どうやらここは異世界らしい

もう訳がわからないけど

「Gkggrrgrgrgggggggggggggggrarararararaaaaaaaaaaaaa!!!」


 ドラゴンの、この世のものとは思えない咆哮ほうこうが森に響き渡った。

 視線はこちらを見据えていて、もうなにをどう好意的に判断しても、この家を——僕らを標的に定めたとしか思えない。


 せめて家の中に退避しないといけない。けれど身体は強張ってしまっていて、その硬直が解けるよりも早くドラゴンは行動を開始した。


 ばさりと翼をはためかせ、ふわりと宙に浮く。あんな巨体がどうやって飛んでいるんだろう、物理法則どうなってんだと考えるいとまもなく、そいつはあっという間に十数メートルほども上空へ舞い上がる。


 そしてまるで猛禽類が獲物を奪うように——この家、ひいては僕らに向かって突っ込んできた。


「ショコラ……!」


 僕は腕の中の愛犬を庇おうとした。気持ちだけはそうしようと。けれどすべては刹那だった。できたのは、ほんの少しだけ背を丸めることだけで——もうだめだ、間に合わな——、


 ばちこーん!


 と。

 今まで生きてきた中で聞いたことのないような音とともに。


「え……?」


 


 一瞬遅れて、「Giiiiiiiooooooooo!」と、さっきの咆哮とは別種の、どこか情けない悲鳴。


 見えない壁に鼻先をしたたかに打ちつけたドラゴンは、なんだか形容しがたい格好で、背後の森、木々に受け止められる。葉の激しく揺れる音と、枝のぶち折れる音と、幹が軋む音が重なった。


「なん、だ……いまの」


 ショコラを抱きしめていた腕の力が緩む。呆然として惨状のあとを眺める。

 縁側から目視する限り、家の門やブロック塀は無事だ。あれだけの衝撃なら普通は崩落くらいしているだろう。なのに傷ひとつないということは、


「家の周りに、結界みたいなのがある……?」


 結界、というといかにもマンガやアニメみたいだが、そもそもドラゴンがそうなのだからもうそう呼んでしまっていいだろう。


 とはいえだからといってどうすればいいのかと問われれば、相変わらずさっぱりだ。少なくとも命の危険、猶予時間は延びた。だったらここからの最適行動はなんなのか。


 ドラゴンの生死を確かめた方がいいのか?

 それとも家の中に隠れるべきか。地下室とかあったりしないだろうか。

 あるいは反対側から塀を乗り越え、できるだけ遠くに逃げるべきか。


 なんにせよまずは掃き出し窓とカーテンを閉めよう、そう思い、震える脚に喝を入れて立ちあがろうとする。


 だけど非現実的な現実は、僕の必死な行動を待ってはくれない。


「G……rrirrrr」


 門の前方、折れた枝葉を押し上げながら、再びそいつが鎌首をもたげる。回復が早すぎる!


 視線がこちらへ向いている。まだ諦めてはいない。さっきの見えない壁がまた防いでくれるかもしれないが、理屈もわからない現象を人は奇跡と呼ぶのだ。そして奇跡が二度三度と起きることに己の命を賭けたくはない。


「行こうショコラ! まずは家の中に……」

「わうっ!!」


 愛犬のそのひと吠えはしかし、僕に対する肯定ではなかった。


 僕の腕から、柔らかな毛並みがすり抜ける——家の奥へではなく、庭へ、門へ。

 ドラゴンへと向かって。


「ショ……コ、ラ?」


 待て。待って。

 違う、そっちじゃない。

 僕は一緒に逃げようって言ったんだ。隠れようって。


 なのにどうしてお前は、ドラゴンと戦おうとしているんだ。


 僕を守るため?

 無理なのに。

 威嚇すら通じるはずがない。


 それに、お前はもうおじいちゃんだろ。

 不思議なくらい元気だけど、本当ならよぼよぼで、だから、これからは僕がお前を守ってやらなきゃいけないんだ。


 だってそうだろう。

 子供の頃からずっと、僕を守ってくれてたんだから。


 小学校低学年の頃。自転車を買ってもらって、調子に乗って遠くまで遊びに行って、道に迷って。泣いている僕を探しだしてくれたのはお前だった。父さんを連れて匂いを頼りに、見事に僕のところまで辿り着いてくれた。


 風邪をひいて寝込んでいる時、父さんが仕事でいなくて寂しくて。お前は僕の部屋の前から動かずにいてくれて。弱々しい声でショコラって呼んだら、それを聞き逃さずに、わん、って吠え返してくれて。


 テストの点が悪かった時。友達と喧嘩してしまった日。父さんが死んだ時だって。悲しいことや落ち込むことがあると、すぐに察して僕に寄り添ってくれた。


 お■さんとカ■■がいなくなった時も——お前はまだ子犬だったのに、お前だって、寂しくて悲しかったはずなのに。こっちの世■に取り残されて不安だったはずなのに。僕を気遣って、僕のために、元気に吠えて。散歩に行こうって、リードをくわえて持ってきて——。


 手を伸ばす。

 追いかけようと腰をあげて、靴下のまま庭に出る。もつれる足で転びそうになりながら、それでもショコラを追いかけて、止めようと走る。


「やめろ、戻れ!!!」


 僕の絶叫を背に、ショコラは——。






 ドラゴンの出現よりも見えない結界よりも、信じられないことが起きた。



 



 鎌首をもたげて咆哮しようとするドラゴン。

 翼を躍動させ、再び飛びあがろうとするよりも早く。

 ショコラが、門の手前で一気に加速する。

 閃光のように、矢のように。


 ショコラは跳躍した。突進、と言っていい。

 その身体はドラゴンの鎌首——頭だけでショコラの身体と同じくらいある——へと肉薄すると、すれ違いざまに、


 ざん、と鋭い音を響かせて。

 ドラゴンの首が、両断された。


 頭部がぼろりと落ちる。

 巨躯の動きが止まる。

 おそらくは首が長いせいだろう、断面から血が噴き出るよりも前に。


 ゆっくりと後ろ向きに、ドミノみたいに倒れていって——再び木々に受け止められ、枝折れと葉擦れとともに、たおれる。


 数秒ののち。

 しゅたっ、と。

 庭に再び降り立った、もふもふの身体。


 見慣れた黒と銀の毛並みは一滴の返り血すら浴びておらず、そのままこちらへと駆け寄ってきて、


「わん!」


 これでもう大丈夫だよ、と。

 迷子の僕を迎えにきてくれた時と同じ調子で、吠えた。


「しょこ、ら……ショコラあっ……!!」


 僕は叫びながら駆け寄り、ショコラに縋りつく。


 明らかにおかしい速度の疾走と跳躍力も、丸太みたいな首を一刀両断にしてのけたその力も、今はどうだっていい。


「よかった……よかった、よかったよお……」


 命が助かった安堵と、僕を守ってくれたんだという嬉しさと、そしてなによりも家族が無事にいてくれたという喜びで、僕はショコラを抱きしめながら、泣きじゃくった。


 ぶんぶんと嬉しそうに振られる尻尾が、涙で霞んで見えた。

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