割符の月

 置屋の二階にある部屋にだらしなく座り込み、アタシは障子をカラリと薄く開けた。見上げる西の空にはまだほのかに明るさが残っている。橙の空に混じる藍の気配。あぁ。これはあの日の、あの最後の日の空の色だ。胸を締め付けるように懐かしい名残の色は、みるみるうちに暮れちまった。


 暗くなった空には半分に割れた月が屋根にかかるようにぼんやりと浮かんでいた。月の残り半分はあの時、あの人が持って行ってしまった。あの人が帰ってくるまで、アタシの中で月はもう満月になることはない。


「ねぇ新さん、まだアタシのところに帰らないのかえ? 」 


 空に浮かぶ割符の月にアタシはそっと手を伸ばした。



 ホトホトと障子が叩かれ、若い者の声がした。


吉弥姐きちやねえさん、太和屋さんからお呼びです」

「あいよ」


 アタシは声だけは威勢よく、しかし月を見上げたまま腰を上げることは出来なかった。

 


 茶屋からの呼び出しは江戸が東京と名を変えても、ひっきりなし。いや、むしろ増えたかもしれないねぇ。置屋も茶屋も遊郭も江戸の頃のまま続いている。違ってしまったのは客の方。


 以前の贔屓筋だった店の旦那衆や職人衆はすっかり追いやられ、聞きなれないお国言葉を話す侍たちばかりになっちまった。侍たちはいつの間にか役人という肩書になり、埃まみれだった粗末な着物は、立派な生地の洋装になった。


 お偉くなった役人たちは、しかし深川の決まり事よりもお国のやり方を押し付けた。アタシたちが気概を持って保っていたいきなんてもんは、今では無くなりつつあった。



 あれはもう二年ほど前のこと。年が改まってすぐのことだった。あの人がせんじょうに行くと言い出した。あの人は侍なんかじゃない。一介の錺職人かざりしょくにん。確かに腕のいい錺職人かざりしょくにんだった。あの人の作る平打ちの簪は芸者たちには人気だったよ。でも、侍なんかじゃなかったんだ。


 侍でもないのに、あの人は公方様とくがわさまが謹慎されるのが気の毒でならないと、そうさせる側が悪いのだと、そう言い張って。そうして志を同じくする仲間たちと、衣裳を改めて、武器を持って行っちまった。


「本当に、男ってやつは……」


 そんな女の嘆きを、空の月だけが見ているようだった。アタシはもう一度半分の月に手を伸ばした。



 あの日、最後の逢瀬の日も半分の月が西の空にかかっていた。


 その日は、あの人の長屋で最後の夜を過ごした。雨戸を半分ほど開けて、あの人の胸のなかで月を眺めた。最後に、二人で。


 アタシの肩を抱いていたあの人の腕がスッと伸びて、細工で固くなった指を開いてそれからゆっくり閉じた。そうしてアタシの顔の前に差し出した。


「ほら」

「え? 何?」


 アタシは差し出された拳を横目にしてあの人の顔を覗き込んだ。


「ほら、月を半分取ってきた。おヨシにこれを預けるよ」

「新さん?」

「割符の月だ。帰るまで持っててくれ」


 あの人の指がゆっくり開く。アタシはひらいた掌から見えない月を拾いあげた。

思わず摘んだ月を口に持って行くと、あの人が慌てて押さえる。


「おいおい、食べるのかい」


 アタシは笑う。


「ねえ、新さん。落としてなくさないように割符を食べさせておくれよ」

「おヨシ?」


 ふふふと笑うアタシの声が誘うように部屋に響いた。


「おヨシは割符を食っちまうのかい?」


 とろりと蜜がかかったようなあの人の甘い声。アタシの鼓動が速まる。あの人の手の中の見えない月がアタシの口元に差し出される。アタシは口を開けてそれをこくりと飲み込んだ。


 月のあとを追うように、アタシの名前を呼ぶ新さんの唇がゆっくりと近づいた。



 ひと月に一度、半分の月が連れてくる、懐かしく熱く悲しい思い出。時代にもアタシにもよあけの風はまだ吹かない。




 



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宵待ちの月 小烏 つむぎ @9875hh564

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