第10話 その、初夏の五月祭は……2/3
新たな留学生・フランツは、この上なく一高……三年文乙の日常に溶け込んでいた。
サシャに続く二人目のドイツ人留学生として、フランツは一高じゅうの耳目を集めた。それらの期待に、フランツは十二分に応えていた。
フランツもまた、成績優秀、スポーツ万能だった。それまでサシャが占めていた学業成績的ポジションを、フランツは呆気なく自分のものにしてしまっていた。
そんなフランツは、生まれ持ったキャラが明るいだけに、あっという間にクラスに確たる居場所をも得ていた。
同じドイツ人留学生ということで、サシャとフランツもまた友好的か……と思いきや、祥太郎はじめ誰の眼から見ても、フランツは明らかにサシャに避けられていた。だが、それもまた、日常の一コマとしてすっかり定着してしまうようになった。
時は、五月に入った。
そのある晴れた日曜日に、祥太郎を筆頭とする一高生の集団が、のんびりと街を歩き、目的地である私立・精華高等女学校に向かっていた。祥太郎の妹の道子が通っている精華高女で、文化発表会である五月祭が開催されるからだ。
道子から招待券を複数渡されていた祥太郎は、まずサシャを誘った。サシャはそれを快諾していた。
しかし、二人だけというのも寂しいので、祥太郎は他の級友にも声をかけていた。
そのメンバーにちゃっかり、フランツもついて来ていた。
「……どうしてお前まで一緒なんだ?」
市電から精華高女までの徒歩の道のりの途中、サシャがフランツに言った。
フランツは飄々と答えた。
「そりゃあ、俺だって日本の学生の風習を色々と学びたいからさ! サシャ、そう俺を邪険にしないでくれよー」
「ふん……」
祥太郎がとりなすように口を開いた。
「まあ、招待券がちょうど人数分あったんだし……」
そう言いながら、祥太郎はサシャのフランツに対する態度の素っ気なさを、このときも感じ取っていた。……以前の冷たいサシャが、また復活してきたような感じだった。
それだけに、今日こうしてサシャを外へ連れ出すことができたのは、祥太郎にとっては我ながらファインプレーだと思っていた。まさか、フランツまでくっついてくるとは……予想していなくもなかったが。
……この精華高女行きに他について来ていたのは、田原・鴨井・仁川というおなじみのメンバーだった。
「まったく、せっかく女学校に行けるってのに……なんで近ごろはこのバンカラ野郎と行動を共にすることが多くなっちまったんだ……」と、田原を見ながら言う仁川。
「べ、別にいいだろう! 俺だって、今日は部活もないし、寮内の友好を深めるいい機会だと思えよ!」
そう言った田原の言葉に、鴨井もうなずきながら言った。
「まあ、俺たちも来年の今頃は、一高にいないんだからな……」
「留年しない限りは、だな」と祥太郎が付け加えた。
そんなおしゃべりをしているうちに、六人は精華高女に到着した。
石造りの立派な門と、その向こうに建つモダンな校舎が、祥太郎たちを迎えていた。
「へえ、これが日本の女学校か……」と、フランツが感心したように言った。
門の前に、生徒会の腕章を付けて群れている女学生たちのグループがあった。そのグループに、祥太郎たちは招待券を取り出して足を向けた。
少女たちがおしゃべりを止めて、祥太郎たちの学帽と学生服姿をまじまじと見つめた。
「あ、あの……もしかして、一高から来られたんですか?」
創設以来、数多のインテリを輩出してきた一高のブランドは、とても高かった。一高の柏葉の学章を頂いた学帽と学生服は、女学生たちの憧れの的と言っても過言ではなかった。
興奮気味な少女たちに、軟派を自称する仁川が勢い込んで答えた。
「そうです! 俺ら、一高から来ました!」
わあ、と少女たちが顔を見合わせた。
そのグループのうち一人が、我に返ったように、怪訝そうな顔をした。
「……本当に一高生ですか?」
少女のうたぐりも、無理はなかった。
この頃、どこからか一高の学帽などを入手して一高生を名乗り、無垢な少女を引っかける、悪質な偽の一高生がいることが、よく知られていたからである。
「俺らは
仁川と田原は、ここぞとばかりに学生手帳を見せた。
じっと手帳を見ていた女学生たちが、ややあって歓声を上げた。
「きゃー! 本物よ!」
興奮する女学生たちに囲まれて、軟派な仁川はもちろん、田原も感激に打ち震えていた。そんな二人を、祥太郎と鴨井は苦笑しながら、そしてサシャは虫か何かを見る目で眺めていた。
「ああ、俺、一高に入って良かった……」と仁川。
そこへ、女学生の一人が、サシャとフランツをさして言った。
「ところで、こちらのお二人は?」
「彼らは、ドイツからの留学生です」
それを聞いた女学生たちが、眼を輝かせた。
「えええ? 留学生の方?」
「一高で勉強されてる留学生なんですか?」
「すごい、格好いい!」
それまで仁川や田原たちを取り巻いていた女学生たちが、新たなターゲットを認めて、さっさと移動してしまった。
美形の白人青年二人を囲んでキャーキャー騒いでいる女学生たちを見て、仁川がぽつりとこぼした。
「……サシャとフランツ、なんか俺たちよりも人気じゃないか?」
「涙拭こうぜ、仁川」と田原。
そこへ、新たな生徒会の女学生が駆けてきた。道子だった。
「兄さん……と皆さん、精華高女へようこそ!」
「おお道子、元気そうだな」
「兄さん、しばらくね」
そこへフランツが口を開いた。
「祥太郎、こちらのご令嬢は?」
「俺の妹だよ。道子っていうんだ」
「おお、ミス・ミチコ! よろしくね!」
フランツが道子の手をとり、ぶんぶんと振った。
それを見たサシャが、苦い顔をした。
「おい、あまり道子さんに馴れ馴れしくするな。迷惑だぞ」
「えー」
そんなサシャとフランツをよそに、道子のもとに他の生徒会メンバーが集まってきた。
「木下さんのお兄さん、一高生だったの?」
「知らなかったわ!」
興奮気味にしゃべる友だちに、道子は軽くため息をついた。
「まったく……皆ミーハーなんだから」
そう言って、道子は祥太郎たちに向き直った。
「皆さん、せっかくおいで下さったので、私が皆さんをご案内させていただきますね」
祥太郎一行は、道子に従って、精華高女内を歩き回った。
各部活動が、各教室で研究発表をしているのを見たり、スポーツ系の部活動は日頃の鍛錬の成果を、体育館や武道場、中庭などで披露しているのを見学した。
「皆さん、精華高女はどうですか?」
道子が問いかけた。
「いやあ、新鮮ですね!」と仁川。
「研究発表、俺らの勉強にもなりますよ!」と田原。
「日本の女性は綺麗ですね!」とフランツ。
三人がそう言うなか、祥太郎が口を開いた。
「いや、盛り上がってるのは分かるんだけど、でも……今日の五月祭、なんか前よりも寂しくなってないか?」
それを聞いた道子が、うなずきながら顔を曇らせた。
「そうね……露店も盛大に出したかったけど、時局柄、あまり派手なことはできなくなっちゃったの……」
そんな話をしながら、一同はグラウンドにやって来た。
ちょうどグラウンドでは、軍艦マーチに合わせて、体操着の女学生たちによるダンスが披露されていた。
仁川が眉をひそめて言った。
「なんか、やな感じだな。女学校においてまで、こんな見え見えの国威発揚的なことなんかしなくても……」
鴨井も口を開いた。
「しょうがないだろ。当局の眼もあるからな」
やがて軍艦マーチのダンスは終わり、次の出し物の準備が始まった。
それを見た道子が、はしゃぐようにして言った。
「あ、でも、今から五月祭らしいイベントが始まるんですよ!」
グラウンドのど真ん中に、教師たちの手によって、長い丸太が運ばれてきた。その丸太は白ペンキで塗られており、一方の端には、丸太よりも長い色とりどりの細い布が付けられていた。その端が上になるように、丸太が地面に立てられて、固定された。
道子の言葉を裏付けるように、グラウンドの観衆の数が、先ほどよりもかなり増えていた。
やがて、学内スピーカーから、軽快な音楽が流れ始めた。セーラー服の女学生たちが、丸太を囲むようにしながら、それぞれ手に布の端をとり、踊りだした。
五月晴れの空に、細長い色彩が、少女たちの動きに合わせて、のびやかに回転し、揺れていた。
その様子を見て、フランツが歓声を上げた。
「へえ、懐かしいな!
祥太郎が聞き返した。
「メイポール?」
「ああ、ヨーロッパの祭りさ。春の到来を祝うんだよ。まあ、国や地方によって形はさまざまなんだけど、ドイツじゃあ、花嫁役の少女が家々を祝福して回るっていうのがスタンダードかな」
「ふうん。それがこの起源なのか」
フランツはサシャに振り返りながら言った。
「田舎じゃあ大掛かりにやる祭りなんだけどな。ベルリンはどうだった?」
サシャは、すげなく答えた。
「僕には、縁がなかった」
「そ、そうか……」
……孤児院育ちのサシャには、五月祭など、別世界の出来事だったのだ。この中で唯一、サシャの過去を知っていたフランツは、黙り込んでしまった。
そんなフランツをよそに、道子が解説を続ける。
「メイポールのダンスの次は、最後のプログラムの模擬結婚式です。ポールの下で、新郎役と新婦役が愛を誓い合うの」
「なるほど、日本流にアレンジされてるんだな」とフランツが言った。
そのとき、道子のもとへ、生徒会の生徒がやってきて、深刻な表情で何ごとかを耳打ちした。それを聞いた道子の表情も硬くなった。
やがて、道子は祥太郎たちに向き直った。
「あの……実は……新婦役の生徒が、急に体調を悪くしてしまったんです。その……なので、もしよろしければ、その……」
道子はサシャをチラチラと見ていた。言いはしないが、新婦役の代打にサシャを指名したがっているのは明白だった。
その他の視線も、しぜん、サシャに集中していた。
「……ちょっと待て。君らは僕に、新婦役をさせる気か?」
既視感のあるセリフを言ったサシャ。
「も、もしお願いできるのなら……何しろ、サシャさんはその辺の生徒よりも綺麗だし……一高の寮祭のときも輝いてたし……」
「…………」
サシャは何も反駁しなかった。
沈黙を破ろうと、祥太郎が道子に聞いた。
「ち、ちなみに、新郎役は誰がやるんだ?」
「それが、新郎役は私たちの先生がやる予定なんです。…………でも、それじゃあ夢もへったくれもないから、できれば新郎役も当日サプライズということで変更したいんです」
フランツが、はしゃぐようにして手を挙げた。
「じゃあ、俺が新郎役をやるよ!」
それを聞いたサシャが、血相を変えて言った。
「ふ、ふざけるな! だったら僕はやらない!」
「えー、そんなこと言うなよ!」
「嫌だ! 絶対に嫌だ!」
サシャの拒否の仕方が尋常ではなかったので、皆は驚いた。
祥太郎がサシャに聞いた。
「そんなに嫌なのか?」
「あ、当たり前だ! 誰がこんなやつと……」
「そっか、当たり前なのか……」
フランツはしゅんとしてしまった。
そんなフランツに、田原が問うた。
「フランツよ、お前が留学してきてから思っていたことだが、お前はサシャに何か嫌われるようなことでもしたのか?」
フランツは真夏でもないのに汗をかきだした。
「い、いや? 何もしてないよ? してないなぁー!」
いっぽう、道子は、サシャに詰め寄るように交渉を続けていた。
「サシャさん、他の方となら、やってくれる感じですか?」
「え……あ……」
「さっき、フランツさんとだったら絶対やらないっておっしゃってたから、それなら別の方とならいいのかなって……」
「…………」
サシャは沈黙してしまった。他の男どもならともかく、道子には強く出られなさそうな感じだった。
ややあって、仁川が口を開いた。
「じゃあ、木下が新郎役をやれよ」
「え? 俺か?」
「ご学友のお前しかいないだろう。サシャはそれでどうだ?」
サシャは皆の注目を浴び、やがて小さく言った。
「別に……祥太郎なら……やらないことはない……」
ほっとした空気が流れた。
「サシャさん、ありがとうございます! じゃあ、サシャさんと兄さん、私と一緒に来て!」
祥太郎とサシャは、道子に手を引っ張られて、グラウンドの隅に設営された、テントに案内された。
仕切られた空間の一角で、祥太郎は、着なれないモーニングを相手に、着替えに悪戦苦闘していた。
基本的に一高生は、外出時も含めて、学生服で過ごすことと定められている。そんな祥太郎だったが、この精華高女の教師の誰かの私物であろうモーニングを、やっとのことで身に着けることができた。
「兄さん、準備できた?」
仕切り越しの道子の声に、祥太郎は返事をした。
「ああ、いいぜ」
「そう。こっちも大丈夫だから、出てきてもいいわよ」
そう言われて、祥太郎は仕切りの向こうへ顔を出した。
……そこには、白く長いウエディングドレス姿の、金髪碧眼の花嫁がいた。その薄いベール越しに、サシャが恥じらっているのが見てとれた。
「あ、あんまり見るなよ……」
サシャが、蚊の鳴くような声で言った。
「綺麗だ……」
祥太郎のそのつぶやくような声を聞いて、白いベールが沈んだ。サシャがうつむいたのだ。
祥太郎は、春休みに銀座でサシャとウエディングドレスを見たときのことを思い出していた。サシャは良く似合うだろうな、と思っていたが、実際に着せてみると、予想以上だった……。
「サシャさん、似合ってる! サイズもちょうど良くて、安心したわ!」
「あ、ありがとう」
「でも、誰の手助けも必要とせずにウエディングドレスに着替えちゃうなんて、サシャさんはやっぱりすごいわね!」
それを聞いた祥太郎は驚いた。
「え、一人で着替えたのか?」
「べ、別にいいだろう……」
そのとき道子が、テントの外に控えている進行役の生徒から、合図を受けた。
「さあ、いよいよ出番よ!」
道子のゴーサインを受けて、グラウンドにアナウンスが流れた。
《これより、最後のプログラム、模擬結婚式を行います! 新郎・新婦役は飛び入りで、新郎役は一高生の木下祥太郎さん、そして新婦役は、同じく一高にいる留学生のサシャ・フランベルグさんです!》
そして、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』が、グラウンドに……いや、精華高女じゅうに響き渡った。
祥太郎はサシャの手を取り、テントの外へ踏み出した。
とたんに、二人は、何百という観衆の注目と……拍手を受けた。
祥太郎は、深い感慨にふけりながら、サシャがドレスに足を取られないように、しっかりその手をとって、教会に擬されているポールへと歩き始めた。
……ああ、何だか誇らしいな。この誇らしさは、一高に合格したとき……いや、それ以上かも知れない。そうだ、サシャみたいな美人を奥さんにできたら、どれだけ幸せだろうか。おっと……男に対して、何を考えているんだ、俺は……。
……でも、そういえば、道子が正月に言っていた。サシャを、女の子だと思っていたと……。なるほど、確かにそうだ。今のサシャは、どこからどう見ても女の子だ。
……そう、せめて今だけは、女の子として、サシャをエスコートしよう。
やがて二人は、ポールの根本にたどり着いた。待機していた数人の女学生が、笑顔で紙吹雪を舞い散らせた。
観客たちから、万雷の拍手が沸き起こった。
グラウンドの一角では、万歳三唱が起きている。田原たちだった。フランツも、どこか苦笑しながら、二人に拍手を送っていた。
祥太郎とサシャは、恥ずかし気にではあるが、観衆に白手袋の手を振り返した。
準備のいいことに、写真屋が来ており、スタンバイしていた。
「では、お写真を頂戴いたします。はい、笑って!」
祥太郎はぎこちなく、そしてサシャは、意外にというか、これまで見せたことのないような吹っ切れた様子で、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
この写真のフラッシュを幕切れとするかのように、精華高女の五月祭は、つつがなく終了したのだった。
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