第13話 その、日独防共協定は……3/3







 一高生の三年生たちは、日々近づいてくる入試の日に備えて、毎日勉強漬けの日々を送っていた。


 サシャは、フランツに手籠めにされかかったあの日以来、フランツとは会話も交わさず、顔を見るのも避けるようにして過ごしていた。


 フランツのほうも、あれ以来、持ち前の明るさがどこかへ行ってしまったかのように、塞いだような様子で、一高での生活を送っていた。


 そのフランツは、あの日を最後に、文乙のドイツ語個別指導には出て来なくなっていた。文乙の面々はびっくりしたが、これまで自主的に個別指導をしてくれていたのもあり、理由を問いただすことはせずにいた。その理由をサシャに尋ねる者もいなかった。


 サシャとフランツが、急に互いによそよそしくなったのも、文乙の面々は……とりわけ祥太郎は感じ取っていた。しかし、ドイツ人留学生二人の関係性に、〝日本側〟がクエスチョンを投げかけるのもはばかられるし、何よりも受験勉強に追われていたので、祥太郎も他の皆も、何も言うことはなかった。




 *





 十一月二十六日の、朝礼前のことだった。

 文乙の面々は、一限目のドイツ語の準備をしていた。


 そこへ、仁川が新聞の朝刊を片手に、声を上げた。


「おい、日独の間で防共協定が成立したぞ!」


 仁川が新聞を広げると、紙面にはヒトラー総統の顔写真と、『遂に日独防共協定締結! (大日本)帝國は孤立せず!』という見出しが躍っていた。


 皆が紙面を覗き込んでいたが、ややあって田原が言った。


「これは時事問題として出題されるかもしれないぞ。新聞記事の内容くらいは、ドイツ語に訳せるようにしておこうぜ!」


 皆は思い思いにうなずいたが、ひとり祥太郎は難しそうな顔をして口を開いた。


「ああ……でも、俺は不安だな」


 それを聞いた鴨井が、祥太郎に問うた。


「何が? 東京帝大のドイツ語試験がか?」

「違うよ。この防共協定についてだよ」

「これが不安なのか? 重要そうな協定だと思うけど……」


 鴨井の言葉に、祥太郎は首を横に振った。


「でも……これは、あくまで日独二か国間のものだろう? 本当に防共が目的なら、もっと他の……イギリスやフランスなんかも巻き込んで、より強力な協定にすべきだったんじゃないのか?」


 教室内が、しんとなった。


「……そうか。そう言われれば、そうだな」


 仁川も、他の皆も、それぞれうなずいた。


 祥太郎が、また口を開いた。


「……残念だけど、これは事実上の白文に過ぎないと俺は思うよ」


 いきなり、ばさばさと音がした。


 サシャが、鞄から机に入れようとしていた教科書やらノートやらを手から滑らせて、床に落とした音だった。慌てたように、床にかがむサシャ。


 その様子を、サシャの後ろの席のフランツが、厳しい顔つきで見つめているのに、祥太郎は気づいた。


 しばらく経って、そのフランツが、文乙の皆に向き直り、低い声でつぶやいた。


「……薄氷の上の平和にのうのうとしてる分際で……」


 その声は、祥太郎たちの耳にも届いた。それを聞いた祥太郎が、フランツに聞き返した。


「え? フランツ、なんか言ったか?」

「さっきから聞いていれば、何を好き勝手なことを言ってやがるんだ。何も知らない、おめでたいばか野郎どもが……!」


 周囲の空気の温度が、下がったように感じられた。


 微妙な間ののちに、田原がフランツのもとに詰め寄った。


「おい、その言い方は何だフランツ。失礼だぞ」

「何が失礼だ。国際社会のことを何も理解していないくせに、偉そうなことを言うな」

「な、何だと……?」


 田原が気色ばみ、腕まくりした。

 フランツも、それに応じたように、身構えながら立ち上がった。


 教室内に、緊張が走った。

 が、次の瞬間、フランツの腕を横からそっと掴んだ者がいた。


 サシャだった。


「やめなよ、フランツ。今日の君は、どうかしてるよ?」


 とうのフランツはおろか、祥太郎たちは、驚きをもってこの光景を眺めていた。以前のサシャなら、絶対にこんなことはしていない……祥太郎はそう思った。


「どうして……君が……」

、難しすぎる問題だよ。それで諍いをおこしちゃいけない。祥太郎の言うことも、正しいと思うよ」


 フランツは、一瞬サシャを憐れんだような表情で見ていたが、やがて怒りを顔に浮かべた。


「……邪魔をするな! 聖人ぶりやがって!」


 フランツが、サシャの頬を張った。


「サシャに何するんだ!」


 祥太郎が、フランツに突っかかっていった。しかし、体格で勝るフランツは、祥太郎の手が伸びてくる前に、その無防備な鳩尾に、パンチを叩きこんだ。


 祥太郎は、派手に机の群れの中に吹っ飛ばされた。しかし、祥太郎は、なおも立ち上がってフランツに向かおうとした。


 教室内は騒然となったが、すぐに鴨井が祥太郎を、田原がフランツを羽交い絞めにして止めた。


 ややあって仁川が、田原に拘束されているフランツに詰め寄り、言った。


「フランツ、お前の留学はもう終わりだぞ。一高じゃあ暴行沙汰はご法度だ」


 フランツは、肩で息をしながら仁川を睨むように見返していたが、やがて目を伏せて、吐き捨てるようにして言った。


「ちっ……どうにでもなれってんだ……!」


 祥太郎が、口を開いた。


「……事ここに至っちゃあ仕方ない。俺は教員室にことの次第を報告してくる」


 そのとき、踵を返しかけた祥太郎の手首を、サシャが慌てたように掴み、懇願の声を上げた。


「止めてくれよ。それだけは……お願いだ」

「さ、サシャ……?」

「頼む。この件は、ここだけで収めてくれ……!」

「で、でも……」

「……一高内だけならまだいい。これが大使館に知れたら、フランツはもちろん、連帯責任で僕までもう一高に来れなくなってしまう」


 サシャまでこの事件のせいで一高からいなくなる。その可能性を突き付けられて、文乙の面々は、黙り込んでしまった。


 サシャは続ける。


「……いや、それだけならまだいい。僕が最も恐れているのは、一高へのドイツ留学交流の道が、絶たれてしまう……ことだ……」

「…………」

「そうなってしまえば、これはもう……第三帝国の……ドイツ留学生の恥だ……」


 不意に、フランツが田原を振りほどき、自分の鞄を掴んで、あっという間に教室から出て行ってしまった。


 皆が呆気に取られて見送る中、祥太郎はサシャに向き直った。


「大丈夫か? サシャ……?」

「僕は……大丈夫だ」


 サシャはそう言ってから、付け加えるように言った。


「……僕が悪いんだよ。僕のせいだ」


 それを聞いた祥太郎が、すぐに声を上げた。


「サシャは何も悪くないだろう……!」


 それを聞いた周囲も、同調する声を上げた。


「そうだそうだ。サシャが謝る必要はないぞ」と仁川。

「しかし、最近大人しいと思ったら、なぜかは知らないけど、イラついてやがったんだな。フランツの奴」と鴨井。

「ああ。理由もなく人に手を出す奴は、一高生とは言えないな」と田原。


 サシャは、祥太郎の身を案じている様子だった。


「祥太郎こそ……大丈夫か? ケガはないか?」

「ああ……山崎教官の鉄拳に比べれば、まだマシだよ」


 それを聞いたサシャは、ふっと笑みを浮かべた。


「ありがとう、祥太郎。僕は、……ちょっとフランツを追いかけてくる」


 横合いから、田原が口を開いた。


「サシャ、放っとけよ。あんな奴……」


 サシャは申し訳なさそうに首を横に振った。


「……そういうわけにもいかない。祥太郎、代返を頼めるか?」


 祥太郎は、サシャの勢いに飲まれたように返事をした。


「あ、ああ……」

「ありがとう」


 そう言ったサシャは、鞄は持たずに、小走りに教室を出て行ったのだった。






 *






 フランツは、足早に、帝都線・一高前駅への道を歩いていく。


 その後ろに、サシャが、ものも言わずについて来ていた。


 背中でその気配を十二分に感じ取っていたフランツが、我慢できなくなったのか、ドイツ語でいらだった声を上げた。


『……なんでついて来るんだよ?』

『お前に、聞きたいことがある』

『……』

『どうして、急に怒りだしたんだ?』

『……あいつらが、ばかだからに決まってるじゃないか!』

『ばか……?』

『ちっ……君も理解できていないのか……?』

『何が言いたい?』


 フランツは、少し歩く速さを緩めて言った。


『……ふん……俺はな……陰で身を張った奴がいるのに、その恩恵をありがたがるどころか、コケにする奴が許せないだけだ……!』

『じゃあ、お前は僕のために怒ったのか?』

『…………』

『もしそうだとするのなら、言っとくが、それで喜ぶ僕じゃないぞ。別に僕はいいんだ……顔を張られようが、無理やりモノにされようが……それはもう諦めている。だが、それも他の奴に……よりにもよって、よくも祥太郎に手を出してくれたな!』

『っ…………!』

『そして二度も言いたくないが、お前はドイツ留学生の恥だ。お前は総統閣下の顔に泥を塗ったんだぞ。分かってるのか?』


 それを聞いたフランツは、急に足を止めてサシャに向き直った。


『分かってるよ!』

『……何が分かってるんだ?』

『俺がガキDas kintだっただけだよ……!』

『……』

『こんな男と夫婦になるなんて、笑えるだろう? 嫌だと思ってるんだろう? なあ、そうなんだろう? だからさっき、〝諦めている〟なんて言ったんだろう?』

『…………』


 すがるような声色で聞くフランツに、サシャは憐憫の混じった眼を向けた。


『おい、何とか言えよ! 言ってくれよ! たしか君は前に言ったな? 俺には欠けているものがあると……教えてくれ。……俺には、何が欠けているんだ?』

『お前は、かわいそうな奴だ』


 それを聞いたフランツは、しばらく雷に打たれたように固まっていたが、やがて一高前駅の改札の向こうに、逃げるように去っていった。


 その次の日からフランツは、一高に登校しなくなった。



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