第14話 その、突然の別れは……(前)2/3







 午後七時ごろ、一高構内。


 その日の放課後のドイツ語個別指導は、今しがたお開きとなっていた。


 一高構内の並木通りは、すでに暗く、そして冷たい雨が、積もったばかりの雪の上に降っていた。


 傘を片手に、祥太郎たち……田原と仁川と鴨井は、サシャを一高の正門近くまで見送った。


「いつもありがとう。じゃあな、サシャ。気を付けて帰れよ」

「ああ、また明日」


 と、そこへ、息せき切って駆けてくるものがいた。佐川執事だった。


「どうした? 佐川、その慌てようは……」

「おじょ……サシャ様、い、一大事でございます……」

「何があった?」

「旦那様が……旦那様が、地下鉄の新橋駅で轢死されました……!」


 サシャだけでなく、祥太郎たちは、驚愕に打ちのめされた。


 すぐに、サシャが口を開いた。


「なんだと……?」

「夕方のことです……。私が、鉄道会社から電話を受けて、しかと確認して参りました。あれは、間違いなく旦那様でした……!」

「事故か? 事故なのか?」

「警察も事故として処理するつもりらしいです。ただ……」

「ただ何なんだ?」

「駅員からのまた聞きなので正確ではありませんが、誰か外国人風の男に押されたようだったという声もあったらしいです。ですがはっきりと見たわけでもないし、たまたま腕が当たったのだろうということらしく……」

「それで、事故として処理……?」

「それとこれを……形見がわりに、警察から受け取ってまいりました……」


 佐川がサシャに差し出したのは、ノルベルトの身分証と……ロンジン社製の腕時計だった。腕時計は、文字盤のガラスに、蜘蛛の巣のようにヒビが走っていた。


 身分証と腕時計を握りしめながら、サシャは言った。


「父は自殺するような人じゃない。事故……? そんなことがあってたまるものか。とすれば……残るは……」


 その意味するところを察して、祥太郎たちの顔は青ざめた。


 サシャは言葉を飲み込むようにしつつ、頭を振って言った。


「そもそも、父はなぜ地下鉄に乗ろうとしていたんだ? 佐川、父はお前に何か言っていなかったか?」

「いえ、ただ昼過ぎに、ちょっと用事があるので出てくる、車は要らない、夕食も要らないから……とだけおっしゃって……」


 サシャは頭をひねりつつ、また問いを発した。


「……大使は? 武官は? 今回のことを受けて、何か言っていなかったか?」

「それが……それほど動揺していないご様子でした。事故なら、仕方ないと……」

「仕方ない……だと?」

「はい。……その、どこか人ごとのようなご様子でした……」


 それを聞いたサシャは、唇を噛んだ。


「…………しょせんは、大使も武官も国防軍出身者か」

「もしかしたら……杞憂であればいいのですが、下手人……もしくはその関係者が、大使館内にもいるかもしれません。ですので……今は大使館に戻らない方がよろしいのでは?」

「そうだな……僕もそう思う」

「大使や武官の眼もありましたが、これだけは忘れず持参いたしました……」


 佐川は、祥太郎たち以外に人目がないのを確認して、サシャに、ホルスターに入った拳銃……ルガーP8を渡した。


 それを見た祥太郎たちは、一様にどきりとした。そして、ことの重大さを再認識させられたのであった。


 サシャはホルスターを受け取り、付属していたベルトを身体に廻して、ルガーを左腋の下に吊り、上着で隠した。


「済まない。助かった。とりあえず、今夜はどこで過ごすか……」

「私の甥が市内に住んでいます。数日は、そこで……」

「いや……お前の身内に迷惑はかけられない」


 唐突に、祥太郎が口を開いた。


「寮へ来いよ、サシャ」

「え……?」

「ああ、寮なら安全だ。ここなら、、追い返せる」


 そう言って、祥太郎は田原に向き直った。


「田原、いま現在の寮総代はお前だ。二二六事件のときとは違って、今回のことは学校側に知られるのもまずいかもしれないが、総代が了承すれば、留学生の寮の使用くらいは問題ないと俺は思う。どうだ?」


 田原は即答した。


「ああ、事情が事情だそうだからな。寮総代として、俺はサシャと執事のおっさんの泊まりを認めよう」

「だってさ」


 振り向いた祥太郎を見て、サシャはほっとした表情を浮かべた。


「助かる……」


 佐川も頭を下げた。


「皆さま、ご迷惑をおかけします」


 祥太郎は、田原と仁川と鴨井に向き直った。


「とりあえず、サシャが泊まっていることについては、学校を含めて、寮の奴ら以外には内緒だぞ。さあ、とにかく寮に急ごう」





 *





 祥太郎と鴨井が、サシャと佐川を部屋に案内して、二人に食事を運ぼうと、ホールを抜けて食堂へ行こうとしていたときだった。


 ちょうど、寮の入り口の裸電球に照らされたところで、田原と仁川が誰か来客に対応していた。


 祥太郎と鴨井はどきりとした。田原と仁川の前で雨に打たれて、ずぶ濡れになりながら立っているのが、フランツだったからだ。


「おい、サシャはここにいないか?」

「……なんだよ。久しぶりに顔を出したかと思えば、藪から棒になんだ?」

「ちっ……あのな、俺は、サシャがここに来てないか聞いてるんだ!」

「サシャ? 知らねえよ。個別指導の後、さっさと帰っていったぞ。大使館には戻ってないのか?」

「戻っていないから探しに来たんだ!」

「だから、ここにはいないって言ってるだろう」

「おい。嘘を言うと承知しないぞ!」

「嘘なもんか。分かったらさっさと行っちまえよ」

「俺がこの目で確かめてやる!」


 フランツはそのまま寮に入ろうとしたが、田原がそれを鋭い声で制した。


「それ以上、寮の中に入るな!」

「なに……?」

「お前は知らないだろうが、日本の高校の学生寮ってやつは、寮生に自治権が認められている。この自治権は強力だぞ。なにしろ、警察の捜査も跳ね返したっていう前例が過去にあるくらいだからな」

「くそっ……!」

「……お前、サシャのおかげで、いまのところ長期欠席っていう形で学校には了承してもらってるんだぞ。これ以上騒ぎを起こしたら、今度こそおしまいなんだ。分かってんのか?」

「くっ……!」


 フランツが唇を噛み、うつむいた。


 仁川が口を開いた。


「だいたい、どうしてお前はそんなに躍起になってサシャを探してるんだ?」

「だから、大使館に戻っていないからだって言ってるだろう!」

「もし何か用件があるんだったら、明日サシャに会ったら、伝えといてやるよ」

「……お前らの知ったことじゃない!」


 そう言ってフランツは踵を返して、傘も差さずに、夜の闇の中へと戻っていった。


 田原と仁川が、ほっと息をついた。


「……行ったようだぜ」

「行ったふりをして、どこかに隠れて見張ったりしてないだろうな?」

「それは大丈夫だろう。この時間だと、正門の守衛が、学校に出入りしている奴には名前を記帳させているはずだからな。入ったまま出てこない奴がいれば、すぐに騒ぎになる」


 祥太郎と鴨井も合流して、四人はホールの椅子に座って頭を寄せ合った。


「しかし、それにしてもサシャの奴、災難だったな……」と鴨井。

「ああ。事件か事故か分からないが、父親を失うなんて……」と田原。

「押されたかも分からないとか、何とか言ってたよな……」と仁川。


 祥太郎もうなずいた。


「ああ、事件かもしれない。押されたんじゃないかって話があるんなら、なおさらな」


 仁川が付け加えた。


「まだ不審なところはあるぜ。フランツの奴、俺がわざと『もし何か用件があればサシャに伝えてやる』と言ったら、『お前らの知ったことじゃない』と返してきたじゃないか。本当に大使館に戻っていないのを心配しているだけなら、そんな返し方はしないだろう?」


 田原が唸るように言った。


「あいつ、何か隠してるってことか……」

 

 不意に、祥太郎が声を上げた。


「なあ、誰か、親か親戚が警察官僚だって奴はいないかな?」


 田原が応える。


「俺の叔父貴は警視庁で警視をしているが……どうするんだ?」

「この事故……いや事件かもしれないけど、徹底的に真実を追求してもらうんだ。そしたら、真犯人が逮捕されて、サシャの身の安全も守られるかもしれない」


 祥太郎の言葉に、鴨井が首を横に振った。


「今回の話を聞いた限りでは、恐らく、ドイツ側内部どうしか何かのいざこざだろうと俺は思う。だとしたら、警察にも何らかの圧力がかかっているかもしれないぞ。そこを下手に突ついたら、俺たちも面白い結果を迎えるとは限らない」

「何らかの圧力って何だ?」

「そりゃ……この件には一切かかわるなってこととかだろう」

「そんなのあるかよ。ここは日本だぞ?」

「落ち着けよ木下。あくまで想像だ。もっとも警察も、圧力云々以前に、果たしてどれだけの熱量で事故を検証してくれるかも分かんないけど……」

「……」

「いずれにしても、こういったことは、俺たち門外漢が云々するよりも、当事者であるサシャの方がうまく対応できると思う。その判断にゆだねて、俺たちは見守ろうじゃないか?」


 鴨井の冷静な言葉に、祥太郎もうなずかざるを得なかった。


 田原が口を開いた。


「それより、俺たち四人で、交替で寝ずの番をやらないか? 何があるか分からないからな」


 その夜、祥太郎たちは、代わる代わる夜通しで、ホールで竹刀を持ちながら座り込んでいたのであった。






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