第7話 その、雪の叛乱は……(後)1/3







 二月二十八日、朝。


 二十六日に発生した一部陸軍部隊によるクーデターは、三日目を迎えていた。


 すでに前日の二十七日には、新聞紙上に首相以下の死傷者(注:岡田首相は、のちに生存と確認。死者は首相私設秘書・内大臣・大蔵大臣・陸軍教育総監・その他護衛警官五名)について報道がなされ、ラジオでは戒厳令が敷かれたとの報道もなされた。


 決起部隊は、おのおの占拠した拠点で、君側の奸を取り除いて今こそ清明なる天皇による親政を成し遂げんとする〝昭和維新〟の実現について滔々とうとうと演説を行い、一部の東京市民の喝采を受け、中には決起部隊に炊き出しをするものまで現れた。


 しかし、東京市民のおおかたは、戒厳令下、今は無闇に外出せずにじっと自重するしかない……そんな考えで、静かに過ごしていた。


 そのような中、この日も、祥太郎は仁川に代返を頼んで、缶詰の入ったリュックサックを背負って、雪の溶けかけた道を、ドイツ大使館へと歩いていた。


 二日ぶりだが、やはりサシャの顔を見ないと、何となく落ち着かない。ましてや、決起軍の中枢近くに取り残されている状態なのだから、心配は尽きない……それが祥太郎の偽らざる心境だった。


 やがて祥太郎は、先日、安藤部隊の歩哨線があった赤坂見附の一角まで近づいた。すると、その歩哨線は影も形もなくなり、代わって手前の辺りに、別の歩哨線ができていた。


 不審に思いつつ、祥太郎は歩哨線にたどり着いた。


「一高生の者です。一昨日、ドイツ大使館まで通して頂きましたので、今日もここを通りたいのですが……」


 ところが、そこにいた兵士たちは聞かなかった。


「ダメだ! ここは通せん! 戒厳令が出ていることを知らんのか?」

「そ、それは知ってますが……」

「お前、怪しいな? ちょっと来い!」


 詰襟に『3』と記された兵士に乱暴に腕を取られて、祥太郎は尻もちをついた。


 その時、鋭い声が祥太郎の背後から飛んだ。


「おい、何してる!」


 将校マントを翻して、一人の大尉がこちらに向かってきていた。

 その大尉に、兵士が慌てて敬礼をした。


「はっ、怪しい学生が一人おりまして……」

「民間人に乱暴する奴があるか! 軍法会議にかけるぞ!」


 将校がそこまで言ったとき、祥太郎は、その将校が誰かに気づいて、思わず声を上げていた。かつて一高に配属されていた、あの配属将校だった。


「あ、山崎教官殿!」

 

 山崎も、見覚えのある顔を前にして、驚きの表情を見せた。


「木下じゃないか。この戒厳令下に、いったい、こんなところで何をしている?」

「ドイツ大使館に、大尉殿もご存知の、サシャが……あのドイツ人留学生が住み込んでいるんです。俺は、彼が心配で、今日も様子を見に来たんです」

「そうだったのか……」

「大尉殿、二日前はここも通れたんですが……」

「二日前か。そのときは、叛乱部隊がここを封鎖していたはずだが?」


 叛乱部隊。山崎は確かにそう言った。

 ……ということは、陸軍内部では、決起軍は叛乱軍と位置付けられてしまったのだ、と祥太郎は悟った。その決起軍を、山崎ら第一師団の決起しなかった部隊が包囲している……という構図らしかった。


「安藤大尉殿が、通してくれたんです」

「そうか。安藤らしいな……」


 山崎は微笑したが、すぐに真剣な顔で祥太郎に向き直った。


「……すまん。情勢が変わったのだ」

「情勢が……?」

「……ちょっと来い」


 山崎は、祥太郎を、他の兵士たちから離れたところに連れてきた。


「本当は、お前を危険に晒したくはないが……どうしてもドイツ大使館に行きたいのか?」

「はい、どうしても行きたいです」

「どうしてそこまでする?」

「俺は、サシャのご学友だからです」

「……ったく、あの留学生もそうだったが、貴様も強情なやつだな」


 山崎は苦笑しながら続ける。


「分かった。なら、こうしよう……俺たちは貴様を見なかった。貴様は包囲部隊に誰何されることなく、ドイツ大使館へ向かった。そういうことにしろ。戻りも、ここを通れ」

「いいんですか?」

「ここは俺の中隊の持ち場だ。くれぐれも別の部隊の歩哨線を通って帰るんじゃないぞ?」

「あ……ありがとうございます!」

「そうと決まれば、早くしろ」

「あの……安藤大尉殿は、どうなりましたか?」

「安藤部隊は、もうここにはいない。幸楽という料亭に引きこもっている」

「そう……ですか……」

「ああ。こんなことになるとは……残念だ」


 山崎は、頭を振って、絞り出すように言った。山崎の軍帽の五芒星が、それに従って揺れた。


「こんなこととは……安藤大尉殿が、敵になってしまったということですね?」

「そうだ。命令があれば、俺は安藤の隊を攻撃しなければならん。まったく……安藤たちの気持ちも分からなくはないが、陛下の軍隊を勝手に動員してしまうとは……本当に困った奴らだ」

「……」


 同じ五芒星を輝かせながら、敵味方に分かれるなんて……と、祥太郎は皮肉を感じていた。そんな祥太郎に、山崎は言葉を続けた。


「そうなれば、ドイツ大使館も危険だ」

「ええっ……?」

「ここだけの話だ。さっき命令があればと言ったが、戒厳司令部は、おそらく叛乱軍を鎮圧する方針に傾いている……その可能性が高い」

「えっ……」

「雲行きが怪しくなってきた。穏便に済みそうにはなくなってきたんだ」

「ということは、尊皇討奸などと言っても、陛下はこの決起をお認めにならなかったということでしょうか?」

「さすが鋭いな。戒厳司令部が騒がしいのも、恐らくそれが理由だろう……叛乱軍が自発的に武装解除に応じてくれたらいい。だが、彼らが易々と応じるとは限らない。そうなれば、こちらも実力を行使しなければならんのだ」

「この帝都で、皇軍相撃つということですか……?」

「ことが起これば、ドイツ大使館一帯も戦場になる。少なくとも、流れ弾くらいは飛んでくるだろう。今のうちに避難できるものなら、避難したほうがいい」

「分かりました。ドイツ大使館には、まだ大使以下のスタッフが残っているはずです」

「だったらなおさらだ。頼むぞ木下。我々陸軍内部だけならともかく、関係のない人々にまで犠牲を出したくないからな」

「はい、ありがとうございます」


 山崎は、かつての教え子を、背中を叩いて送り出した。




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