第14話 その、突然の別れは……(前)1/3








 十二月のある日。この日の天気は、雪交じりの雨だった。


 ノルベルトは今、地下鉄・新橋駅の、人で溢れかえっているホームの最前列にいた。


 万年筆のインクなど、少し買い物をして、これから上野に向かう予定のノルベルト。


 ノルベルトは、次の電車を待ちながら、小さな子供の手を引いている男を人ごみの中に見て……いつしか、己の過去の物思いにふけっていた。


 ……貴族の家と言えども下級のそれに入るフランベルグ家の家紋を、ノルベルトはこれまで必死に守りながら生きてきた。


 試練は多かった。先の欧州大戦における祖国の敗戦、ヴェルサイユ条約に端を発する慢性的な不景気、世界恐慌……そのような中で、なんとかドイツ貴族ユンカーとしての体面を保つのも大変なことであった。


 一人っ子であったノルベルトには、かつて若い頃に妻がいたが、子宝には恵まれなかった。そうしたことも理由の一つだったのだろうが、もともと、より家格の高い家から嫁いできた妻との夫婦仲はよろしくなく、結婚生活は最悪の結果を迎えることとなる。


 離婚歴があるノルベルトには、再婚の縁も得られなかった……そうした中で、ノルベルトは、サシャを拾ったのだった。


 あれが男だったら……という願望は、今でもときおりノルベルトの心に浮かぶ。しかし、バツイチの独身貴族に男の子供を託そうとする奇特な貴族はおらず、平民は折からの恐慌に喘ぎ、育てられない子供は孤児院行きというのが現状であった以上、いち慈善家を気取って、孤児の中から能力の高いものを選び出すしかなかったノルベルトに、サシャ以外には選択肢がなかったのもまた運命だったかもしれない。


 今でも思うことがある。サシャ本人は、実親に棄てられて、ここまで男として育てられてきた自分の運命を、果たしてどう思っているのか……と。


 ともあれ、フランツ・ハイデルベルグという、将来有望な貴族の青年がノルベルトの前に現れたとき、ノルベルトは、この男にフランベルグ家を任せることができたら……と夢想したものだが、そのフランツがサシャを満更でもなく思っていて、ついには結婚したいと、婿入りという形でも良いから……と聞いたとき、ノルベルトは狂喜乱舞したのだった。サシャも、何だかんだで承諾してくれたため、ノルベルトはこの世の一切の悩みから解放された気になっていた。


 ついに、あの可哀想な子を、本来の姿に戻し、そしてドイツ女性本来の幸福を……一家の、フランベルグ家の母親となるという喜びを与えてやれる……ノルベルトはそう信じていた。


 ノルベルトは、サシャのウェディングドレス姿を想像した。綺麗に育ったあの娘に、白く輝くウェディングドレスは、さぞ眩しく映えるだろう……。


『まもなく電車が参ります、白線の後ろに下がってお待ちください。三時十八分発、上野行きの電車です』


 それはそれとして……ノルベルトは、アナウンスに起こされるようにして、物思いから我に返っていた。それにしてもここは混雑している。……年の瀬が近いからだろうか? 地上の天気が悪いからだろうか?


 いや、そうでなくともここは東京市内の、数少ない地下鉄駅なのだ……と思い直したノルベルトは、予定の時間に間に合うかを確認するために、腕時計をちらりと見た。ロンジン社の文字盤は、三時十七分を告げていた。


 これなら、約束の四時には十分に間に合うだろう……ノルベルトがそう思った、その時だった。


 ノルベルトは、自身の身体が、不意に予想だにし得ない動きをしたのを感じた……思い切り前のめりになったノルベルトは、咄嗟に転ぶのを避けようと、たたらを踏むようにして、前方によろよろと進んだ。


 誰かに後ろから突き飛ばされた、とノルベルトが知覚した刹那……その足は、すでにホームの上になかった。

 

 慣性のままに突き進んでくる電車が、鋭く警笛を鳴らした。しかしそれは、遅きに失した。


 肉と骨の砕けるくぐもった音が、ホームに響き渡った。


 血飛沫が、レモン色の車体に散り、重力に誘われて、涙のように垂れていった。


 女性客の甲高い悲鳴が響き渡った。


 ホームは騒然となった。






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