第6話 その、雪の叛乱は……(前)2/3
祥太郎は、堂込という名の曹長と、雪の中を歩いた。
話すこともないので、気まずいな……と祥太郎が思ったとき、堂込が口を開いた。
「……さっき、安藤中隊長は、君のことを、友だち想いだと言っていたな?」
「はい、そう言われました」
「それは、うちの中隊長にも当てはまることだ」
堂込が、祥太郎に歯を見せるように笑いながら言った。安藤という中隊長が、部下から慕われているらしいのを、祥太郎は感じ取った。
「安藤大尉殿も、友だち想いなんですね?」
「ああ……。その友だち想いが、中隊長をこの決起に加担させてしまった。決起将校の中には、中隊長の陸軍士官学校での同期がいたからな」
「……」
「中隊長は元々、この決起に乗り気じゃなかった。いつも我々に言っていたよ、武装決起は時期尚早だとな。しかし、他の同志を見捨てることは、あの優しい中隊長には、どうしてもできなかったんだ」
「……」
さもありなん、と祥太郎は思った。そうでなければ、あの真面目で誠実そうな陸軍大尉が、理想と貧しい農村の現実との間で苦悩するはずがない、と。
堂込は続けた。
「君の友だち想いが、その友だちに届くといいな」
「……はい!」
そんな話をしているうちに、二人はドイツ大使館前にたどりついた。
堂込が言った。
「待っててやりたいところだが、俺も小隊を指揮しなければならん。俺は戻る」
「あの、武運……いや、お体に気を付けてください」
「武運長久を、とはさすがに言えんよな」
そう言って、堂込は笑った。
「君こそ、無事に戻るんだぞ」
ドイツ大使館の門の前で、堂込は祥太郎に手を振り、踵を返して走り去った。
*
祥太郎は、大使館の警衛の警官に事情を話して門を開けてもらい、敷地を通って、玄関ホールに入った。クリスマスパーティーのときのことが嘘のように、この日のドイツ大使館は、雪に包まれてしんとしていた。
玄関ホールには、十人ほどのドイツ人が集まっていた。背広姿の大使館スタッフらしい男たちと、秘書やメイドらしい女たちだった。おそらく、外の様子が不安なので、ここに集まっているのだろうと思われた。
その人々の中に、祥太郎は、サシャの姿を見つけた。
「サシャ!」
驚きの表情で、サシャが祥太郎を見た。
「祥太郎……どうして、ここに来た?」
「決まってるじゃないか。サシャが心配だから来たんだよ」
「正体不明の兵士たちが包囲している中を……か?」
「そうさ。サシャも覚えているだろう? クリスマスパーティーで会った安藤大尉を。あの大尉に、通してもらったんだ」
「ああ……あの大尉か……」
「うん。サシャによろしく伝えてくれってさ」
「そうか……」
そう言いながら、サシャは祥太郎の冷え切った両手を、包むようにとり、暖かい吐息をかけた。
「……まったく。この寒いのに」
苦笑するサシャの顔を見た祥太郎は、とりあえずほっとしたのだった。サシャの暖かさに、祥太郎は、思わず手が溶けそうになる錯覚を覚えた。
佐川執事が、祥太郎の学生マントの肩に薄く積もった雪を払ってやった。
「危険な中を、よくここまで来てくださいました……」
「何度かこちらに電話したんです。けど、繋がりませんでした」
「大使も武官も、電話での情報収集に没頭しているのです。なにしろ、外に出るのは危険ですから……」
「ああ、なるほど……」
「それより、お身体が冷えているでしょう。何か温かいものを持ってこさせます」
そう言って、佐川は駆けていった。
祥太郎は、先ほどからあることに気づいていた。よく見ると、サシャの装いが、尋常ではなかったのだ。
「それより……なんなんだ、サシャのその服装は……」
サシャは、鉤十字の腕章を付けた、ナチス親衛隊の真っ黒な制服を着ていた。すぐ近くにいるサシャの父・ノルベルトが着ているものと、ほぼ同じものだった。
「あ……これは……外が危険な今だからこそ、はっきりとドイツ人だと分かる服装をしているだけだ。……別に僕は、親衛隊員じゃない」
「そ、そうか……」
サシャは、どこか不自然にどもりそうになりながらそう言ったが、祥太郎は納得した。確かに、外国人……ドイツ人であると明瞭に分かれば、決起軍も手出しはしてこないだろう。
サシャが、逆に祥太郎に問いかけた。
「その背中の荷物は?」
「流通が止められて困っているだろうと思って、持ってきた。缶詰だ」
祥太郎は、玄関ホールにあるテーブルの上に、色とりどりの缶詰を並べた。
戻ってきた佐川が顔をほころばせて言った。
「助かります。これは心強い」
そのとき、サシャの義父であるノルベルト親衛隊大佐が口を開いた。
「やあ、クリスマスパーティーに来てくれていたな? ええと……」
「あのときはお世話になりました。木下祥太郎といいます」
「失礼、木下君。さっそくだが、今朝からこの近辺で何が起きているのか、我々には状況がよく分からない。夢かうつつか、夜中に銃声のような音が聞こえた気もするんだが……。朝起きてみたら、永田町一帯が兵隊に囲まれている有様だ。いったい、何があったんだ?」
「日本陸軍の、武装決起です」
「武装決起だと? どこの部隊だ?」
祥太郎は、答えるのをためらった。安藤の顔が、脳裏に浮かんできたからだ。だが、いずれは明らかになることと思い直して、口を開いた。
「……蜂起したのは、陸軍第一師団の歩兵第一連隊、および第三連隊です」
「君は状況を把握しているのか?」
「自分の知る範囲で、ですが」
「聞かせてもらいたい。彼らの目的はなんだ?」
クリスマスパーティーのときの安藤とサシャのやり取りを、祥太郎は思い返した。
「恐らく、貧しい農村の救済です」
「未確認だが、政府高官が暗殺されたとの情報がある。農村救済をするにしては、過激すぎやしないかね?」
祥太郎は、堂込曹長の拳銃の匂いを思い出していた。
「そうかもしれません。複数の部隊が決起しているようですから、指揮官たちも複数いるでしょうし、その中には何らかの政治的野心を持っている人も、いないとは言えないでしょう」
「日本人としての君の意見を聞きたい。君は率直に、この事件について、どう思う?」
気づけば、サシャも含めて、その場にいるドイツ人たちが、一様に祥太郎を凝視していた。彼らは、祥太郎の背後に、日本そのものを見ているようだった。
「彼らに、農村救済を希求する想いがあるのは事実です。俺も、その点については同情します」
「…………農村が疲弊していたのは、かつての我がドイツも同じだ。確かに、同情できなくもないな」
「しかし、武力による暗殺という手段をもって、変革を成し遂げようとするのは、到底許される事ではないと思います。我が国は、いちおう、議会制民主主義国家ですから」
聞き終えたノルベルトは、満足そうにうなずいた。
「君は、はっきりと自分の意見を言える日本人なんだな。さすがは、日本の筆頭ナンバースクールの生徒だ。すばらしい」
そのとき、メイドがコーヒーカップと皿の載ったトレイを、祥太郎のところへ持ってきた。祥太郎は、温かいココアにありついた。
祥太郎が飲み終わるのを待って、ノルベルトが口を開いた。
「よし、佐川!」
「はい、ここに」
「車を出せ。木下君を、一高まで送って差し上げなさい」
「かしこまりました」
「タイヤにはチェーンを付けているだろうな?」
「はい、抜かりなく」
佐川は玄関に車を廻すために、外套を着て外に出て行った。
祥太郎は、ノルベルトに礼を言った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、こんな日に危険を冒して来てくれてすまないな」
そばに控えるように立っていたサシャも、祥太郎に声をかけた。
「祥太郎」
「うん?」
「……来てくれて、ありがとう」
「何言ってんだよ。友だちだろ?」
「……ああ、そうだな」
サシャは、照れたように祥太郎から眼を少し逸らしたのち、遠慮がちに言葉を続けた。
「送りの車だが……僕も、一緒に乗ってっていいか?」
「……? ああ、もちろん」
安藤大尉が帰路を保証してくれているとはいうものの、祥太郎は、サシャがどうして危険を承知で祥太郎の帰り道に同行しようとしているのか分からなかった。が、嬉しいことには変わりないので、それ以上は深く考えないことにした。
サシャが、親衛隊の制服とセットになっている制帽を被った。
その制帽の正面についている、銀色に輝く髑髏……死しても総統を守らん、という意味のシンボルが、祥太郎を見下ろしていた。
ドイツ人たちに見送られて、祥太郎とサシャを乗せたベンツは、小さな鉤十字の旗を翻して、大使館の正門を出た。
しばらく走ると、案の定、歩哨線に行き当たった。祥太郎が行きの道中でつかまったものとは別のものだった。
ベンツは、詰襟に『1』と記された軍服を着た兵士たちから止められた。
「止まれ!」
兵士の一人が、停止したベンツの左側の後部座席に近寄った。
その内側に座り、鋭い目つきで自分を見返してくる金髪碧眼のドイツ人の制服姿が、まるでナチスの高官に見えたのか、その兵士はわずかに後ずさった。
祥太郎は、サシャに窓を開けてもらい、身を乗り出すようにして兵士に言った。
「ドイツ大使館からの帰りです。行きは、歩兵第三連隊の安藤大尉に許可を頂いて通りました!」
兵士は、後ろに控えていた下士官に振り向いた。下士官は、ひとつ頷いただけだった。それを確認して、兵士はベンツに向き直った。
「よし、通れ!」
そのとき、祥太郎は気付いたことがあり、再び口を開いた。
「この後も、この車はドイツ大使館へ戻ります。その際も、ここを通過してよろしいでしょうか?」
今一度、兵士は下士官のほうを見た。下士官が直接回答した。
「ああ、構わん」
ベンツは、ゆっくりと発進した。
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