宵待ちの月

小烏 つむぎ

 月見酒

 折しも今夜は長月ながつき十三夜。「月影は薄雲を従えて天空にあり」と背を預けていた縁側の柱から体を起こして見上げるが、小座敷の屋根に切り取られた小さな空には残念ながらまだ月の姿はなかった。


 「この刻限なら、月はまだ天空にゃいやしねえか」


 薄闇の中、近くのお座敷からねえさん方のつま弾く三味線のが風に流されるように聞こえて来た。その風が部屋にしつらえられた小さな床の間に飾られたススキの穂を微かな音をたてて揺らした。



 昼日中ひるひなか夏の名残りの暑さも、さすがに夕風が吹くころになると収まってくる。そんなかぜに背中を押されて両国橋をひょいと渡った辰巳たつみ(南東)の方向にあるのが、ここ本所・深川だ。


 深川にある永代寺の門前には名のある茶屋が軒を連ね、たくさんの屋台が所狭しと並んでいる。なんとも賑やかなことこの上ない。岡場所(遊郭)なんざ白粉の匂いを頼りに探す前に、向こうから袖を引いてくれる。ほの明るい店の提灯に誘われる虫のように客が集まる場所だ。



 この四畳余りの小さな座敷は、オイラのためにオイラの想い人が取ってくれた。茶屋の本座敷からは大きな庭を隔てて廊下づたいにある。部屋の濡れ縁の先には竹垣で囲われた坪庭。クロモジの足元の羊歯に隠れるようにある小さな流れのそばの小さなつくばいの水面に十三夜の月が映る頃、オイラの待ち人がやってくる。


 葉月はづき十五夜の宴に続いて、長月ながつき十三夜の月見の夜は深川でも宴会尽くしで、おヨシ…いや、人気の辰巳芸者『吉弥きちやねえさん』は忙しい。あっちの座敷、こっちの座敷と掛け持ちだ。だからこうしてオイラのために小座敷を取ってもらってはいても、二人でゆっくりできるのは宴も静まり月が天頂を過ぎたころだ。


数行すうこう過雁かがん 月三更つきさんこう

雁は列を成して飛び行き

月は真夜中の空に渡る、ってやつだな」


 夕暮れに宵の明星が現れる頃からさかずきを片手にこの部屋で待ち続け、今は暗く沈んだ庭の向こうの石灯篭には小さな火が揺らいでいる。手燭てしょくに先導された客が、点々と掛行灯かけあんどんともる暗い廊下を渡っていくのが見えた。



 濡れ縁の柱を背にうたた寝をしていたオイラの知らないうちに、『吉弥きちや』は空いた時間を見つけてここに寄ってくれたようだ。オイラの向かいで空を映していたさかづきはすっかりされていた。


 オイラの肩には置屋おきやの紋が入った羽織がかけられている。崩した膝の先の黒塗りの膳には新しい料理の皿が置かれ、色の薄いもみじが添えられていた。少しだけ足りない紅葉の色は、まだ少し欠けたままの今夜の月を思わせた。


 おヨシはいったいどんな顔をしてこのもみじの一葉を探してくれたのか。羽織のぬくもりと相まって、ここには居ない人の気配に包まれる。羽織にはほんのりと『吉弥きちや』の香りが焚き込められていた。



 他の座敷から届く三味線や太鼓の賑やかな音は少し遠い。坪庭を流れる水音のほうが耳に届くくらいだ。おかげでオイラはススキをお供に、のんびりと独り酒を楽しむことが出来る。


 彼女からのささやかな贈り物のもみじを、懐紙に挟んで大事に胸元にしまった。お返しに、空いたさかづきに月の色の金平糖を転がす。カラリと乾いた小さな音が愛らしい。風に乗って姐さんたちの挨拶の声が途切れ途切れに聞こえ始めた。


 「あぁ、そろそろ宴も終盤しめぇだな」


 月は、ずいぶん高くなった。辰巳芸者の『吉弥姐きちやねえさん』が、ただの『おヨシ』に戻るまで、あと少し。


 向かいのさかづきに、酒を満たす。ゆらりと揺らぐ水面の下の先ほど転がした金平糖が、映る月と二重写しのように見える。自分のさかづきにも酒を注ぎ、空になった徳利をカタンと倒した。


 「なぁ、おヨシ。

早く来ねぇと、さかづきの酒が甘酒になっちまうよ」



 甘い酒を口にして驚いた顔をするおヨシを思って、ふふふと笑った。


 遠くから廊下を急ぐ軽い足音が耳に届く。おヨシの声が「新さん」とオイラの名を呼ぶ。カラリと障子が開き、ひゅぅと風が動いた。


 風は肩に引っ掛けた羽織の袂を翻して通り過ぎた。



*****************************


辰巳芸者たつみげいしゃ

 江戸の深川で活躍した粋を信条にした芸者衆。

薄化粧に地味な着物で、冬も素足のまま。

当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がった。

芸は売っても色は売らない心意気が江戸で非常に人気があった。


掛行灯かけあんどん

 家の入口や店先、柱。廊下などに掛ける照明


手燭てしょく

 持ち歩るけるように柄をつけた燭台。


十三夜(「九月十三夜陣中作」)上杉謙信


霜満軍営秋気清

数行過雁月三更

越山併得能州景

遮莫家郷憶遠征


霜は軍営に満ちて 秋気清し

数行すうこう過雁かがん 月三更つきさんこう

越山 併せ得たり能州のけい

遮莫さもあればあれ 家郷かきょう 遠征をおも

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る