至多幸

隣り合わせにある不思議

朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。


いま思えば、あれが僕を新しい世界へと導くために必要な一言だったと、どこまでも青く広がる大きな空と果てなく続く大地を見上げて「うーん」と大きく体を延ばした。濃い緑をまとった風が鼻先から体の中へと心地よく駆け抜けて、僕は更に新しく生まれ変わったような気分になる。

「おはようございます。山田さん。今日もいい天気ですね」

背後から明るい声で話しかけてくれた女性に、「おはようございます」と笑顔を返すと、僕はプレハブ小屋の筋交いにかけていた軍手を手に取った。

「今日も気持ち良く働けそうですよ」

操作方法をようやく覚えたトラクターに大きく足を上げて乗り込むと、シートにどっかりと座って、僕は目の前に広がる広大な畑一面を目を細めて見つめた。地面から込み上げる猛烈な土の匂いに、さらに心は満たされ癒されていく。

長い間、四角いビルの中で日光にも当たらずに決まった姿勢で黙々と働き続けた体は、立ったりしゃがんだりと忙しなく動き回る動作ですぐに筋肉痛を起こして、移り住んでからすぐのころは産まれたての小鹿のようにぷるぷると体が震えて、娘によく笑われた。不健康に白かった肌もこんがりと焼けて、いまでは色白だった頃のことを思い出す方が難しいくらいだ。

今日もよろしく頼むよ相棒と声を掛けるように「よしっ」と気合を入れると、僕はキーを捻ってエンジンをかけた。

幼い娘は新しい環境に少しずつ慣れてきてくれているようだ。通い始めた保育園でも、保母さんからだいぶ笑う時間が増えてきましたよという言葉を聞いて、僕はようやく大好きなおじいちゃんおばあちゃんから彼女を引き離してしまった後ろめたさを拭い去ることが出来た。とはいえ、面会は許可しているし、理解のある彼らのことだ。連絡をすれば前の妻にはなにも言わずにきっと娘に会いに来てくれるだろう。

「張り切るのは良いですけれど無理しないで下さいね。ゆっくり新しい世界に馴染んで行けばいいんですから。あっ、山田さん!タオルは服の中に入れないと!機械に巻き込まれたら大変ですよ」

そう言うと、女性はふっくらとした体型とは対照的に機敏に動いてトラクターの足場に足をかけて、僕の首からだらしなくかけていたタオルを服の中に入れてくれた。そっと首元に触れた掌の柔らかさに、長い髪をゆるくしばったうなじから感じる色気に、勝手に胸がドキンと高鳴り思わず身を引いてしまい、その仕草に女性のほうも何かに気付いて「あっ」呟くと、恥ずかしそうにトラクターからすぐに降りた。

「ご、ごめんなさい。私ったら、本当に馴れ馴れしくて…」

「い、いえ、そんなこと…。こちらこそありがとうございます」

朝日を浴びているからだけではない真っ赤に染まった頬を互いに見て、照れ隠しながら笑い合う。全ての事に極上の幸せを感じながら、僕は帽子をキュッと目深に被った。

「無理はしません。もともと無理は出来ない体なんです。でも、ここにきてから体の調子がとても良いんですよ。体を動かしているせいか、毎日の御飯がすごく美味しく感じるんです。とくに、その、た、田中さんの作ってくれるオニギリがとても美味しくて、今日もそれが楽しみで働きに来ました」

「やだ…、そんな、誰でも作れるようなおにぎりですよ」

やめてくださいと恥ずかしそうにブンブンと手を顔の前で扇ぐ女性にたまらなく愛おしさが増した僕は、思わずトラクターから飛び降りて抱きしめなくなってしまう。いかんいかん、今は仕事中だぞ!と自分に言い聞かせるように大きく息を吐くと、僕は高ぶる気持ちをなんとか落ち着かせた。

「本当ですよ」

イケメン俳優のようなキザなセリフは言えないけれど、いま自分の中にある彼女への思い全てを言葉に乗せて彼女を見つめると、それに同意するように頬を赤らめてこくりと頷いてくれた。

彼女の旦那さんの三周忌を終えたら、僕は結婚を申し込むつもりだ。…というより、娘が「早くお母さんになってほしい」と彼女にせがんでいるので、ひょっとしたらもう少し日程が早まるかもしれない。でも、急いで結論を出すことは無いんだ。だって、僕の人生はようやく始まったばかりなのだから。

「じゃあ、いってきますね」

「いってらっしゃい」

その言葉が、なによりも自分に幸福をもたらしてくれている。


僕は幸せ者だ。

でも、少し前の僕は不幸のどん底にいた。


僕たちは幸せな結婚をしたはずだった。


たまたま僕の住む田舎町に旅行していた妻が、一人で飲むのもつまらないからと居酒屋で隣り合った僕に話しかけてきたのが、きっと不幸の始まりだったのだと思う。彼女は僕に一目惚れしたと言っていたけれど、互いに酔っぱらっていたはずみの勘違いだったのではないかと。彼女からの猛烈なアタックを受けてスピード結婚をし、出だしこそ順風満帆だった僕たちの関係は、三年も経つ頃には暗礁に乗り上げて沈没寸前のタイタニック号のようだった。


田舎から彼女の住む都会に移り住み、彼女のために頑張って名のある企業に就職し、頭にたくさんの汗をかいて働き、そこそこの暮らしをさせてあげいたはずなのに、妻はいつしか不満そうな顔をして次第に僕を避けるようになった。そのうち二歳の誕生日を迎えた娘ばかりを抱かせてくれなくなり、自然と子供も僕を嫌がるようになった。


僕の何がいけないのか、理由を聞いても妻は「自分の胸に聞いてみたら?」と冷たく言って突き放し、機嫌を損ねるとすぐに子供を連れて実家に帰り、僕が両親に頭を下げて彼女たちを迎えに行く。そんな生活を送るうちに、だんだんと僕の心には疲れが溜まっていき仕事にもやりがいを見つけられなくなっていた。


そんなとき、以前から病気を患っていた母が亡くなってしまった。


母子家庭で楽な生活ではなかったけれど、いつも僕の事を励まして元気づけてくれた母がいなくなってしまい心にぽっかりと大きな穴が開いて、さらに僕はその穴から奈落の底に向かって落ちて行ってしまった。代わり映えのない毎日に生きる意味を無くし、最近会話が少なくなり目も合わせてくれなくなった妻や生活の全てから逃げるように、朝は日が昇るとすぐに家を出て会社に行って、夜は妻と娘が寝静まった後に帰宅し、嫌なこと全てを忘れるために働くようになった。


なのに、最近の僕は雲の中で生きているかのようにぼんやりとすることが増えて、仕事もミスが目立つようになり上司に何度も怒られた。いつもと同じように、変わりなく仕事をしているはずなのに、出来上がった書類はなぜか数字を間違えていたり、大事な取引先の人の名前まで間違えて入力していた。


上司も僕を営業に連れて行かなくなった。そこから、どんどん僕の世界は暗さを増していったような気がする。真っ暗な世界は冷たく、匂いも色も無い、それこそ終わった世界の中でただ牢屋の中で死を待つ囚人のようで、心臓が鼓動を叩かなければ本当に機械になってしまったかのような気持ちに何度もなった。


その日はなにかの記念日だったと思う。なんの記念日だったかは忘れてしまったけれど、自分にとっても『彼女』にとっても大切な記念日だった…ということは覚えていた。


自分の何が悪いのかは分からなくても、せめてものお詫びと日々の感謝の気持ちを込めて、僕はエキナカの花屋さんで買った小さなブーケを片手に帰宅を急いでいた。僕らの数少ない記念日を少しでも祝おうと、積み上げられた仕事を二時間の残業でなんとか終わらせて家に着くと、僕を待ち構えていたのはガランとした真っ暗な部屋と食卓の上に緑色の枠線が引かれた書類が一枚、そしてパソコンで打ち出された手紙となにかの日程表だった。

『実家に帰ります。あなたとの生活に疲れました』

そんな一文と共に今後の手続きが淡々と記されたスケジュールを見た瞬間、なにかが割れる音が胸で響いた。漫画のよく見る、心臓がパリンと割れる音が空間に書き込まれているのは、物語を劇的に見せるために見せる手法の一つだと思っていた。


でも、この時僕は自分の心臓が割れる音を初めて聞いた。


パサッとブーケが玄関の床に落ちた。砕けた心臓と共に、ずっと耐えていた何かも脳の中でぷちんと一緒に切れてしまった。


何を食べてもなにも味を感じなくなったはいつからだろう、どんなお笑い番組を見ても笑えなくなったのはいつからだろう、それよりも人の声が雑音にしか聞き取れずに言葉として認識できなったのはいつからだろう…。


何も考えられずに幽霊のようにフラフラと歩いていた僕の目の前に、気が付くと赤く明滅するランプの光が血の雨のように降り注いできた。


カンカンカンと鳴り響く遮断機の音が溜まらなく美しいファンファーレのように聞こえて、降りてくる踏切はまるで皺ひとつないスーツを見に纏った執事たちが自分に向かって敬礼しているように映り、その先の道は光り輝き天国へと誘うかのようにキラキラとして輝いて見えた。


近付く電車の車輪の音も、ざわつき始めた人々の声も、僕にとっては天使が祝福して間もなく訪れる明るい未来をくれているように思えた。


「大丈夫ですか?」


サッと腕を掴まれて、僕はハッと我を取り戻すと傍らに立つ女性を呆然と見つめた直後、目の前をゴーッと車輪を高速回転させた電車が轟音を鳴らしながら通り過ぎて行った。

「あぶないですよ」

自分は今なにをしようとしていたのだと、急にバクバクと心臓が鳴りはじめると、意思とは関係なく体がガクガクと震え出してその場にしゃがみ込んだ。このところぼんやりすることが増えていたけれど、まさか電車に飛び込もうとするなんて…。

周りにいた人々はみんなそろって怪訝な顔をしていたけれど、やがて遮断器が上がると各々に線路の上を歩き始めていた。腕を掴んだ女性以外、誰も僕に声をかけようとせず、むしろなにも見なかったような素振りで立ち去って行ったのを見つめていると、僕の口からハハハ…と乾いた笑いが出た。


世界は誰も僕を見ていない、僕を必要としていない。

僕はなんのために生きていたんだろう…。


「あの。もし良かったらお茶しませんか?」


そんな、地獄の底に落ち切った僕の心に、空から微かな光が差し込んだ。顔を上げると、先程声をかけてくれた若草色のスーツを着た女性が僕を見つめていた。僕の行動を見て、心配にさせてしまったのだろうか?でも、それくらいあまりにもすぐに死にそうな顔をしていたのかもしれない。

「そこにコーヒーショップがありますから。ね。少しあたたかいものを飲んで落ち着きましょう」

見ると、自分より少し年上に見えたその女性はお世辞抜きでとても綺麗な人だった。吹けば消えてしまいそうな僕と比べて、ビジネス雑誌の表紙を飾れそうな存在感があり、どこかの大手企業で人を束ねているような、そんな懐の深さを感じさせる雰囲気も持っていた。部下を労わるような顔で覗き込まれた僕は、まるで保育士さんに手を引かれる幼児のようにコクリと頷くと、言われるがままにコーヒーショップに入って行った。

けれどしばらくの間、僕たちはなにも言葉を交わさなかった。

自分から言う事も無く、女性の方もなにも聞こうとしなかった。

どれほどの時間が経過したのかもわからないほど互いに無言のまま向かい合って座っていた僕は、「そろそろ閉店の時間なんですが…」というウェイターの声に、ようやく俯いていた顔を上げた。そして、今更思い出したかのようにキョロキョロと店内を見渡すと、やっと自分が先程なにをしようとして今この場にいるのかを理解して慌てて目の前の女性に深く頭を下げた。

「あ…、あの、このたびは本当に…」

「いいんです、気にしないでください」

やさしく包み込むような声と、すべてを受け止めるかのような眼差しに、僕は何も言えなくなりまた俯いてしまった。こんなに冴えないサラリーマンに一体何時間付き合わせてしまったのか、周りで見ていた客も店員もきっといぶかしがっていただろうと、僕は猛烈な恥ずかしさに襲われた。


いや、そもそもは今日は大切な記念日だったはず。

まったく、なんという記念日になってしまったのだろう。


そうだ、今日は結婚記念日だったじゃないか…。


玄関に捨てるように置いてきたブーケと仕事用のカバンがふと脳裏に浮かんだ瞬間、僕はハッとしてスーツの胸ポケットに手を入れた。まさぐるように慌てて取り出したカードケースに入っているのは、薄っぺらい電子定期券だけだった。急用に備えていくらかお金をチャージしているはずだけれど、それほどの額は入れていなかったはずだ。その前に、この喫茶店は最初に注文するシステムだったはずで、この時になって僕はようやく自分が一銭も払っていないことを思い出した。

「す、すいません、僕なにもお金を…!」

「いいんですよ、誘ったのは私ですから」

「い、いえでも…。あの時に声までかけていただいて、そのうえご馳走になったら…」

「なにか、お辛いことがあったんですか?」

言葉を遮るようにようやく僕の事をたずねてきたその人は、「あぁ、すいません」と言うとポーチの中から深いグリーンに染め上げた名刺入れを取り出すと、淡いベージュのマニキュアが綺麗に塗られた指で一枚つまむと、コーヒーが置かれたカップの隣にそっと置いた。

「私、こういう仕事をしているものでして」


七日であなたを生まれ変わらせる

マインドリリースカウンセラー

伊田 香


差し出された名刺を見てわかりやすく表情を変えた僕に、香さんはわかりますと言わんばかりに「変な宗教じゃないですよ」と少し困った顔で微笑みながら言葉を返した。

「勧誘の為にあなたをお店に誘ったわけでもありません。弱った心に漬け込んで印鑑や壺を売ったりしませんから、そんな顔しないでください。職業柄、あなたのような方を見る機会が多いので、ちょっと放っておけなかっただけです。ほかに深い意味はありませんよ」

思っている事をそのまま言葉にされると僕は何も言えなかったけれど、香さんはテーブルの上で手を組んで小首を傾げて、先程とは違う安心させるような笑顔を浮かべた。この人はいくつもの笑顔を実にうまく使い分けているなぁと感心している僕に、香さんは直球の質問を投げかけてきた。

「死にたい気持ちになるほど、辛いことがあったんですか?」

勧誘はしない…と言っておきながら、こういう商法もあったぞと少し冷静な気持ちを取り戻した僕は、魂の抜けきっていた瞳に「その手にはのらないぞ」と残されていた僅かばかりの力を込めて、香さんを見返した。

「ですから、なにも売りつけませんって」

先程とはまた違う笑顔を浮かべた香さんは組んでいた手を解くと、テーブルの背もたれに深く寄りかかった。

背後から「お客様…」と申し訳なさそうに、しかしこれ以上の時間は融通を利くつもりはありませんよという気持ちが滲み出ているウェイターを視線で制した香さんは、「わかっています。もう出ますから」とテーブルに置いた自分の名刺を手に取り席から立ち上がった。そのまま僕のそばまで来ると、彼女は掌に名刺をねじ込ませるように握り、僕の目をじっと覗き込んできた。

「ですがもし、またご自分の命を投げ出したくなったら、その前にこの番号に電話をかけてくださいませんか?いえ、かけると約束してください」

「え?あ…いや、あの…」

先程までの柔らかな眼差しから突然瞳に力が宿り、有無を言わさぬ強さを感じた僕の心はいささか怯み、狼狽した。

「あなたの命を私に一週間ください。私のカウンセリングセミナーに納得いかなければ、一週間後に投げ捨てるなりお好きになさって構いませんから」

がっしりと握られた手は思いのほか強く、僕は彼女の不思議な輝きを持つ瞳にだんだんと恐怖に近い感情がこみ上げてきたものの、香さんの真剣さに手を振り払うことが出来なかった。

「料金は一週間で七万円です。慈善事業で行っているわけではないので、一日一万円換算です。現金一括先払いで頂戴していますが、これ以外の費用は一切戴いておりません。ちょっと高いビジネスホテルに一泊二食付きで泊まるくらいの料金です。実際、とある場所で一週間寝泊まりします。食事は三食付いています。それ以上も以下もありません。これ以外の費用はかかりませんし、印鑑や奇妙奇天烈なスピリチュアルグッツを売りつける事は絶対にありません。なにかの契約書に押印させることも勧誘もありません。新しい人生を七日かけて七万円で手に入れられるなら安いと思いませんか?ですが、自分の価値が七万円にも満たないものだと思ったのなら、どうぞ迷う事無く旅立ってください。もしも、そんなことはないと少しでも思ったらお願いです、必ず私に電話をかけてください」

「は…、はぁ…」

半ば脅迫に近い香さんの迫力に僕は気圧され、そのままどこかへ連行されるのではと思ったけれど、このあと香さんはあっけなく僕の手を離し、「それでは」と軽く会釈して席に戻りカバンを取ると、そのままお店を出て行ってしまった。店内から街のネオンの中に颯爽と消えていく彼女の後ろ姿をしばらく目で追いながら、僕はこんな変な出会いもあるんだなと思った。


香さんとはこれっきりの関係で終わるんだろうなと思った。不思議な人もいるもんだなと。でも僕は、数日と経たずに彼女に電話をかけていた。


「離婚の意思はなんとか受け入れようと思いました。でも、娘には絶対に会わせないと言うし、おまけに莫大な額の慰謝料を請求されまして…」


ぽつりぽつりと身の上を話しながら、僕は畑で収穫したばかりの大根についた泥をホースの水で洗い流していた。

帰宅した後にいつもどおり彼女の実家に電話をかけたところ、それまで困りながらも許してくれていた義理の両親から烈火のごとく怒られ、不甲斐ないと責められた。弁解に家に行っても面会を許されずに追い返され、ほどなくしてスマホにかかってきたのは、妻の代理人を名乗る弁護士を名乗る男の無慈悲な言葉の数々だった。彼は毎日僕のスマホに電話をかけてきて身に覚えのない話を延々と捲し立て、無視しようとしたら『何も言わなければ、こちらの意見に全て同意したとみなします』というメッセージまで送ってきた。

なので、僕は彼の電話に出ざるを得ず、しかし向こうの言い分を聞きっぱなしで僕の釈明と弁明はまったく聞いてもらえないばかりか、浴びせられる噓八百の言葉たちのほうがそのうち真実のように思えてきた。

僕の方が本当は悪い人間のなんだと、そんな人間のどこに生きている価値があるのだろうと、仕事帰りにぼうっとしたまま駅で電車を待っていた僕は、気付くとふらふらとホームの黄色い線の外側に向かって歩いていた。だけど、電車が入ってくる直前に不意に先日の香さんの言葉を思い出し、僕は寸でのところで身を翻してホーム側に倒れるように転び、また命拾いをしたのだ。

数十分後、「よく連絡してくれました」とベンチに座り込んでいる僕のもとに駆け付けてた香さんの瞳は真っ赤に腫れていた。そのまま僕を強く抱きしめて何度も「良かったです、本当に良かった」と涙声で言ってくれて、僕が生きてくれていた事を心から喜んでくれているのが理屈抜きで肌越しに伝わると、砂漠のようにカラカラに乾ききった目にもようやく熱いモノがこみ上げて、久しぶりに僕は泣くことが出来た。

そのまま香さんの車に乗せられた僕は、関東の山深い限界集落のような村に連れて来られた。車から降りて小さな民宿に招き入れられると、そこには七万円で人生を変えに来たという老若男女四人がフロントのソファーに腰かけて僕らの到着を待っていた。

どの人も人生に絶望して自ら命を絶とうとしていたところ、香さんに声を掛けられて踏みとどまった人たちだった。みんな通夜のような暗い顔で目を合わせることも挨拶も交わすこともなく、簡単なオリエンテーションが行われた後はそれぞれ振り分けられた部屋に入り、翌日の朝食まで誰も部屋から出てこなかった。

翌朝も重苦しい雰囲気の中で食事の時間が始まり、そして香さんがテレビの電源がつけた後、あのニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言うビデオが流れて、僕たちの『セミナー』は始まったのだ。

僕はてっきり、香さんの行うセミナーは薬物依存者やらアルコール中毒者が行うような、椅子を車座に置いてディスカッションやグループワークをするものだと思っていた。ところが蓋を開いてみると、それはセミナーというよりも農村移住体験のようなプログラムばかりで、僕らをまず待ち受けていたのは、寝泊まりしている民宿を経営する傍ら、兼業農家もしている田中さんの畑で野菜を収穫することだった。

パソコン、スマホ、外部からの接触は禁止、恋愛はセミナー期間が終わるまでは禁止、午前六時半起床、午後九時就寝、午前八時から日が暮れるまで農作業や近所の高齢者施設などでボランティア活動し、それ以外は自由というゆるいセミナーは、やがて僕の凝り固まってしまった冷たい心をゆっくりとほぐしていってくれた。

おそらく都会を離れて自然の中で規則正しい生活を送り、少なくない人々に日々感謝されていくことで、愛情が枯渇していた僕の心にエネルギーが注がれたのだと思う。それは他の人たちも同じだったようで、日を追うごとに元気を取り戻し、同じ死に損ないという境遇を持っている僕らは、五日も経つ頃には農作業の合間に互いの身の上話を出来るほど打ち解けあっていた。

「クサイなぁ…」

そう言ったのは、激務の為に人も物事も探索するのが嫌になってしまった探偵のオジサンさんだった。

「クサイ…ですか?」

「ああ、あまりに話が綺麗過ぎて気持ち悪い。山田さん、アンタたぶん奥さんに嵌められてるよ」

「私もそう思うわ」

続けて相槌を打ってきたのは、上司から新人いじめともとれるほど就職早々無理難題な案件を山のように押し付けられて心を壊し、気付けば人を弁護出来なくなってしまった弁護士さんだった。

「だってさぁ、山田さんはとてもそんな事するような人には見えないもの。それに向こうの弁護士、何かあなたの性格を分かって追い詰めている気がするわ。…っていうか、本当に弁護士なのかしら?」

洗った大根を両手に大根を抱えていた弁護士さんは、「うーん」と何かを思案しはじめた。

考える力が著しく低下していた僕の頭は、共同生活を始めたほかの参加者の名前をなかなか覚えることが出来ず、そのことにすぐ気が付いた香さんが職業名称で呼んでも構いませんか?とお願いしてくれたので、僕は他の参加者の人達を職業名で呼ばせてもらっていた。

「ねぇ、山田さん」

僕らの会話を黙って聞いていた、仕事とは関係ない派閥争いに巻き込まれて人間不信になり、そのせいで人を診れなくなったお医者さんが声をかけてきた。

「あんたさぁ、ひょっとして気分安定薬を飲んでないかい?」

「いえ、薬はなにも飲んでいませんよ」

「そうかなぁ…。あんたの症状は正常者が気分安定薬を飲んだ時に出る症状とよく似ているよ。ちょっと聞くけれど、これまで普通に暮らしていたはずなのに、ある日を境に突然気分が落ち込みやすくなったとか、仕事でミスを重ねるようになったりとかしていない?」

言われて僕はまだまだぼんやりする頭で振り返ると、確かに数か月前に突然気分が落ち込んだ日があった。それを心配した妻が、翌朝から元気になる効果があるというハーブティーをポットに入れて持たせてくれるようになり、それはどんなに関係が冷めていっても彼女が家を出て行ったあの日までずっと続けてくれた習慣だった。そのこともあって僕はまだ妻の事を嫌いになれないんですとみんなに話すと、ますます四人の表情は険しくなった。

「なあ、山田さん。変な事を聞くけれど、奥さんが素っ気なくなったのっていつ頃?体調が悪くなる前後で急に変わったとかない?」

いろいろと話ながら、僕はだんだんと疑問を抱くようになってきた。まるでみんなは妻が故意に僕を陥れようとしているみたいじゃ…。でも、あのハーブティーを飲むようになってから、仕事でミスが増えて上司に怒られることが増えてきた気がする。何度も確認したはずの文言も間違うようになったのもそれからで…。

その頃にあった出来事を思い出しながら話していた僕は、ふと何かに気付いて、「あっ」と言った後に思わず俯いた。

「あんた、なにか思い当たる節があるんだな」

セミナーが始まってからずっと、あまり言葉を挟むことのなかった警備員さんが睨みつけるように僕の顔を見つめてきたので、思わず「ひっ」と体を震わせた僕は持っていた大根を地面に落としてしまった。

「あぁ、すまんなぁ山田さん。つい昔の癖が出ちまった…」

「あんた…、ただの警備員じゃねぇな?」

すまなそうに落ちた大根を拾って手渡す警備員さんを、今度は探偵さんが睨みつけるように見ていた。それは、ぼやけた頭の僕でもわかる『仕事人』の顔だった。ふたりはしばらく無言のまま視線を交わしていたけれど、そのうち警備員さんのほうが顔を逸らすとボリボリと面倒くさそうに頭をかいた。

「俺さぁ…、むかし刑事やってたんだよ。せっかくあこがれの仕事に就いたってのに、毎日悲惨な死に方した人の後処理してたら病んじゃってさ…。で、今はビルの夜間警備をしているってわけ。いやそんなことより山田さん。あんた、なにか思い当たる節があったんだな?」

たずねる警備員さんに、僕はこくりと頷いた。

「僕の気分が落ち込むようになる少し前に、会社の人たちとバーベキューパーティーをしたことがあったんです。妻は専業主婦で娘とずっと家で過ごしているので、気分転換になればと思って家族みんなで行ったんですけれど…。たまたま同僚と妻が大学で同じサークルだったみたいで、ふたりともすごく驚いて昔ばなしで盛り上がっていたんです。僕の妻は…、その…、ものすごくキレイな人で、昔は男性によくモテたそうなんです」

「それで、付き合ってみたらDVまがいの事をされたり、ストーカーまがいの行為を受けて私とっても傷付きました。ちやほやしてくれる男なんて信じられません、人も信じられません。人生に疲れたので旅に出ます。…って、悲劇の少女になった可哀想な彼女は、傷心旅行先で純朴青年の山田さんに会って一目惚れしたわけだ」

まるで傍で見ていたようにスラスラと言葉を続けた弁護士さんを唖然として見たあと、「そのとおりです」と僕は頷いた。

「箱入り娘のジコチュー女がよくやる事よ。ちやほやしてくれる男が嫌になって真逆の男を好きになったのに、それが安定しちゃうと今度はつまらなくなって昔ちやほやしてくれたオトコに走っての繰り返し。たぶん、奥さんはその同僚と不倫していると思うわ」

不倫という言葉が僕の胸にグサリと突き刺さった。彼女を信じたい気持ちと、信じられない気持ちが振り子時計のように大きく揺らぐように、僕の体も震え始めた。しばらく言葉を失ったのち、僕は観念するようにぎゅっと瞼を閉じた。

「実は…」

口から出た言葉まで情けない事に震えていた。それは、これから言う言葉が僕がずっと田舎育ちの世間知らずで、かつ気弱な男だと感じていた自分自身のコンプレックスを、嫌でも認めることになるから。そして、実はそうなんじゃないかと微かに疑っていたことが、現実のものになる恐怖からくるものでもあった。

「妻と同じサークルだった同僚は…、僕の直属の上司なんです…」

僕を取り囲む三人の顔が段々とそれまでの穏やかさから『仕事人』の表情に変わっていることに、僕は次第に息苦しさを感じるようになってきた。ようやく平穏を取り戻しかけた心にさざ波が立ち、自分の馬鹿正直な性格がなんだか無性に悲しくなって、情緒不安定な僕の目にはまた水が勝手に溜まり始めてきたことに気付いたお医者さんが、「山田さん、ゆっくりと息を吐いて」と背中を安心させるように擦ってくれた。

「あぁぁぁぁっ!!」と、じれったそうに言った弁護士さんは、「ごめんなさい、傷をえぐるような事を言って」と、強張る僕を見て申し訳なさそうに頭を下げた。

「人間のイヤなところばっかり見る仕事が嫌になって、同僚との点数稼ぎにも疲れ果てて人生投げ出そうとしていたのに…。山田さんを見てたらなんだかほっておけなくて。ほんっとつくづく私ってバカな人間」

「ったく、オレもだぜ。山田さんの話を聞いていたら昔の血がたぎっちまって助けてあげたくなっちまった」

「俺もだ。逃げ出したはず人生にまた戻ろうとしていたよ」

探偵さんと刑事さんも肩の力を抜いて謝ってくれたおかげで張り詰めた空気がふっと緩み、僕はまた冷たくなりかけた心を温め直すことが出来た。けれどこのあと、「でもね」と弁護士さんが言ったその一言で、再び空気が一変した。


「やっぱりほっとけないわ、山田さん。あなた一人がこんなひどい目に遭うなんて、やっぱりおかしい。死に損ない仲間の一人として、私、あなたを助けたいって猛烈にいま思っているの。私、決めたわ。七日を待たずに『いま』これまでの世界を終わらせて、私は生まれ変わらせてもらうわ!!」


そう突然断言した弁護士さんは、真っ白に洗った大根をぐいっと天にかざした。

「帰ったら私、すぐに事務所やめて独立する!これからは、客も仲間も全部自分で決める!山田さん、あなたが新しく生まれ変わった私の顧客第一号よ。でもこれは自分の為に好き勝手やらせてもらうお仕事だから、お金なんて一銭もいらないわ!」

しばらく彼女の様子をポカンとして見ていた僕だったけれど、言葉の意味を噛み砕いて理解していくうちに、視界がひどくクルクルと回り出した。

「ちょっ、ちょっと待ってください」

「いいのよ、山田さん。これまでバカみたいに仕事してお金を使う暇も無かったから、通帳の中身は潤沢なの。だからお金のことはなにも気にしないで。調査した結果次第じゃ、奥さんに非が無くて山田さんのほうが悪いかもしれない。でも今のまんまじゃ山田さん一人が悪者になっているこの状況が解せないの」

弁護士さんはそんな僕をお構いなしに大根を脇に挟み込んで僕の両手をワシッと握りしめた。

「どっちの言い分が正しいのか、それをはっきりさせたいのよ。山田さんのために、そして私のためにも。おねがい、私にこの問題を解決するお手伝いをさせてちょうだい」

それまで誰とも目を合わせようとしなかった弁護士さんはいま、キラキラとした眼差しで僕を見つめていた。彼女はいまこの瞬間に確かに生まれ変わった。その眩しさに、僕はわけも分からず今度こそ目に溜まっていた涙が頬にこぼれて、思わず「ありがとうございます」と頭を下げていた。

「俺もそうさせてもらうよ」

そう言った探偵さんの顔も、何かが吹っ切れたように明るい表情になっていた。

「袖振り合うもなんとやらって言うだろ?こんなところで会ったのも、なにかの縁だ。すっげー久しぶりに仕事がしたくなっちゃったから、俺にもなにか手伝わせてくれよ。リハビリ兼ねてだからギャラなんていらねぇよ」

「探偵さん…」

「山田さん。俺にもなにか手伝わせてくれないか?下手したら…、いや、実際に山田さんは二回自殺未遂を起こしている。それが飲んでいたお茶のせいだとしたら、これはれっきとした事件といってもいい。なに、刑事は休職扱いだから、復職してウラ取ったら必要な書類揃えてやるよ」

「警備員さん…」

僕の肩にぽんと手を置いた警備員さんが力強く頷いてくれたのを見て、暗雲が立ち込めていた僕の人生にも心にも木漏れ日が射してきた。

「私はなにもしないからね」

そんな僕らに水を差すように、これだから若いもんは…と言わんばかりにやれやれとお医者さんが溜息をついた。

「みんなして、そんな一銭にならないことやってどうすんのさ。ようやく元気になって来たってのに、下手したらみんな勘違いでまた逆戻りするかもしれないのよ?私はなにもしないわよ。でもまぁ、ずっとなにもしないってのも体が鈍っちゃうから、日記を書くついでに診断書の一枚くらいは書いてやってもいいわよ」

あぁ、めんどうくさいと言いながらニヤリと笑うお医者さんに、僕たちはみんなで笑いあった。

「あぁ、もうこんな時間!全然予定していた数の大根洗ってないじゃないのよ」

晴れ渡る空のように、それまで世界の終わりにいた僕らには、いま確かに新しい人生の扉が開こうとしていた。


「いかがでしたか?七日間プログラムは」


村を離れる日の朝、朝食を終えた後にコーヒーを出しながら聞いてきた田中さんに、僕は困ったように笑った。自然と笑えるくらい、僕は元気になっていた。

「古い世界は終わった気がします。裁判がどうなるか分かりませんが、でもどちらに転んだとしても僕は『新しい世界』で生きていくつもりです」

あれから農作業の時間は僕らの作戦タイムに早変わりした。それぞれが『元の世界』に戻った後、まず僕はお医者さんの診断を受けて、その間に探偵さんが裏を取り、それらの情報をもとに弁護士さんたちが書類をまとめるということでとんとん話が進んだ。

そんな僕らに、香さんも田中さんもなにも口を出してはこなかった。彼女たちは場所を提供して間違いを起こさないように手助けする以外、なにもしてこなかった気がする。

田中さん自身、以前に香さんに『救われて』その恩返しにと自身が経営している民宿をセミナールームとして提供している人なので、各々の事情というものがわかって敢えて口出しをしてこなかったのかもしれない。

香さんのサポートはもちろんあったけれど、この七日間セミナーが充実したものになったのは田中さんの力が大きいと密かに僕は思っている。田中さんの素朴さや化粧っ気も飾り気もないところが僕らにあった緊張感をほぐしてくれたし、そんな自然体の彼女だからこそみんな自然に振舞うことが出来るようになっていた。

僕自身も、派手好きでどこかヒステリックなところがあった妻にはない田中さんの温和な人柄に癒され、人間不審になりかけた心を多分に慰めてもらっていたので、なんとなく田中さんとこのまま別れたくないな、という気持ちにもなっていた。


この七日間で僕らの世界は大きく変わった。


弁護士さんは、いろんな施設で顔見知りになった人たちから、ちゃっかりいくつかの案件を請け負っていた。弁護士もいない小さな村なので、疑問に思っても聞けない事がいろんな人の胸の内にあったらしい。「かわいい案件だけれど、駆け出しの弁護士にはちょうど良いわ」と彼女は笑って言った。

警備員さんとお医者さんは、村長さん直々に村に残ってほしいと打診されており、いまは無人になっている交番と診療所を無償で譲渡するからというおまけにもつられて、かなり前向きに移住を検討しているそうだ。

良くも悪くもどこかふらふらとしていた探偵さんは、その潤滑油的な存在感が結構好評だったようで、探偵の仕事と駆け持ちしながら、このまま村に残って施設で働くと言っていた。


どの人も最初に会った時とは見違えるほどに生き生きとしていた。本当に生まれ変わったようで、明日から始まる新しい人生に向けて明るさを取り戻し前を向いて歩き出していた。


「『新しい世界』というか…、僕の場合は元に戻るだけですけれど」


僕にとってのこの村で過ごした七日間は、いかに自分が無理をして妻と付き合いながら過ごしてきたかというのを、嫌というほど実感させられた毎日だった。妻に合う人間になろうと必要以上に自分を作り上げて、随分と無理な生活をしていたことにようやく気が付いた僕は、裁判の結果がどうであろうと彼女とやり直そうという気持ちはすっかりなくなっていた。ただ、幼い娘のことだけが心残りだった。

「会社をやめて田舎に帰ります。冴えない僕にはそれが一番相応しい生き方だったんですよ。間違いを犯す前に、それを知ることが出来ただけでも良かったです」

ハハハ…と乾いた笑いを浮かべながら、僕はコーヒーを一口飲んだ。正直なところ、この先に待ち構える離婚訴訟は劣勢から脱却しつつあるものの優勢になる証拠はまだ得ていないし、『もしも』だらけの状態では未来を輝かせる希望はうすらぼんやりとしたものだった。しばらくは退職金片手に、仕事にかまけてほったらかしにしていた実家の片付けかな、というぼんやりとした未来しか僕の道先案内板には書き込まれていない。

「そんな…。冴えないなんて言わないでください。山田さんはとっても立派に働かれていましたよ。人にも野菜にも、ずっと丁寧に優しく接していたのは山田さんでした。誰でも出来そうなことと思われるかもしれませんが、なかなか出来ない事ですよ」

「いえ、あんなことは昔からよくやっていたことの延長線で…」

田中さんの真剣な眼差しと褒め言葉になんだか急に恥ずかしくなった僕は、とんでもないと顔をブルブルと振りながら後ろにたじろいだ。


「私の夫は事故で亡くなったんです」


田中さんの突然の告白に、僕は「えっ」と目を大きく開いて彼女を見た。

「二年前の大雨が降った日でした。見通しの悪い峠道で車がスリップしたみたいで…。あの人は私の前から突然いなくなりました。ショックでした…、すぐに後を追いたいほど辛い毎日でした。そんな時です、ふらりと香さんがこの村に来たのは」

そう言うと、田中さんはニコッと微笑み僕の隣の席に腰を下ろした。

「畑にいた私に声をかけて来て、自分の行うセミナーのために民宿を一週間ほど貸してくれないかと聞いてきたんです。主人を亡くしてから、掃除もせずにほったらかしだった民宿は蜘蛛の巣だらけだったので最初は断ったんですけれど、『じゃあ、集まった全員で掃除しましょう』って笑って言ってくださって…。小さな村ですし変なセミナーだったら悪い噂も流れると思って、香さんにはお試しで一回だけお貸ししますって言ったんですよ。そのかわり、私も受けさせてくださいって。香さんは快く引き受けてくれました。蓋を開いてみたらこのとおり、風変わりなセミナーだったでしょう?」

「そ、そうですね」

頷きながらも、僕の心は別のところで彼女は独り身なのか…と思っていた。とても不謹慎だけれど、このとき僕の中で新しい世界の扉がゴロゴロと開いていく音が静かに聞こえた。

「私もここに来る皆さんと一緒で、七日間でなにが変わるんだって思っていました。でも、七日間でどの人も確かに古い世界が終わって、新しく生まれ変わり旅立たれて…。とても驚きました。状況は違っていても苦しんでいるのは私だけじゃないって知ることが出来たし、私の作る食事も美味しいって言ってくれたのも嬉しくて。私は少しだけみなさんより時間がかかりましたけれど、それから何度か香さんに民宿を提供していく中で、ようやく主人を亡くした哀しみを乗り越えることが出来たんですよ」

そういう意味では私は落第生ですねと笑う彼女に、「あの…」と僕の口は勝手に開いていた。

「はい?」

「田中さん、あ、あの…僕、その、いろいろと落ち着いたら、またここに戻って来てもいいですか?えっと…、良かったら、田中さんのお手伝いをさせてほしいんです」

「え…?」

僕の口から出た言葉に田中さんは目を白黒とさせたけれど、僕自身も何を言っているんだと混乱していた。その前にまず裁判やら実家の片付けやら終わらせないといけないものがあるし、先行きはかなり不透明ではあるけれど…。それでも一度は失いかけた未来なわけで、どうせならその新しい世界で彼女とこうしてまた隣り合って座ってお話がしたいと、僕はそんな気持ちにかられていた。


別に、彼女にとって特別な人ではなくてもいいから…という言い訳まで付けて。


「あっ、あの、セミナーが無いときは田中さんは一人で農作業されているんですよね。七日間だけでしたけれど、毎日大変だし、ほんとこういう仕事を一人で良くされているなって感心しちゃって。僕、よくよく考えてみたら田舎に帰ってもそんな知り合いがいないし、この村の人には本当に良くしてもらったので、その、空気も合っていたって言うか…。よかったら農園のお手伝いさせてもらいたいなって…思いました。いま、その、急に突然」

「ありがとうございます。でも、気持ちだけで十分ですよ。畑の手伝いは大歓迎ですから、空いた日にいつでも来てくださいね」

笑顔で彼女は僕が傷つかないように言葉を選んで言ってくれたけれど、その言葉を聞いて逆に僕の心は決まってしまった。のどかな土地で、素朴な彼女と自分を偽らずに自然体で過ごしたいと。またここに戻って来て田中さんと過ごそうと。

それによくわからないけれど、誰かが後ろから僕の肩をガシッと掴んで「よろしく頼みます」と言われたような気がしたし、また誰かが「あんたが思うように生きればいいんよ」と言って頭を手荒く撫でてくれた気もしたから。


「戻ってきます。必ず」


そうして僕はようやく、セミナーの最後の最後で次の人生の扉を開くことが出来た。


なによ…、なんなのよっ!!!


私の心はいま、襲い掛かる不幸の数々に怒り狂っていた。


本当になんなのよ、あの弁護士。

なんであの人との写真持っているのよ。

親に嘘ついて子供預けてもらっていた時に、会っていた時の写真を…!!


ふたりだけのアカウントだったのに何でバレてるの?!ちゃんと鍵付きでやっていたのに、どうして情報がダダ洩れなのよ。不倫現場の写真や、恐喝の痕跡まで、どうしてあんな証拠掴んでいるのよ。


いつの間にあんな優秀な弁護士つけてたのよ。聞いてないわよ!


アイツもアイツよっ!!


あんな冴えない亭主より大事にするって言っていたのに!子供の面倒はジジババに預けて二人で新しい人生を歩もうって言ってたくせに、なにが完璧な計画よっ!


私に騙されていた?

もう連絡してくるな?


向こうの弁護士から打診がきたタイミングで連絡してくるなんて、バレバレなのよ!!会社にバレてクビになるのが嫌なだけだったんでしょ?!同窓会で最初に声をかけてきたのはそっちじゃない。たまたまアイツの上司だったからって、書類を改ざんしてダメ社員に仕立て上げていたのは、あんたでしょうがっ!


本当は優秀な部下だったの知ってただぁ?

これからも会社に残ってもらいたい人材だぁ?

絶対裏でなにか話し合ったわね、アイツら…!!


突然別れてくれなんて、いきなり音信不通になることないじゃない。

私が一人で泥被ったじゃないのよ。


良い友達がいるって、司法試験に落第しまくりの弁護士事務所で働いているってだけのアルバイトなんて聞いてないわよ!二人して泥を被る前に逃げ出して、あのクソ野郎ども!!


パパもママも!!


あんなに私を可愛がってくれたのに、お前みたいな娘はもう自分達の子供じゃないし、子供も育てる資格はないですって?!そりゃあ、いろいろ嘘ついたけれど、それはアイツが私に構ってくれないのがいけないのよ。なによ私一人が悪者みたいな言い方をして!アイツへの慰謝料は全額払うから、それが手切れ金だですって?!手に職も無い私がどうやって生きていけばいいのよ!!


これまでのアイツだったら、私がちょっと泣いたら落ちてくれていたのに、もうやり直す気はないですって?オドオドしていたアイツが、なんで急にしっかりしてんのよ。裁判終わって判決出たその足で書類を提出することないじゃない!…そりゃあ、ハンコ押した書類を置いてったのは私だけれど。


薬でおかしくしてたってのに、いつの間にか普通に戻ってるし!


子供は僕が責任もって育てるですって?最悪、最悪、最悪最悪最悪っ!!

さっさと子供連れて田舎に帰りやがって…!!


あの名刺が、あの名刺が私の人生を狂わせたのよっ!!


「全部あんたのせいよっ!!!」


握り締めた包丁の切っ先があの女を斬りつけようと手を振り上げたその時、私の手首がゴキッという嫌な音を立てて変な方向に曲がり、激痛と共に腕を掴まれた後そのまま地面へと俯せに押さえつけられた。

「銃刀法違反、殺人未遂の現行犯で逮捕します」

手首からカチャリと冷たい金属音が鳴り響き、続けざまに空から降り注いだ声で、頭のてっぺんまで沸き上がっていた全身の血が一気に下がった。意思とは別にカタカタと体が震え出し、私は股の間から漏れた温かい液体で下着が濡れるのを感じた。

「ありがとう、警備員さん。…あぁ、いまは刑事さんだったわね、ごめんなさい。助かったわ」

ふぅっと息を吐いた女を睨みつけると「被害者はこっちよ!!」と私は叫んだ。

「離してよ!悪いのはこいつよ、お巡りさん!こいつは悪徳商法で金を巻き上げている伊田 香っていう犯罪者よ!こいつこそ捕まえてよっ!!」

警察官と女に憐みの視線を返されると、私のはらわたは煮えに煮えまくった。そうよ、私は悪くない、悪くない。なんにも悪くないのに!


「こんのカバチタレッ!悪いのはそっちじゃろうがっ!!うちの息子を騙して殺そうとしよってからにっ!!あんたこそ何言っとんっ!!!」


突然女の口から出た怒号に、私の煮え切ったはらわたは一瞬にして凍りついた。忘れたくても忘れられないお国訛りの喋り方は、半年前に病死した別れた夫の母親の口調、そのものだった。

「一緒に幸せな家庭を作りますってあんた言っとったじゃろ!なにしてくれるん、うちの子に!もうちょっとであの子死ぬところじゃったよ!どっちが犯罪者じゃ!!大事な婚約指輪もさっさと質入れしよって遊んでからに。あの子が必死に働いてた時に、子供ほったらかして、あんたこそほんまなにしてたん!!」

顔は確かにあの女のはずなのに、なによこれ。なんなのよ…っ!!

青ざめた顔で呆然と義母の声で罵声をまくしたてる女は、さらに追い打ちをかけるように私に言葉の矢を撃ち続けて私の体を穴だらけにし始めた。

「見てたよ、私あんたのこと全部見てたよ、全部知っとるんじゃから、嘘言っても無駄よ。死ぬ前にこの人に相談しておいて、ほんっまよかったわ。また変な事言ってみんさい。私またこの人の口から『すぐ出て来て』あんたのこと話すけんね」

手錠をかけられた時とは違う震えが全身に宿ると、さらに自分の股から出た液体はアスファルトまで濡らしていった。

「山田さん…。いえ、既に離婚されているので元奥様と呼ばせていただきますね」

女は私の粗相を気にすることなく、若干乱れた髪の毛を手櫛で直しながら「私の祖母は青森の生まれでして」と唐突に身の上を話し始めた。


元奥様はイタコという職業をご存知でしょうか?

青森県の恐山という地名を知っていたら、聞いた事があると思いますが。でもその顔は知らないって顔をされていますね。イタコというのは東北地方にいる、今でいうところのスピリチュアルカウンセラー、またはシャーマンみたいな仕事をしている人達のことをいいましてね。恐山にいるイタコさんは、亡くなった方を呼び口寄せして話をするので有名なんですが…。まぁ、元奥様が知らないのですから、廃れ行く職業かもしれませんね。じつは私の祖母もイタコでしてね。

元々イタコは、神様の声を私たちに伝えてくれる媒介として、人々の心に安らぎを与えながら人との繋がりを結ぶ潤滑油的な役割をしていました。簡単な言葉で言うとちょっとした霊能力者です。ですから、祖母の血を強く引いた私も霊能力者と言っていいのかもしれません。私は祖母が亡くなった後にイタコを継いで恐山で『お仕事』をしていたんですが、このご時世です。旅行客もぱったり途絶えて収入が激減しましてね。今は高齢者施設で働きながら、流行病のために家族に会えず寂しい思いをしている方たちの話し相手をしているんです。

元奥様、お年を召された方たちが何を心配しているかご存知ですか?どの方も自分が亡くなった後の世界を気にされているんです。大切な人たちが自分の死後に幸せに暮らしていけるだろうかと、とても心配されているんですよ。

それを聞いて、私はひらめきました。

幸い、私は仕事柄『あちらの世界にアクセスをする能力』を持っています。残した家族が幸せそうに生きていないのであれば、その理由を知ることが出来ます。そこで心残りを抱える方々に、私がその心配事を少しだけですが解消いたしましょうか?と提案させていただいたんです。残された方たちがもし今辛い思いをされているなら、少しでもより良い人生を過ごせるようにお手伝いさせていただきますよ、と。

ただ、その方が苦しんでいる『世界を終わらせる』にはどうすれば良いかは、私が考えなくてはいけませんが、それくらいはお安い御用と言っても良いでしょう。なぜなら、亡くなった方も一緒にお膳立てしてくれるからです。

報酬は施設に入られた方が払えるくらいの本当にささやかな額です。ですが、もしそれをあの世から見て満足していただけたなら、そのお気持ちを私に届けてくれたら嬉しいですと皆さんにお伝えしております。きっと皆さんは、私の仕事ぶりに感謝してくださっているんだと思いますよ。なぜなら、『こういう時』に助けてくれる人との縁を、私に結んでくださっているんですから。

いつの間にか私はちょっとした有名人になっていたようです。なにも宣伝していないのに、気付けば日本全国の方達からお声がけされるようになっていましたから。


山田さんのお母さんもその一人で、お会いしたのは亡くなる二か月前のことでした。


多くの依頼をいただくようになり、私は少し困ってしまいました。なぜなら、予想を超えてたくさんの方から救いを求められるようになったからです。ですがこのとき、私はまたひらめきました。一人で解決しようとせずに、みんなで解決していけばいいと。

元奥様、『むこうの世界』を馬鹿にしてはいけませんよ。もちろん、『その上にある世界』もです。そういう人達が大事にしているのをなにかご存知でしょうか。それは『縁』です。

縁は伴侶を探すだけのものではありません、生きる上で必要な『縁』も大切なのです。私は、それぞれに問題を抱える人達が幸せになるために必要な『縁』を『あちらの世界』の方達に人選していただき、それを私のほうで結ばせていただくという作業を行うようになりました。


それが、『七日であなたを生まれ変わらせる』セミナーです。


あれは『いまこの時』に必要な人々が出会い、各々の問題を解決するために手を取り合うきっかけを与える合宿なのです。元ご主人になぜ優秀な弁護士がついたのか、あなたには不思議でたまらないでしょうね。ほかにも、いろんな方が元ご主人に繋がりました。そうしたほうがより『幸せ』になれると思った『あちらの世界』のご先祖様達が、協力してくださったのです。その人たちだけではありません、それよりももっと『上の人達』も力を貸してくださいました。

ご先祖様があの世で幸せに暮らしていますようにと願う子孫を、不幸になってほしいと願うご先祖様がいるでしょうか?『自分の子供たち』が不幸になっても良いと思っている御仏様がいらっしゃるでしょうか。

あなたは自分の為に元ご主人を不幸にしようとなさったとき、元ご主人のご先祖様すべてを敵に回したのです。そして、元奥様のご先祖様はあなたの所業を嘆き、あなたに反省を促すよう働きかけをしてほしいと私に依頼されました。つまり、この状況です。


「ここまでお話すれば、事情は分かっていただけますね?」


カチャリとまた金属音が響くと同時に体を押さえつけていた男も離れたけれど、私は金縛りにでもあったかのように動けずに得体の知れない恐怖でガクガクと体を震わせていた。

「元奥様、あなたを解放します。いまここであなたを牢屋にいれるという方法もありますが、それはあなたに与える罰にはあまりに甘いと『あちらの世界』の方達がおっしゃっていますから。刑務所という限られた場所で、三食付きの屋根のある所で生かすには、あまりに元ご主人に与えた罪とは割に合わないと。なので、私はあなたを解放します。誰にも頼れず無一文のなかで、どうぞご自由に生きてください。先程の事は誰にも言いませんからご安心を。でも変なことはしないでくださいね。人がいなくても誰かが見ているから悪い事をしてはいけませんと、幼い頃に周りの大人たちが言ってくれませんでしたか?お天道様が全部見ているからと。ところで元奥様、このあとお暇ですか?」

そうたずねるあの女の澄んだ目が更に私を恐怖に陥れ、慈愛に満ちた眼差しはまるで真綿で首を締められているような息苦しさを感じた。

「ちょうど明日から行う特別セミナーにひとり欠員が出ましてね。四十九日間プログラムといって、私の行うセミナーの中で一番ハードなものですが、是非受けさせてほしいと先日亡くなられたばかりのあなたのおばあちゃんから頼まれているんですよ。亡くなったばかりだと言うのに、あなたのおばあちゃんは山田さんのお母様だけでなくご先祖様にまで延々と泣いて謝っておられるんです。安らかに眠れず可哀そうに…。ちなみに費用は四十九万円と安くはありませんが、あなたの財布の中にはご主人の婚約指輪を売って手に入れたお金がまだ残っていますよね?でも私は強制いたしません。あなたの人生ですからご自身でお決めくださいね。ただ、あなたが少しでも幸せになりたいのならお手伝いさせていただきます。それが至多幸<イタコ>としての仕事ですから」

微笑むこの女の笑顔が怖い。任せますと言いながら、私にはもう…。


「それにしても元奥様、どうして人は文字と文字の間に空間があると、苗字と名前だと思われるんでしょうね?」


言われて、私はポケットに突っ込んでいた名刺を取り出すと、書かれた文言を見てあまりの衝撃に薄っぺらな紙切れは震える手をくぐり抜けてぽとりと地面に落ちた。

「伊田香って……い、た、こ……?」

「芸名と言いましょうか、当て字と言いましょうか。本名だといろいろと厄介事が多いので、ほんの遊び心で付けた名前なんですけれどね」

そう言うと、女は不気味なほど綺麗な笑顔を浮かべて私にニコリと微笑んだ。


(おわり)

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