第10話 その、初夏の五月祭は……1/3
始業式の日の夜。
ドイツ大使館に帰ったサシャは、義父ノルベルトの部屋を訪れた。ノルベルトは、机に向かって執務中だった。
『お義父様。お話があります』
『何だ。急にどうした?』
ノルベルトは、執務を続けたまま、サシャの顔も見ずに問うた。
『武官付としてやってきた、フランツ・ハイデルベルグのことです』
『ああ。一高に留学してきたんだろう? 仲良くしてやればいい』
『仲良く……? そんな甘いことを言っている場合ではありません。僕は奴と話しました。奴は、僕らを牽制しに来たんです!』
『我々を牽制……?』
ノルベルトが顔だけサシャに振り返った。
『ええ。奴は、防共協定締結を妨害するつもりです。自分の口で、はっきりとそう言っていました』
『彼は陸軍少尉だそうだ。陸軍所属なら、防共協定には消極的だろうしな……不自然なことではない』
『不自然ではないって……そんな悠長なことを……』
『まあ……考え方の違いはあるだろう。しかし、いくらここが極東であろうと、目立った妨害工作はできまい』
『実際に脅されました。僕を殺すこともあり得ると』
『そんな子どもじみた脅しに屈するようなお前でもあるまい』
娘が凌辱されてもいいというのか、という憤りを何とか抑えつつ、サシャは続けた。
『もう一つ、気になることを聞きました。我が第三帝国の中国に対する武器輸出を、総統閣下はご存知らしいということです』
『……らしいな』
『らしいなって……?』
『私も、それくらいのことは耳にしているということだ』
『そんな……』
『それについては、日本の
徹頭徹尾、フランツに対して否定的な態度を見せていないノルベルトに、サシャはいらだってきた。
『お義父様……どうして奴をそう庇うのですか? 何をおっしゃりたいんですか?』
『まあ、落ち着け、サシャ。彼らは、警告以上のことはできんさ。第一、本気で我々を潰しにかかるなら、自らの所属を明るみにすることはないはずだ。だろう?』
『…………』
『国防軍としても、
『……本音は、国防軍と親衛隊の懸け橋になりたいなどと言っていました』
『そうか。それならば、私と一緒だ』
『え……?』
絶句するサシャ。そんなサシャに、ノルベルトはためらいがちに口を開いた。
『その……急な話だが……お前さえよければ、……いずれ、彼と結婚しないか?』
『は……?』
『私の本音としては、由緒正しい貴族である彼を、我が家に婿養子として迎え入れたいのだ』
『そ、そんな……! 僕は絶対に嫌です!』
ノルベルトは語気を強めた。
『いいか、お前は女だ。今は親衛隊少尉だが、いつまでも女の身のままで親衛隊に居続けられるわけではない。我々もいずれ本国に帰るのだ。そうなればお前は免官、あるいは女性スタッフとして親衛隊の事務方にまわることになる。どの道、家庭に入る必要があるのだ』
『…………』
サシャは何も言えなかった。サシャとて、ずっと親衛隊の将校でいられるとは思わなかった。しかし、フランツから突き付けられた現実を、またしてもノルベルトから突き付けられると、動揺は隠せなかった。
『……私もフランツ君と話したが、彼はいい青年だ。彼が婿なら、安心してフランベルグ家を継がせられる』
『あんな、友邦日本に背信的な立場をとっている奴の、どこが……!』
『そう言うな。ともかく、私としては、良縁だと思うんだがな』
サシャは、たまらないとばかりに言葉を続けた。
『お義父様は、そんなに国防軍とのパイプが欲しいのですか? 防共協定締結よりも、フランベルグ家の将来のほうが大事なのですか? 友邦よりも、家のほうが大事なのですか……?』
『サシャ、私は何もそんなつもりは……』
『お義父様が僕を拾ったのは、ただの
『バカを言うな!』
ノルベルトは立ち上がり、サシャの頬をはたいた。
『っ……』
『……サシャ。お前は、この国に感情移入しすぎているのではないか?』
『友邦を大切に思うのは、当たり前です!』
『……あまり行き過ぎるな。お前は女だ。大事なものを探して、あれこれと目移りするのも仕方なかろうが、本当に大切なものを見失ってはならん』
『大切なものって……』
サシャは、愕然としていた。ノルベルトの言っていることは、本質的に、フランツのそれと変わらないと分かったからだ。
『すでに、今年に入り、我が軍はラインラント進駐を果たしている。
ノルベルトはサシャに背を向けて、机へ戻った。
そのノルベルトの背中を、サシャは力なく見ているだけだった。
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