第14話 その、突然の別れは……(前)3/3








 フランツが躍起になってサシャを探していたという事実は、とうのサシャにも、祥太郎の口から伝えられた。


「なぜ今になって、あいつは……フランツは、僕のことを血眼になって探し回っているんだろう?」


 祥太郎が自室に帰ったあと……二二六事件のときにも使った六畳間で、敷かれた布団に座り込みつつ、部屋をぼんやりと照らす傘付き電球の下で、サシャは考え込んでいた。


 自分の布団をサシャのそれから可能な限り離れたところに敷いた佐川も、口を開いた。


「戻ってないから探しに来たというのが果たして本当かどうか……フランツ様も、大使館経由で旦那様の死を知ったか……いいえ、知っているどころか、ややもすれば……」


 佐川が不自然に言葉を切った。


「先ほどは、木下様たちの耳もあるので言えませんでしたが……」

「言ってみろ」

「まさか……フランツ様が……その、旦那様を押したという外国人風の男では……?」


 内心、サシャもその可能性を考えていたことを、佐川は言った。


「いや、……でも、よく考えたら、奴には動機がないだろう……?」

「フランツ様は、国防軍の少尉なのですよ」

「しかし、結婚する相手の父親に手をかけるとは思えないが……?」

「軍人は、何でもするものですよ……仮に、上官から命令があったとすれば、どのようなことであろうと……」

「……」


 サシャは、黙り込んでしまった。佐川が続ける。


「こうは考えられませんか……? 日独防共協定締結を面白く思っていない国防軍が、協定締結の立役者となった旦那様に、意趣返し……報復をしたのではないか……と……。それも、フランツ様を使って……」

「…………そして、僕のことも狙っている、と?」

「……いずれにしても、今はここに息を潜めていたほうがいいことに、変わりはありませんな」

「しかし、問題は……この先、どうするかだ」


 サシャはしばらく考え込んでいたが、ややあって口を開いた。


「……佐川」

「はい?」

「明日は、ここを出よう。朝一番で、どこかホテルを探してくれ」

「承りました……しかし、明日にもここを出てしまうのですか?」

「ここにずるずると世話になっては、いずれ祥太郎たちにも危険が及ぶかもしれない。それは避けたい」

「……確かに、そうですな」

「それに、僕も風呂に入りたいからな。ここじゃあ、さすがに風呂を使うわけにもいかない」

「しかし……その後は、どうしますか? いつまでも身を隠し続けるわけにも……」

「その話だが……」


 サシャは言葉を切り、やがて決心したようにつづけた。


「僕は、ドイツへ帰国しようと思う。義父が死んだ以上、僕も親衛隊には居続けられないだろう。つまり、どのみち大使館にも居続けることはできない。僕が爵位の継承権を捨てて、ただのいち民間人に戻れば、もう狙われることもないだろう。フランツ婚約者の奴には悪いがな」

「さよう……ですか……」

「ああ。義父の葬儀ができないのは心苦しいが……」

「国防軍が動いているとすれば、お嬢様も危険です。帰国されるまでは、迂闊に動かない方がよろしいかと、私も存じます。ただ……」

「ただ?」

「旦那様の遺骨はどうしますか?」


 日本的な発想だと思いつつ、サシャは答えた。


「確かに心残りだが、日本で客死した以上……日本警察が遺体を処理するだろう。それに、形見もあるから、本国で弔いができないこともない」

「……仕方ありませんな」

「それと、大使と武官には、明日ホテルに移動する際に大使館に寄って、手短に挨拶だけ済ませる。大使館に長居するのは危険かもしれないが、挨拶しないわけにもいかない」

「挨拶もなしに黙って帰国するのは難しいでしょうからな。仕方ありますまい。大使と武官にお会いになる際は、私もお供します」


 佐川は、自分の上着の下に吊っている十四年式拳銃を確認した。


「済まないな。あと、ホテルを押さえたら、ドイツ航路のチケットの手配も一枚、頼む」


 佐川が目を見開いた。


「一枚で……よろしいのですか?」

「どうしてだ?」

「いえ、その……ドイツまでの船旅を、お世話する者がいないと……」

「もう十分だ。でないと、お前まで危なくなる。船上も安全とは言えないからな」

「……」

「心配するな。自分の身は自分で守れる。いいんだ。自分を偽る術くらい、僕にはいくらでもある」

「そのようなことを……お嬢様……」

「それに、これまでのお前への給金の心配なら無用だ。大使館に戻ったら、手持ちの日本円を渡す。足りない分は、済まないが帰国したら送金する」


 佐川が何か言おうとする前に、サシャは遮るようにして続けた。


「もう休もう。電気を消すぞ」

「……承りました。お休みなさいませ、お嬢様……」





 *





 翌朝。明るくなると、雨はみぞれ交じりの雪に変わっていた。


 登校する前に、祥太郎は、サシャのいる部屋へ顔を出した。サシャは、ちょうど荷造りをして、今まさに佐川と部屋を出ようとするところだった。


 開口一番、サシャは言った。


「ちょうどよかった。祥太郎、世話になった。今日からしばらく、僕はホテル住まいをするよ」

「ええっ……? 何だよ、もっと泊まっていけよ……」

「甘えたいところだが、そうもいかない。僕もいろいろやっておかなければいけないことがある。だから、ずっとここに居続けるわけにもいかないんだ」

「そ、そうか……」

「本当に世話になった。ありがとう。田原たちにも、よろしく伝えてくれ」


 それがまるで別れの挨拶のように聞こえて、祥太郎は思わず聞き返した。


「今後は、どうするんだ……?」


 そう問われたサシャは、何か言いかけて果たせずにうつむき……やがて口を開いた。


「……落ち着いたら、また連絡するよ」

「…………分かった。ちなみに今日は、どこのホテルに泊まるんだ?」

「佐川が、さっき電話で帝国ホテルをとってくれた」

「そうか……いいところだな」

「ああ」

「なあ……サシャ?」

「なんだ?」

「お父さんのこと……改めてなんけど、その、残念だったな……」

「ああ、ありがとう」

「くれぐれも、気を付けろよ? 何かあったら、警察でもなんでもいいから、すぐに助けを呼ぶんだぞ!」

「ああ、大丈夫だ。ありがとう。また連絡する」


 サシャは、とびきりの笑顔で、祥太郎に言った。


 これまでに数えるほどしか見たことのない、明るいサシャの笑顔を今ここで見せられたことに、祥太郎は、なぜか不安を覚えたのだった。



 


 *





 佐川の運転するベンツは、どんよりした雲の下、雪の散る中を走った。


 しばらく走ったところで、不意に、佐川が声を出した。


「お嬢様……」

「どうした?」

「これをお使いください」


 佐川は、ハンドルを右手で握ったまま、左手でハンカチをサシャに差し出していた。


「どうして、ハンカチを?」

「お嬢様、泣いておられますよ」


 サシャは、思わずバックミラーに目をやった。双眸から溢れた涙が零れおちて、着ていたコートの上を滑っていくのを見たとき、サシャは思わず声を漏らしていた。


「あ……」


 自覚してしまうと、もう止めようもなかった。涙は、止まることなく、次から次に溢れ出してきた。


「無理もございません。急にいろいろなことがございましたから……」


 佐川の穏やかな言葉に、サシャは、ついに顔を両手で覆った。指の隙間からも、涙は零れ落ちていた。


「……もう、……僕には、庇護してくれる人はいない……」

「ええ……」

「僕は……一高にも戻れない……」

「……」

「祥太郎にも……もう会えないんだ……!」


 そこまで言って、サシャは嗚咽を漏らした。


「ううっ……っ……!」

「お嬢様、はばかる必要はございません。存分にお泣きください」


 サシャは泣いた。幼いころを最後に自分を押し殺してきたのが、軛が外れて噴き出したように、サシャは嗚咽を上げ、涙を流し続けていた。


 佐川は、己が主人の泣き声を、背中で受け止めていた。


 雪は、相変わらず降り続いていた。ワイパーが拭う一部の視界だけを頼りに、佐川は慎重にベンツを運転し続けた。


 佐川は、バックミラーに、黒い影を見た。それは、幌付きの大きなトラックだった。トラックは、ベンツの後ろにぴったりとついて離れなかった。


「ええい、先に行きたいなら行けばいいものを……」


 佐川が少しいらついた声を出しながら、ほんの少しだけ速度を緩めた。


 その意を受け取ったトラックが、ベンツを右側から追い越したと思った……そのとき。


 トラックが、不意に、ベンツの進路をふさいだ。

 ベンツの運転台の視界が、トラックの影で、真っ暗になった。





 *





 その日の放課後になった。


 寮に戻った祥太郎は、いつも通り、ドイツ語の教科書とノートを手に、ホールへ向かおうとしていた。


 そんな祥太郎を、仁川が止めた。


「おい木下、どこ行くんだ?」

「どこって、サシャのドイツ語が……あっ……そっか……」

「ああ。今ごろサシャは、ホテルでくつろいでるだろうさ」


 サシャの不在。


 その事実を、祥太郎は改めて実感せざるを得なかった。


 そんな祥太郎を、田原と鴨井も心配げに見ていた。

 

 祥太郎が、ややあって口を開いた。


「……サシャの奴、無事だろうか?」


 鴨井が応えた。


「大丈夫だって。銃だって持ってるんだし、執事もついてるんだし」


 田原も言った。


「あまり心配するなよ。お前まで体に毒だぞ?」


 祥太郎は何か考え込んでいたが、やがて教科書とノートを自分の机に戻して、替わりに財布を手に取った。


「念のため、ホテルに電話してみるよ」


 そう言って祥太郎は、電話室に入り、ダイヤルをまわしたのだった。


《はい、こちらは帝国ホテルでございます》

「すみません、今日からそちらに宿泊予定の、サシャ・フランベルグの知り合いの者ですが、彼はもうそちらにチェック・インしていますか?」

《少々お待ちくださいませ…………いえ、まだこちらにはご到着されていない様子です》

「到着してない? おかしいな、もう着いていてもおかしくないと思うんですが?」

《さようでございますか? しかし、こちらにはまだお姿がありませんが……》


 祥太郎は通話を終えた。そして、電話室の外に控えていた田原と仁川と鴨井に言った。


「サシャがホテルに着いていない……もしかしたら、何かあったのかも知れない」

 








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