第6話 その、雪の叛乱は……(前)3/3
昼休みの時間に、二年文乙の教室に帰り着いた祥太郎を、級友たちは拍手で迎えた。
「無事だったか、ばか野郎!」
田原と仁川と鴨井が、祥太郎の頭の学帽をはたきながら喜んだ。
仁川が祥太郎に問うた。
「それで、永田町はどうだった?」
「やっぱり、陸軍のクーデターだったよ。第一師団の部隊が、永田町一帯を占拠していたんだ」
教室内が、しんと静まった。
しばらく経って、田原がつぶやくように言った。
「そうか、本当にクーデターだったのか……」
鴨井も声を上げた。
「サシャは、無事だったのか?」
「ああ、無事だ。元気にしてたよ。皆によろしくってさ」
ほっとした空気が流れた。
祥太郎は、改めて口を開いた。
「それよりも、
田原が頭を横に振った。
「いや、授業の合間なんかに聴きに行っても、大雪のニュースばっかりだ」
「ということは、報道管制が敷かれているのかもしれないな……」
「おいおい、そんな大ごとが進行してるってのか……?」
「ドイツ大使館が得た情報では、未確認だけど、政府高官が暗殺されたそうだ」
「ええっ……」
皆が静まり返った中、鴨井が言った。
「あり得ない話じゃないな。今の内閣は、海軍出身の岡田(啓介)総理に率いられている。陸軍に狙われないとも言えない」
仁川が、ぼそりと言った。
「やっぱり陸軍は横暴だ。力で変革を成し遂げようなんて、デモクラシーに反するじゃないか……」
それを聞いた祥太郎が、思い出したように口を開いた。
「そうだ……決起した部隊の歩哨線で、安藤大尉殿に会ったよ。田原と仁川は知ってるだろう? あの安藤大尉も、決起軍に加わっていたよ」
田原と仁川が、眼を丸くした。
「あ、ああ。あのクリスマスパーティーのときの大尉か……」と田原。
「…………クーデターなんか起こしそうな人には、見えなかったけどな」と仁川。
教室内の一高生たちは、それきり誰も何も言わなかった。
祥太郎は、窓の外を見た。昼過ぎなのに薄暗い雪雲が、東京の空を覆っていた。
今、自分は、歴史の転換点のただ中にいるのだ……と、祥太郎には思えてならなかった。
*
大使館への帰途、永田町まで戻ってきたベンツの中で、サシャは、冷ややかそうな眼を車窓の外に向けていた。
サシャの見ている先には、クーデターの決起部隊が集結している拠点があった。
「……決起部隊の主な武装は、携行している歩兵銃の他に、重機関銃に軽機関銃……か。機関銃部隊は随行しているようだが、砲兵はいないようだな?」
佐川が、ハンドルを握ったまま答えた。
「さようですな、どこにも連隊砲が見当たりません。この様子では、おそらく決起したのは、歩兵だけでしょうな。原隊である連隊からも、いまのところ支援はなし……といったところです」
「見ろ、彼らの銃の持ち方を。てんでなってない。あれは新兵だな」
「日本陸軍流の言い方をすれば、初年兵ですな。おそらく、年明けに入隊したばかりの者でしょう」
「頭数だけは揃えたというわけか……」
「まさに、現在の日本陸軍の部隊行動の見本市ですな」
運転しながらも、器用に決起部隊を観察している佐川に、サシャも窓の外を眺めながら言った。
「お前の古巣でもあるだろう。……しかし、よくも首都のど真ん中で、こんな疎漏なクーデターを起こしたものだ」
「疎漏……ですか?」
佐川が、ちらと頭を動かして、バックミラー越しにサシャを見た。
「当たり前だ。いち学生が包囲網を突破できたんだぞ? しかも、我々の車だって、ほとんどフリーパスで通れた。この分なら、我々は永田町を自由に往来できかねない。まったく、詰めが甘いものだ。クーデターともなれば、交通はもちろんだが、放送網も通信網も、水も漏らさずに遮断するのが鉄則だ。日本人というやつは、おめでたいな……」
「木下様を通したのは、安藤という大尉でしょう?」
「安藤大尉を知っているのか?」
「クリスマスパーティーに来ておられました。お嬢様と討論された方でしょう?」
「やはり彼も日本人だ。甘すぎるんだ」
「しかし、その甘さがなければ、木下様はお嬢様に会いに来られなかった。違いますか?」
バックミラー越しの佐川の眼が笑みを浮かべているのを見て、サシャは眉をひそめた。
「ちっ……。……まったく、祥太郎も祥太郎だ。一高生のくせに、無鉄砲なことをする……」
「お嬢様のため……でしょう? いい青年ではありませんか。お嬢様には、うってつけかもしれませんな?」
「うってつけ?」
「ええ。将来の旦那様に、です」
サシャが、びくりと身体を震わせた。被っていた制帽が、ずり落ちそうになるほどだった。
「佐川、ぶん殴るぞ?」
「運転中はお控えください。大使館に戻ったら、いかようにも」
「ふん……やけに祥太郎を褒めるんだな?」
「さきほど、歩哨線のところで、木下様は『この車は帰りにもここを通る』と決起軍に言っていたではありませんか。あの方は自分の身だけではなく、我々のことも案じてくださっているということが、よく分かりました」
「…………」
「……まあ、お嬢様も口では何とおっしゃっても、心の中では木下様のことをご案じになられておられるのでしょう? まったく、お嬢様はお優しい」
サシャは、自分の細い腰にある拳銃吊りをそっと撫でながら、佐川の後ろ頭を睨み付けて言った。
「いい加減に黙れ。今日の僕のルガーには、実弾が入っているのを忘れるなよ」
「おお、おそろしや」
佐川が大仰に肩をすくめるのを見て、サシャは顔をしかめながら、眼を車窓に向け直した。
「ふん……いずれにしても、こんな軍事行動、すぐに鎮圧されるに決まってる」
「それはどうですかな……?」
「どうですかな、とは?」
「日本人は、それほど単純明快に動けるような人種ではありません。解決には、長くかかるかもしれませんよ、これは」
「中堅将校が、勝手に軍を動かしたんだ。政府要人まで暗殺したというのが本当なら、これが許されるわけがないだろう? ましてや、日本軍は天皇の軍隊と言われていたはずだが?」
「だからです。天皇陛下の
サシャは、しばらくポカンと口を半開きにしていた。
「……呆れたな」
「陸軍上層部は今頃、
「……」
サシャは、車窓の向こうに、初年兵であろう初々しそうな兵士が、寒さに震えながら、自分の歩兵銃を握りしめて歩哨任務についているのを見た。
ふと、その兵士がサシャと眼を合わせた。
サシャは、その鼻を真っ赤にした、少年のあどけなさを残す兵士に見つめられて、思わず眼を逸らしていた。
「……佐川」
「何でしょう?」
「……これで、農村救済とやらが実現できればいいんだがな」
「…………さようですな」
ときおり、雪にタイヤをとられながらも、ベンツはドイツ大使館へと走り続けた。
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