第23話 黒い小箱
ナイラが家に辿り着く頃には、既に日を跨いでいた。
一日中動き回った上に耳を酷使した彼女は、疲労困憊していた。
着替えもせずにベッドに倒れ込む。が、大聖堂で緑の液体を浴びたことがやはり気にかかり、気力を振り絞ってシャワーを浴びた。
十五分して、浴室から裸のまま出てきたナイラは、バスタオルでまず獣の耳を拭くと、真っ先にヘッドホンをつけ、壁際にある木製の引き出しを開けた。
その中には、ナイラの住むオンボロアパートには不釣り合いな品物が入っていた。
黒い正方形の小箱……
リュウレンの秘書、エリスが持っていたものと同じ、小型の高級共鳴器だ。売ればこのオンボロアパート百件分を超えるだろう。
慣れた手つきで端末を操作し、髪の水分を拭き取りながら呼び出し音を待つと、やがて懐かしい声が聞こえてきた。
「そろそろかなと思ってました」
「出所の日以来だね、アンナ」
共鳴器の先に繋がっているのは、特務二課長のアンナだった。
「どうですか、シャバの空気は」
「汚くて臭くて埃っぽい」
「地上の宿命ですね」
彼女はお淑やかに笑って言った。
「今日はどうでした?うちの二人、良い子でしょう」
「……まぁ否定はしないけど、もう少し疑う心を持つように教えた方がいいと思うよ」
笑い声が聞こえる。
「ニコラのことは聞きましたか?」
「うん。驚いた」
「そのことは二人には?」
「言ってないよ」
「それでいいと思います。特に正義漢のシバくんに知られると、色んな意味で面倒くさそうですから」
「面倒?」
「まぁ、関わっていればわかりますよ」
彼女との会話は、ナイラの心を和らげた。まるで家族との会話のように思える。
ただ、電話をかけたのは、雑談をするためじゃない。
ナイラは本題を持ちかけた。
「そっちの方はどう?ニコラには、その、連絡ついた?」
「いえ、相変わらず繋がりません。慎重な方ですからね」
「そっか」
ナイラは複雑な表情で聞いた。
「あのさ、そのために私を選んだの?」
「え?いいえ?」
共鳴器からは意外そうな声が聞こえていた。
「だってあなたもニコラには会ったことないでしょう?これは本当にちょっとしたアルバイトのつもりですよ」
「そう」
ナイラは少し安堵したように息を吐いた。
「でも、全然ちょっとしてないよ、この仕事。一般人に頼むには危険すぎ」
「何をおっしゃいますやら。場合によってはシバくんたちより強いくせに」
「それは私だからだし、別に――」
そのとき、ナイラの耳がピクリと音を捉えた。
遠くから、こちらに駆けてくる足音だ。
「誰か来てる……。切るね」
ナイラは答えも聞かず共鳴器を切ると、元あった場所へ隠した。
足音は通り過ぎるかと思いきや、アパートの階段をけたたましく鳴らして駆け上がってくる。
警戒して扉を注視していると、錠をしていたはずの扉が破壊音と共に勢いよく開いた。
「キャアッ!何⁉」
ナイラは猫のように本能的に後ろへ飛び退いていた。
扉の先にいたのは、鳥一匹の足を握り、目を輝かせたシバだった。
「ナイラ!」
「ちょっ、来ないで!怖い怖い!」
「聞いてください!手がかりが見つかったんです!」
「私着替えてないから!ストップ!」
ナイラが片手でバスタオルで体を隠し、片手を掌を出して止めた。
シバはきょとんとした顔で足を止める。
「か、鍵は……?鍵かかってたでしょ?」
「鍵?」
シバは金属製の錠前が吹っ飛んでいるのを見つけると、頭に手をやって困ったような顔をした。
「あちゃあ、また壊しちゃった。後で弁償しますね。それでなんですが……」
「待って、なんで話進めようとしてるの?私、裸なんだけど」
「はい」
二人は数秒見つめ合った。
「だからなんですか?」
ナイラは呆気に取られて彼の顔を眺めたが、その希望に満ちた目には一切の穢れも見つからなかった。
「ハァ……」ナイラは諦めてバスタオルを体に巻きつけながらぼやいた。「パジーの気持ちが分かってきたかも」
「何ですか?」
「なんでも」ナイラはどっかと椅子に座ると、ぞんざいに尋ねた。「で、どうしたの」
彼はイキイキした様子で中断していた話を続けた。
「さっき帰ったら、署から伝話鳥が返って来ててですね。すごい情報をくれたんです!」
「そう」
「再生しますね」
彼はまるで狩りの成果のように手に提げていた伝話鳥を机の上に立たせると、足先をツンツンと突いた。
すると、うとうとしていた鳥は目を見開いて、突然絶叫し始めた。
――――――――――――――――――――
次話、第二章が終わります。
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