インタールード - 王立魔導院:境界融蝕現象研究局

 が起きた時、観測部かんそくぶの当直職員は昼休みに入る寸前だった。


 測定水晶クリスタルの変色に伴い、通知装置がけたたましく警鐘アラートを鳴らす。夫の作ってくれたお弁当を片手にうきうきと部屋を出ようとした彼女は、ぎょっとしたのちしばしぽかーんと口を開け、数秒後には大慌ての顔となる。


「き……きちゃあああ!」


 喉から漏れた悲鳴は意図してはいなかったが流行り言葉ミームで、果たしてそれは偶然のものであったのか。


 ともあれ彼女は弁当籠を抱えたまま踵を返し測定水晶クリスタルに駆け寄ると、魔力盤まりょくばんを覗き込みながら脇から垂れ下がっている紐をぐいぐい引っ張る。紐の繋がった装置は観測部から研究局全体に向けての緊急通達。魔力盤の回路は既に現象発生位置を特定しているようで、机に置かれた地図にインクを走らせ始める。


 そうこうしているうちに、警報を聞きつけた職員たちが駆け込んできた。


 いずれも他部署、しかも高官のお歴々である。その顔ぶれが事態の喫緊きっきんさを物語っている。


警鐘アラートは事実か? 訓練や誤報ではなく?」


 うんざりした顔で問うのは壮年の男。


「訓練ではありません!」


 背を向けたまま返す当直の女性。


「では誤報ではないのか?」

「言葉に注意したまえ」


 なおも否定しようとした壮年男性を制したのは、駆けつけたうちのひとり、神経質そうな青年男性。


「この装置を作成したのがどなたかお忘れか、経理部部長」

「しかしだな……」

「我らが局長の手ずからお作りになった装置だ。誤作動などあり得ない」


 言いながら青年の視線はあくまで装置へと向けられている。


「……それとも貴殿は、『鹿撃しかうち』のくらいたる天鈴てんれいの魔女が人生を懸けたと断言するその仕事を、否定するつもりか? この観測部の鐘が鳴った以上、たとえ寸毫すんごうであろうとも、以降の手順マニュアルを遅らせることは決して許されない。遅れれば王国が滅ぼされるぞ」


「大袈裟な! それに王国を滅ぼすなどと不敬も……」


「その不敬が問われないからこその『鹿撃ち』だろう。社交に夢中で本意を忘れたか。穏やかに壁の花となっている宴席パーティーでの姿を見慣れて、なにか勘違いしているのではないかね?」

 

「お小言はその辺に、監査部部長」


 背後から静かに声を発したのは副局長——老年の男性である。


「疑うべきは計器の故障ではなく人的過誤ヒューマンエラー。だが少なくとも観測部においてのそれは、せいぜいが紐の引き間違いしかありません。計器がこうして動いている以上、それもあり得ない。ならばこれは……」


 副局長はひと呼吸を置き、宣言する。


「十三年ぶりの——境界きょうかい融蝕ゆうしょく現象げんしょうです」


 この場における実質的な最高権力者の言葉に、全員の身体が強張った。

 老人は冷厳に滔々と、観測室に声を響き渡らせる。


「これはかのお方が待ち望み、万策を備え尽くしてきた福音の時。発生報告の通知は自動的に局長にも行っているはずですが、念のために副次用の通信水晶クリスタルでも連絡を。もちろん出張中の特別顧問にもです。局長がいらっしゃるまでには各所に通達し、各種準備を整えておきなさい。なによりも騎士団は旅装の上で待機。万国のどこにでも今すぐ出師すいしできるよう」


 指示を告げ、それでもやはり副局長の視線は、他の部長たちと同様、動作する装置とそれを見守る女性職員の背中へと向けられていた。


 そして研究局の高官たちに環視されながら、彼女は機器の動作終了を確認する。

 振り返り、唇を噛むと深刻な面持ちで告げた。


「位置座標、出力完了しました。王国内です。ですがこれは……」


 部屋に集っていた全員が機器の前、世界地図の広げられた長机デスクへと集う。インクによって記された座標を見ると、全員が一様に女性と同じ表情になった。


「北東グレゴルム地方……『うろの森』の深奥部」


 誰かが、喉を鳴らしながらつぶやく。


「よりによってここか……変異種どもの跋扈ばっこする前人未到の魔境」


 それを皮切りに、高官たちから次々とあふれてくる怨嗟と悲嘆。


「どうするんだ? 騎士団を送り込むのか? 自殺行為だろう」

「冒険者組合ギルドですら開拓を断念したような場所だぞ」

「国軍はどうだ……いや、動かせても果たしてやれるかどうか」


「エルフはどうだ。『虚の森』にも集落があると聞く」

「それでも表層部だろう。地図が差しているのは深奥だぞ」

「……この際、エルフ国アルフヘイムに協力を要請するしかあるまい」

「国際問題にするのか?」

「いや、特別顧問殿の伝手でなんとかなるだろう。彼女も局長と志を同じくしている」


「そうだ、局長だ。あの人ならこの場所にも……」

「できるのか? 今まで幾度となく陛下から調査を依頼されても袖にしてきたと聞くが」

「理由がなかっただけだろう。理由があれば、局長が変異種ごときに遅れを取ることはない」


「それは貴様の希望的観測に過ぎん! 私は客観的事実としての疑問を発しておる! 天鈴の魔女と褒めそやされてはいても、実力のほどを直に見たものがどれだけいるか……」

「貴様、いみじくも当局の局員に連なる者が局長を愚弄するか!」


 観測室が喧喧囂囂けんけんごうごうとし始める。事態はそれほどまでに悪い。『虚の森』は王国どころかこの世界きっての危険地帯——その深奥部ともなれば、大軍を用いたとしてもひとりが生きて辿り着けるかすら怪しいのだ。


 


 だが混乱する高官たちの背後、観測室の入り口付近から。


「——どいてくれる?」


 あくまで静かな、それでいて柔らかい、なのに有無を言わさぬ圧力を持った声が、それまでの喧騒を一瞬で止める。


 全員が息を呑み、振り返った。

 女性がひとり、そこに立っている。


 髪は白銀。光に灰をまぶしたような輝きが、緩やかに結われて両肩に垂れる。


 瞳はすみれ照々しょうしょうたるあかと底知れぬあおが織りなす紫色の瞳とは、炎と氷、溶岩と大海、終わりと始まり、つまり世界の両極を統べる『天鈴の魔眼』たる証。


 そして身に纏うのは、漆黒の外套マントととんがり帽——『魔女』の称号を与えられた者にしか許されない至高の装束。


 極致の魔力により不老を得た肉体は、瑞々しくも蠱惑的に、外套マントの隙間から艶やかな肌色を垣間見せながら、おののきに割れていく人々を一顧いっこだにせず、部屋の中央、地図の広げられたデスクへと歩んでいく。


 覗き込み、座標を確認し、彼女は頷いた。


「なるほど」


 老爺ろうや——王立魔導院、境界きょうかい融蝕ゆうしょく現象げんしょう研究局副局長は、人混みから一歩出て、地図に視線を落とす上司へと請う。


「局長……ヴィオレ様、指示を」


 女性——王立魔導院、境界きょうかい融蝕ゆうしょく現象げんしょう研究局局長にして『天鈴の魔女』こと、ヴィオレ=エラ=ミュカレ=ハタノは。


 顔を上げ、振り返り、薄く微笑んで告げる。


「私とカレンのふたりで行きます。彼女は近くにいるから先行させましょう。支援物資や人員はすべて森の南端……シデラ村に。必要となるかはわかりませんが、もし必要となった時に間に合っていなければ意味はないわ。だから、でお願い」


了解っ……!」


 その場にいた全員が一斉にひざまずく。まるでなにかに魅入られるかのように、なにかに屈するかのように。


 ※※※


 マントを翻し、観測室を後にする魔女。

 その唇から小さなつぶやきが洩れたことに、副局長の老爺だけが気付いていた。


「必ず会いに行く……待ってて」

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