかった。


「これから、一緒に頑張ろうねっ!」


 昨日今日で1番の笑顔だった。

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