第3話 その、クリスマスは……1/3







一九三五(昭和十)年も、年の瀬が迫っていた、ある日の夜。



 ここは、永田町のドイツ大使館。


 その一室で、机に向かっている男のそば……隣の小さな机で、サシャはタイプライターに向かって、男から渡された書類のコピーを作っていた。


 やがて、男が……サシャの義父である、ノルベルト・ツー・フランベルグ親衛隊SS大佐が、机に向かって書きものをしたまま、サシャに口を開いた。


「サシャ。日本のハイスクールでの生活はどうだ?」

「はい。特に問題なく過ごせています」

「問題なく……か? 聞いたぞ。先日、お前は夜遅くに、へべれけに酔って帰ってきたというじゃないか。どういうことだ?」


 サシャが、ぴくりと肩を震わせた。


「……申し訳ありません」


 神妙に謝るサシャ。

 ノルベルトは、ため息をつきながら口を開いた。


「……まあいい。友だち付き合いなら、同情の余地がないこともない。それよりも、来週火曜日にこの大使館で何があるか、忘れたわけではあるまいな?」

「……はい」

「なら話は早い。お前も、いちおうドイツの顔だ。招待客を集めてこい」

「…………はい」

「何だ、元気がないぞ。酔っぱらって帰るくらいだから、友だちがいないということはあるまい?」

「いいえ、そんなことは……」

「ならば問題あるまい。期待しているぞ」

「…………」


 話は終わりだ、とばかりに会話を打ち切ったノルベルトだったが、サシャがそのまま返事もせず沈黙しているのに気付いて、やっとサシャに顔を向けた。


「何だ? 何か言いたいことでもあるのか?」

「お義父とう様……僕は、もっと別のことで、国家の役に立ちたいです」

「別のこと? 今の任務が嫌だというのか?」

「……少なくとも、男のふりをして、日本のレベルの低い学校に溶け込み続けるなんて、僕は正直……」


 それを聞いたノルベルトは、両眼の間を揉むようにしながら言った。


「我がドイツにおける、女の本来の役割を、お前は知らないわけじゃないだろう?」


 サシャは沈黙をもって肯定した。


「…………」

「選ばれたドイツ青年の妻となり、優秀なアーリア民族の血を残すことだ。しかし、以前、お前はそれを嫌だと言ったな?」


 サシャは、うつむいて言った。


「僕は……、子作りのためだけに生きていたくはありません。もっと、重要とされる何かを、国家……第三帝国のためにしたいんです」

「自分の頭脳が優秀だからと、うぬぼれているだけのようにしか聞こえんな」

「それは……」

「だから、今回の花道を用意してやったのだ」

「……」


 ノルベルトは、顔に憂いを浮かばせながら、口を開いた。


「ドイツ国防軍や外務省のバカ共には、我が第三帝国の国交を任してはおけん。奴らは、中国に肩入れして武器を売り、日本との戦争を煽っている。……バカな話だ。防共という長い目で見たとき、我が第三帝国が肩を組むべきは、中国ではなく日本だ。その日本に背信行為を行うバカ共を、我々はこの極東の地で牽制せねばならん。親衛隊が、はるばるドイツからやってきて、この在日大使館に部屋を持つことすら、相当な努力を必要としたのだ」

「……」

「だから、お前の任務も重要なのだ。独日の防共協定締結に向けて動いている私の、事務的な手伝いだけじゃない。日本のエリートスクールに留学して、学生の意識や実情を調査し、なおかつ、将来のエリート層の、我が第三帝国に対する好感度を上げるように励むこと……私や他の者にはできないことだ。我々親衛隊が、将来の同盟国となるべき日本に、パイプとなる窓口を設置する意義は大きい。さりとて、わざわざ現役の親衛隊の青年を、こんな極東までやることはできんと、我が上層部は言った。少なくとも、防共協定が締結されるまではな……。それで、私の娘たるお前に白羽の矢が立てられたのだ。それを、お前は嫌だというのか?」

「そ、それは……」

「それに、佐川から聞いたが、お前は一高での生活に、さほど積極的な姿勢を見せていないらしいな?」

「っ……!」


 サシャがまた、肩を震わせた。


「それどころか、留学初日に、決闘したそうだな? 軍事訓練の教官とも衝突したのは、お前から直接聞いていたが……」

「は、はい……」

「だいたい予想はつく。おおかた、思ったことをはっきり言ってしまったり、周りを見下すような態度でもとって、ヒンシュクを買ったんだろう?」

「…………」

「バカ者が。留学そうそう、第三帝国の名を下げるようなことをしてどうするんだ?」

「……申し訳ありません」

「ここ東洋には、雄弁は銀、沈黙は金という格言もあるだろう?」

「……すみません。初めて知りました」

「なんとか挽回しろ。もっと友達を作って、交流するんだ。なにも敵弾の中を百メートル前進しろと言っているわけではない」

「……分かりました」

「話は終わりだ」


 机に向き直ろうとしたノルベルトに、サシャが口を開いた。


「あの……お義父様……」

「何だ?」

「……僕のような境遇の者をここまで育ててくださり、親衛隊にまで引き上げてくださって、ありがとうございます」

「礼なら、私じゃない。お前のような捨て子にも教育の機会を与えて下さった、総統閣下に言うんだな」

「はい……」

「……血が繋がっていなくても、母親がいなくても、お前は私の娘だ」


 ノルベルトは手を伸ばして、サシャの頭を撫でた。サシャはくすぐったそうにしながら、それを受けていた。


「はい……」

「だから、この間のお前のわがままも聞き届けて、日本の陸軍省に通してやったのだ」

「感謝しても、しきれません」

「お前には、期待している。あまり、私を失望させないでくれよ……」

「はい、お義父様」





 *





 その、あくる日のことだった。


 一高では、いつもと変わりのない日常が繰り広げられていたが、ひとり祥太郎だけは、隣の席のサシャの様子が、いつもとは違って落ち着かないことに気づいた。サシャはこの日の朝から、どことなく、そわそわしているように見受けられたのだ。 


 祥太郎が心配しているうちに、あっという間に放課後となった。


「なあ、サシャ」

「……な、何だ?」


 サシャは、ぴくりとして、祥太郎の方を向いた。


「あ……驚かせて悪い。その……何だ、何かあったのか?」

「な、何かって?」

「いや……間違ってたら申し訳ないが……なんだか今日、落ち着かない様子だったからさ……」

「べ、別に……何でもない……」


 サシャはどもるように言った。その顔に、冬だというのに汗が浮かんでいるのを、祥太郎は見た。


「本当か? 体調でも悪いのか?」

「そ、そんなこともない」

「そっか……?」

「……」

「もしかして、俺に何か用事でもあるのか? 何か言いにくいこととか……」


 サシャが眼を見開いた。その眼はすぐに伏せられた。ややあってサシャは、思い切ったように口を開いた。


「あ……あのさ……」

「どうした?」

「来週の火曜日、二十四日だけど……夕方から、大使館で、クリスマスパーティーがあるんだ。父が、その……友だちを招待しろと言うんで……よかったら……来てくれないか……?」

「ああ、喜んで! そうだ、田原と仁川と鴨井も、呼んでいいかな?」

「……」

「あ、もしかして嫌?」


 サシャはぶんぶんと首を横に振った。夕陽を受けて金色に輝く前髪が、仔犬のしっぽのように、さらさらと揺れた。


「嫌……ではない……」

「服装は、どうするんだ?」

「ああ……制服でいい。僕らは学生なんだし」

「そっかそっか」


 そう言いながら、祥太郎はにんまりと笑った。


「なーんだ、それを俺に言おうとして、今日は一日ドキドキしてたってことか?」

「そ、そんなわけない……だろ……」

「いやあ、サシャも可愛いところがあるんだな!」

「か……かわいい……だと?」


 サシャがいきなり立ち上がった。

 祥太郎は、調子に乗ってサシャを怒らせてしまったかと思い、身構えた。


 しかし、サシャは、祥太郎を見つめる顔を、次第に真っ赤にさせて俯いた。

 級友たちが何ごとかと注目しているなか、サシャは、ややあって鞄を掴んだ。


「ぼ、僕はもう帰るからな! 招待状は、明日渡す!」


 サシャは、風のように教室を去っていった。


 入れ替わるように、田原がやってきた。


「おう、何だ何だ? サシャのやつとケンカでもしたのか?」

「まさか。今度の二十四日、ドイツ大使館でのクリスマスパーティーに誘われたんだよ」

「何だと! クリスマスパーティーか、ちっ、羨ましいな」

「そのことだけど、田原、お前も招待したいってさ」

「ええっ! 俺もいいのか?」


 話を聞きつけて、鴨井と仁川もやってきた。


「クリスマスパーティーだと? 俺たちも行っていいか?」

「もちろん、二人にも来て欲しいってさ」


「しっかし田原、お前みたいなバンカラが、クリスマスって柄か?」と仁川。

「なっ……何を! 俺がクリスマスを楽しんで、何が悪い!」と田原。

「まあ、寮で騒ぐよりも建設的だし、いいメシが食えそうだな」と鴨井。


 祥太郎は、心がほっこりしていた……あのサシャから、催しごとに招待してもらえるなんて。やっと、友達として認められてきたんだな、と祥太郎は思った。




 *




 そして、二十四日の夕暮れ。



 祥太郎と田原と仁川は、帝都線と市電を使って、ドイツ大使館を訪れた。鴨井は、風邪気味のため、残念ながら欠席していた。

 大使館の敷地内の大木は、立派なクリスマスツリーの装いをしていた。銀河のような電飾、無数の飾り付けが、祥太郎たちの眼を楽しませた。


 大使館は、外はもちろん、中も華やいでいた。


 スチーム暖房がよくきいた、明るい玄関ホールに入ると、あの佐川執事が来客対応をしていた。


「おや、木下様、足元のお暗い中を、ようこそ」

「こんばんは」


 佐川に招待状を示すと、おのおの学生マントを預けた祥太郎たちは、建物左奥のダイニングホールに案内された。その天井の高さと奥行きの広さに、祥太郎たちは圧倒された。さながら、ちょっとした公会堂なみの大きさだった。シャンデリアの煌めきと、深紅の色をしたふかふかの絨毯と、ご馳走の並んだたくさんのテーブルと、あちこちでワインやシャンパン片手に優雅に話をしながら煙草をふかしている日独の高官たちに囲まれて、祥太郎たちは立ち尽くした。


 会場にはミニオーケストラが来ており、人々のおしゃべりを遮らない程度の音量で、ゆったりした曲を流していた。高官とその妻女の中には、曲に合わせてダンスをしている者もいた。


 制服姿のサシャが、祥太郎たちのところへやって来た。


「よう、サシャ」


 祥太郎の挨拶に、少し照れながら、サシャは答えた。


「……よく来てくれた」


「とんでもない。楽しみにしてたよ」と祥太郎。

「こちらこそこんな立派なパーティーに招待してもらって、嬉しいぜ」と田原。

「しかし、すごく豪華だな。まるで大富豪になった気分だ」と仁川。


 仁川の言葉に、田原は、この時ばかりは、自分のボロボロな服装を……弊衣破帽を恥じていた。


 祥太郎は、サシャの左腕に、鉤十字ハーケンクロイツが記された腕章を見た。襟には、鉤十字の党員バッヂもあった。祥太郎は、なんとなく、反射的にその鉤十字から目を逸らした。ナチスを嫌悪しているからではない。その鉤十字の図柄が持つ印象力が、禍々しいほどに強く感じられたからだ。

 

 ふと目を上げると、ダイニングホールの壁一面に、サシャの腕章と同じものが……巨大な鉤十字の旗が、日本の旭日旗とともに並んで張ってある。


 周囲を見ると、招待されているのは、祥太郎の他に、背広姿の日本政府高官や、日本陸海軍の将校たちだった。


 さすがに、学生の招待客は、祥太郎たちだけだった。


 サシャが、口を開いた。


「……君らに、父を紹介するよ」


 そう言ってサシャが呼んだ、黒服の中年の白人男性が、祥太郎たちのところへ足早にやって来て、口を開いた。流ちょうな日本語だった。


「君たちが、サシャの友だちかね?」

「は、はい!」

「はじめまして。サシャの父親の、ノルベルトです。いつも、息子がお世話になっています。今後とも、よろしく」


 そこまで言って、ノルベルトは祥太郎たち三人を順番に見回した。


「ところで、この中に、うちの息子と決闘した者はいるかね?」


 田原が、小さく手を挙げた。


「は、はい……俺です……」

「結果はどうあれ、そこに至るまでは、息子にも責めを負うべきところがあったと思う。申し訳ない」


 ノルベルトが頭を下げた。かたわらで聞いているサシャも、きまりが悪そうにうつむいた。


「い、いえ……正々堂々とやって、負けたのは俺ですから……」

「君は、日本の武士道そのものだな」

「と、とんでもないです……」

「まあ、これに懲りずに、息子と仲良くやって欲しい」

「は、はい!」


 祥太郎たちが頭を下げると、ノルベルトは、せわしなく別の客のところへ挨拶に行った。


 祥太郎がサシャに口を開いた。


「あれ……ナチスの親衛隊の制服か? サシャのお父さんは、親衛隊なんだな」

「ああ、そうだ。親衛隊の大佐をしている」とサシャ。

「やっぱりか。俺、あの制服は雑誌で見たことがあるから」


 そこへ、田原がサシャに向き直った。


「サシャ……その……あの決闘のことだけどな……」

「な、何だよ、今更……」

「決闘のときの約束のことだけど、覚えているか?」

「あ、ああ……なんでも一つ、僕の言うことを聞いてくれるんだっけ?」

「そうだ。忘れちゃいないか心配だったが、何かあれば遠慮せずに言えよ? お前は勝者だから、その権利があるんだからな」

 

 サシャが微笑しながら言った。


「分かった。そのときが来るまで、しっかり温存させてもらうよ」


 田原は、「な……こいつめ!」と言いながら、サシャの脇腹を突っついていた。


 その様子を、祥太郎は満足げに見ていた。


 仁川がそれに気づいて言った。


「なんだよ木下、どうしたんだ?」

「いやな、あのサシャが、文乙にやってきたころに比べると、少しは、とっつきやすいやつになったかなって思ってたんだ」

「ああ……まあな。あの田原とじゃれ合っているくらいだもんな。なんだ、我がことのように喜ぶんだな?」

「そりゃそうだよ。何せ俺は、サシャのご学友だからな」

「ああ、そうだったな。だけど、この様子じゃ、そのうちお役御免になるかもしれないぜ?」

「そうなったら……ちょっと寂しいかもな」

「そうか? また居眠りする余裕だって出てきそうなもんだけどな」

「まあ……そりゃそうだけどさ」

「なんだ、サシャに情が移ったように見えるな」

「情が移ったというか……気になるんだよな」

「気になる? もしかして木下、お前、そっち系なのか?」

 

 仁川が、右手の甲を立てて、口の端にくっつけてみせた。


「何言ってんだよ。そうじゃない。サシャのやつ、俺たちに何か隠しているような気がする……それだけさ」

「そうか? いったい何を隠してるってんだ?」

「さあ……それが分かんないんだけどさ、何かそんな気がするんだよな……」

「ふーん……。まあでも、あまりサシャにばかりかまけてる必要がなくなってきたのなら、それに越したことはないぜ。何しろ俺たち、受験シーズンに入るんだからな」

「ああ……そっか。春から三年生だもんな。早いもんだなあ」

「俺は東京帝大の文狙いだが、木下は?」

「まあ……だめもとで、東京帝大の法を受けてみるよ」

「お互い、いまいちぱっとしない成績だもんな。頑張ろうぜ」

「ああ」


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