第8話 その、春のデートは……1/3






 一九三六(昭和十一)年、三月末。


 祥太郎たち一高の二年生にとって、最後の短い春休みがやって来ていた。


 春休みの一高生達は、部活に汗を流したり、部活に入っていない者も寮で読書に励んだりしながら、モラトリアムに揺蕩たゆたっていた。


「……だから、今の時代に求められているのは、カントだよ」

「鴨井、それは極論だ。そこまで人間全体が成熟しているとでも言うのか?」

「肩の力を抜けよ。だから仁川はすべてに対して懐疑的な視点に陥ってしまうんだよ」

「懐疑的で何が悪い! 今の混迷した世界と相対するには、デカルト的な視点が必要不可欠なんだ!」

「世界が混迷しているからこそ、普遍的な理性が必要なんじゃないか?」


 鴨井と仁川が、口角泡を飛ばして、哲学書を片手に論じ合っているのを横目に見つつ、祥太郎は学生マントを羽織り、寮を後にして、一高前駅から帝都線に乗り、ドイツ大使館を目指した。


 ……この日は、青空高く晴れ上がっており、寮の中で級友と哲学論を戦わせるにはもったいない天気だった。

 

 というわけで、今日の祥太郎は、ドイツ大使館にサシャを訪ねて、一緒に遊ぼうと思い立ったのだ。


 雪の日に歩いた道のりも、帝都線と市電を使えばあっという間で、祥太郎はドイツ大使館にたどり着き、玄関ホールにサシャを呼び出してもらった。


「なんだ、祥太郎か」

「よう。せっかくの天気だから、今日はちょっと銀ぶらでもしてみないか?」

「ギンブラって?」

「銀座をぶらぶら歩くことさ」

「……分かった。行くよ」


 話がまとまり、祥太郎とサシャは玄関を出た。


 ちょうど玄関先に、家財道具か何かを運び込みに来たトラックがつけられ、テーブルやらベッドの搬入が始まっていた。


 その様子を見て、祥太郎がサシャに問うた。


「誰か、引っ越しでもしてきたのか?」

「ああ……もうすぐ新年度ということで、新たなスタッフが入ってくるらしい」

「そっか」


 青空に鉤十字がへんぽんとひるがえるドイツ大使館を、祥太郎とサシャは出発した。


 ふと、祥太郎は、不思議な感慨にとらわれていた……こうしてのんびりとしているこの永田町には、いま、歩哨線の影も、兵士たちのかたちもない。


 祥太郎はあの二二六事件のことを話題にしようかと思ったが、やめた。明るい話にはなりようもなかったからだ。結局、誰一人救われないクーデターだった……祥太郎には、そんな感慨しか浮かばない事件だった。


 永田町から警視庁の前を過ぎる銀座までの道のりを、祥太郎とサシャは歩いた。


 たどり着いたのは、市電が行きかう大通り……銀座四丁目交差点だった。銀座のシンボルである和光本館の時計台が、交差点を睥睨していた。


 春ということもあり、銀座は人々の往来が賑やかだった。洒落た背広とワンピースとに身を包んだモボ(モダンボーイ)・モガ(モダンガール)の若者たちの姿を、サシャは物珍し気に眼で追っていた。


 街路樹のヤナギが、春の暖かい風に、枝を静かに揺らしていた。

 

「……随分と賑やかだな」

「ここが銀座通りさ。サシャは初めてなのか?」

「ああ……とても、戦時下の国の風景とは思えない」

「……なるほどな。言われてみれば、そうだよな」

「懐かしいな……ベルリンを思い出すよ」

「そっか……そうそう、あれが銀座のライオンだよ」


 祥太郎が、交差点の一角の三階建ての建物を指さした。小じゃれた白っぽい洋館が、そこにあった。


「……祥太郎が、僕にメイド姿をさせるのを着想するきっかけになったのが、あのカフェーというわけだな」


 サシャが、思い出したように言った。その言葉に、嫌味などは感じられなかった。


「どうだ、試しに本物のメイドを拝んでいくか? たぶん、すごい美人ぞろいだぞ?」

「……いや、僕はいい」


 サシャが、どことなく憂鬱そうに断った。


「そうか?」

「……祥太郎は、そういう店がお気に入りなのか?」

「まさか。珍しいものには目がないってだけだよ」

「……なんだ」


 サシャがホッとした様子なのを見て、祥太郎は少し首をかしげていた。


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