第7話 その、雪の叛乱は……(後)3/3

 





 誰かと一緒に寝るなんて、いつぶりだろう……そんな感慨を浮かべつつ、サシャは眠りの世界に落ちた。


 サシャは、己の昔を夢に見ていた。


 サシャが生まれたのは、ドイツ帝国が欧州大戦に敗れるか敗れたかの頃だった。敗戦国であるドイツには、戦勝国から巨額の賠償金が課せられて、国民生活は一気に貧しくなった。


 わずか四歳か五歳のころに、貧農である両親は、ひとり娘のサシャを手放した。


『サシャ、すまない。今日からお前は、この教会で暮らすんだ』


 預けられた教会の孤児院には、第一次世界大戦の敗北のために、家が貧しくなって捨てられた子どもが、家畜の群れのように詰め込まれていた。


『やーい、この男女!』

『ズボン、脱がしちゃえ!』


 その名前と、見てくれのせいで、サシャは孤児院のいじめっ子たちの、格好の獲物となった。


 最初は泣いた。しかし、誰も助けてくれなかった。修道女たちも、見て見ぬふりをした。幼い残酷さの発露とはいえ、それが孤児院の子供たちの秩序となっている以上、大人が介入する必要はないとされたのだ。


 サシャは、泣くことをやめた。そして、ある日、思い切りいじめっ子たちに刃向ってみた。いじめっ子が顔を殴られて泣き出したのを見たとき、サシャは、己の拳の使い方を知った。


 日曜日の教会での集まりは退屈だった。神父は神の祝福を説くが、この弱肉強食の孤児院のどこが神に祝福されているのか、とサシャは冷ややかに思っていた。


 サシャは読み書きをすぐに覚えた。修道女たちから、他の子ども達に読み書きを教えてやるように言われた。面倒だと思ったが、食べ物の待遇が良くなったので、悪い話ではなかった。育ち盛りのサシャは、ひとり、十分な栄養を摂ることができた。


 この頃になると、体格的にも恵まれたサシャに手を出す者は皆無だった。


 十代も半ばに差し掛かろうとしたころの、ある日のことだった。

 孤児院の正面に、ピアノのように磨き上げられた、真っ黒なベンツの乗用車が停まった。サシャや他の子ども達が、玄関先に集まって、遠巻きにベンツを眺め始めた。


 見たことのない上物の黒い親衛隊の制服を身にまとった将校が、ベンツの後部座席から降り立った。そのとき、その格好いいなりをした将校の鋭い眼光は、他の子ども達を品定めするように走ったのち、やがてサシャを射抜いた。


 将校は応対にあたっていた修道女から二言三言聞いて、すぐにサシャを呼びつけた。ぽかんとしながらやってきたサシャに、将校は穏やかに言った。


『お前は、今日から私の娘……いや、息子だ。さあ、家に帰ろう』


 親衛隊の将校であり、独身の下級貴族であるノルベルトの養子となったサシャは、男として、ヒトラーユーゲント少年団に入った。新入りとしては年かさだったが、サシャは、集会でもキャンプでも軍事訓練でも、意欲的に参加し、学んだ。乾いた砂に、水が染み込むようだった。


 ほんのわずかだが、サシャはナチスのエリート養成校であるナポラに通った。そこでも、サシャは優等生だった。


『おめでとう、サシャ。調査の結果、お前が純血のアーリア人Ⅰ種であることが確認された。それとお前の能力を鑑みて、お前は、親衛隊少尉に任官された』


 ……僕は義父と同じ、あの憧れの親衛隊の制服を着ることができる!


 サシャは喜んだ。そして、捨て子であった自分をここまで引き上げた義父に、そして、それを可能にしたナチス党……ヒトラー総統に、サシャは惜しみない感謝の念を抱いた。


ヒトラーこそドイツ Hitler aber ist Deutschlandドイツこそヒトラーwie Deutschland Hitler ist! ヒトラー総統、万歳Hitler, Seig hiel!』


 サシャには生きることが最優先で、ヒトラーユーゲントでもナポラでも、友だちと呼べる存在はなかった。


 誰にも、助けて、なんて言えないまま……サシャは生きてきたのだった。





 *





 朝になって、祥太郎は、蒸し暑さで目覚めた。この季節に、どうして布団の中が暑いのか。


 眼をこすった祥太郎は、仰天した。


 サシャが、すぐ目の前で寝ていた。その寝息のくすぐったさと、睫毛の長さを見て、二人はほぼゼロ距離にいることを、祥太郎は強く実感した。


 ややあって、サシャが、何ごとか呟いた。


Vati父さん ……Mutti母さん……」


 その固く閉じられた両眼の端に、滴が浮かんだのを、祥太郎は見た。


 祥太郎の動揺を感じ取ったのか、サシャがいきなり目覚めて、両眼を開けた。


「わ、サシャ?」

「……!?」

「お、おはよう……」

「……どうして僕の布団に祥太郎がいるんだよ?」

「さ、サシャのほうが、こっちの布団に入ってきたんだぞ」

「嘘をつくな!」

「嘘じゃない!  ほら、ここは俺の布団だぞ!」


 サシャは上体を起こした。そして、祥太郎の言っていることが事実であることに気づかされた。


 追い打ちをかけるように、祥太郎が続けた。


「それに、寝言でVati とかMuttiとか言ってたぞ!」

「な……何だと……?」


 サシャがみるみるうちに真っ赤になった。


「まったく……子どもみたいだな、サシャは」


 祥太郎の呆れ声も聞こえていない様子のサシャが、自分の両肩を抱くようにしながら、言った。


「……僕に、何かしたか?」

「何かって? 何をだ?」


 真顔で聞き返してくる祥太郎を見て、サシャは少し安心したように、眼を伏せた。


「…………何でもない」


 そのとき、廊下に複数の足音が聞こえた。


「なんだなんだ、朝から賑やかだな?」


 そんな声がして、扉が開かれた。


 どてら姿の田原と仁川と鴨井が、そこにいた。


 同じ布団に身を起こして、唇が触れ合いそうに向かい合っている祥太郎とサシャを見た三人。


 しばらく沈黙が漂ったのち、鴨井が冷静に口を開いた。


「……二人とも、何やってんだ?」


 そう言われた祥太郎とサシャはゆっくりと顔を見合わせた。


 やがてサシャは両手で顔を隠してしまった。

 祥太郎は、脂汗を流しながらも口を開いた。


「あ……いや、これは……」


 田原が、にまにま笑っている。


「ほお~……お前ら、同じ布団で一緒に寝てたのか?」


 仁川に至っては、顔を赤くしながら言った。


「こ、これが、ど、同衾ってやつか?」


 田原が、たたずまいを正して、慇懃に祥太郎とサシャに頭を下げた。


「すまん、俺たちは邪魔ものだったようだ。ごゆっくり」

「ご、誤解だ! 俺は、俺たちは何もしていない!」


 朝の明寮に、祥太郎の悲鳴が響いたのだった。





 *





 二月二十九日、のちに二二六事件と呼ばれるようになるこのクーデターは、武力衝突を見ずに終息した。

 

 安藤輝三大尉は、自分の部下の中隊を原隊に帰したのち、拳銃自殺を図る。九死に一生を得た安藤は、その後始まった非公開の裁判で死刑判決を下されて、この年の夏に銃殺刑に処された。


 安藤がこいねがった貧農の救済は、ついに成らなかった。


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