第3話 その、クリスマスは……2/3






 とりあえず、祥太郎たち三人は大皿をもらい、てんでにバイキング形式に料理が盛られているテーブルへ向かい、好みの料理をとった。


 サシャは、他の招待客と話し始めていた。


 田原と仁川は、普段からあまり仲が良くないので、別々になって、バイキング形式で自分の皿に盛りつけた食事を、テーブルでがつがつと食べはじめた。


 自分も腰を下ろそうと、手近なテーブルに向かおうとした正太郎に、声をかけた者があった。丸眼鏡をかけた、温和そうな日本陸軍の大尉だった。


「もしかしたら、君は一高生か?」

「はい、そうです」

「そうか。自分は陸軍第一師団・歩兵第三連隊第六中隊の、安藤輝三あんどうてるぞう……大尉だ」


 祥太郎は、教練で叩きこまれていた敬礼をした。帝都を守護する位置づけにある、ナンバー師団の第一師団は、その意味では一高と同じような格があった。安藤は笑って答礼を寄越した。


「大尉殿は……第一師団の所属なんですね?」

「ああ、今日来ている陸軍将校は、おおかた第一師団か近衛師団の将校たちだよ」

「そうなんですね」

「君らは、山崎大尉を知っているだろう?」

「はい、俺もそのことを言おうと思ってました。山崎大尉殿は、一高の配属将校でした」

「そうか。……その山崎大尉なんだが、今週は週番将校なので、今日は来られなかったんだよ。そうか、今日この場に、一高生が来ていたとはな……」


 山崎を大嫌いな仁川がいることもあり、正太郎は、山崎の不在をそっと神に感謝した。


「そう……ですか……。その後、山崎大尉殿は、お元気にされていますか?」

「ああ。山崎大尉は、俺の先輩でね。一高のことは、色々と聞いたよ。厳しくやりすぎて、さすがに君らから嫌われていたと言ってたな」

「ははは……」

「そうそう、山崎大尉はこうも言っていた。一高は、いい学校だと」

「そうなんですね……そう言われると、嬉しいです」

「一高生の君にそれを伝えることができて良かった。まあ、今日はお互いに楽しもうか」

「はい!」 


 祥太郎は、給仕が持ってきてくれた葡萄のジュースで喉を湿らせて、ふと安藤に眼を向け直した。つい今しがた、パーティーを楽しもうと言っていたその顔は、ぼんやりと華やかな会場を見渡しながら、どこか曇っていた。


「あの……安藤大尉殿?」

「ん? どうかしたかね?」

「いえ……ただ、あまり、楽しそうに見えないので」

「ああ。……俺がこうしてパーティーに出ている間にも、全国の農村では、貧しい農民たちが困難に喘いでいる。それを思うと、やはり、俺は心から楽しむことはできなくてね……」


 昭和に入ってからというもの、日本の農村は、全体的に貧しい状況にあった。とくに、東北地方の農村は、冷害などによる大凶作、金融恐慌、去る昭和八年の三陸大津波などにより、まさに貧農と言うべき状況に追い込まれる有様だった。

 この頃、農家の子どもが小学校に弁当を持って行けないという、欠食児童という言葉が流行っていた。

 欠食児童だけならまだしも、貧困のどん底にある農家は、娘を都市に身売りすることもあった。その身売りの相談に、なんと村役場などの行政が対応していた事実もあった。売られた娘は、女工・女給・そして娼婦などとなり、劣悪な環境にいた者は、胸を病むなどして死んでいっていた。

 ここ東京でも、東京駅などの改札の周囲には、義援金を求める人道団体などの姿が目立っていた。


「こう言ったら失礼かもしれませんが、大尉殿は、社会問題にご熱心ですね?」

「俺の中隊に入隊してくる兵士の多くは、貧しい農村の出身者だ。彼らの故郷の窮状は、否が応にも、俺の耳にも入ってくるんだ。家が借金だらけで、姉や妹が身売りされてしまったような兵士が、たくさんいる」

「そうですか……」

「ああ。こうした社会問題を前に、俺たち軍人は、つくづく無力だなと感じてしまう。何か、よい政策があればいいんだが……」


 安藤が、そこまで言ったときだった。


「簡単ですよ。日本の農村の貧困問題の解決は……」


 先客と話し終わったサシャが、安藤の隣に来て、ちょこんとたたずんでいた。


 安藤がサシャに問うた。


「君は?」

「ドイツ留学生の、サシャ・ツー・フランベルグと申します」

「よろしく。日本陸軍の安藤大尉です……。それで、我が国の農村問題が簡単に解決する、とは? 興味がある、ぜひ聞かせて欲しい」

「ナチス(注:国家社会主義ドイツ労働者党)がやったように、日本もすればいいんです」

「ナチスがやったように?」


 サシャは胸を張って続けた。


「我がドイツは、先の大戦と大恐慌で、どん底の状態にありました。それが、ヒトラー総統率いるナチスの諸政策のおかげで、オリンピック(注:翌年開催予定のベルリン・オリンピック)すら開催できるような一等国に復活したのです」

「諸政策?」

「我がドイツの最も大きな問題点は、失業者があまりにも多いことでした。これに対してはナチスが様々な政策を打ちましたが、最も大きなものは、その失業者をなくすために行われた、かつてない規模の公共事業です。それを断行した結果、多くの失業者に職が与えられたのみならず、国内のインフラストラクチャの再構築にはじまり、重工業産業の復活まで達成できるという、まさに一挙両得の結果を、ナチスは得ることができました。今や失業者は、ナチスが政権をとったころに比べると、四分の一程度に等しい状況です。これだけのことを、わずか数年で、ナチスは成し遂げたのです。それどころか、来年のオリンピックの主催国に選ばれたり、労働者階級が海外旅行をできるようになるまでに豊かにもなっている……今や我がドイツ第三帝国は、世界一の福祉国家となったのです」


 サシャは誇らしげに、そして饒舌に語った。酒の入っていない状態で、これほど明るく多弁になったサシャを、祥太郎は初めて見た。


 いっぽうの安藤は、冷静に答えた。


「言うは易し、行うは難し、だよ。それらの諸政策が可能になったのは、ドイツが一党独裁制を採っているからだ」

「日本もそうすればいいのでは?」

「それは無理だと思うね」

「どうしてですか?」


 サシャが小首をかしげて見せた。

 安藤は穏やかに答えた。


「我が国は、天皇陛下の御名のもとに議会制民主主義を採っている。一党独裁制とは相容れない。少なくとも、今現在はね……」


 サシャが、ちょっと悪戯っぽいような表情で、安藤に問うた。


「その議会制民主主義とやらで、貧しい農民が救われていますか?」

「そこなんだよ。それが難しいところなんだ」


 サシャは話を続けた。


「我がドイツは確かに一党独裁制ですが、それで何ら問題は起きていません。起きていないどころか、ますます繁栄していく一方です。これこそまさに、我々の国家社会主義ナチズムの正しさを物語っているのではないでしょうか?」

「……天皇陛下のもとにある民主主義こそ、我が国にあるべき政体システムだと、俺は思っている。もちろん、その民主主義という船の舵は鈍くて重いのが欠点だがね。しかし、一党独裁制という船の、まったく遊びのない舵もまた危険なんだ。こうと決めてしまえば、そちらへまっしぐらだ。人々の多様な知恵が反映される余裕すらない。振り落とされる人も出てくるだろう。今がいかによかろうとも、ね」


 サシャが、それを聞いて、すっと目を細めた……ように祥太郎には見えた。


「それは……ドイツが誤った道に進むかもしれない、ということですか?」

「ああ。まさに今年の九月だったじゃないか。ドイツでニュルンベルク法とやらが施行されたのは……」


 祥太郎は、九月の中ごろに、寮の談話室で読んだ新聞記事を思い出した。


 安藤の語ったニュルンベルク法とは、要するに、在独ユダヤ人の公民権を停止するというもので、これは人道上まずいのではないかと、祥太郎は思ったものだった。


 祥太郎に限らず、この当時の日本国民の一般的なナチス観は、〝ぽっと出の独裁的な政治家が、剛腕を振るって熱心に経済政策をとっているが、対ユダヤ政策には強硬な姿勢を見せており、少々危うい感がある〟というものだった。


 安藤は続けた。


「俺は、ドイツは世界平和……国際協調とは真逆の方向に進もうとしているのではないかと思ってるんだ」


 サシャは、唇を噛みながら、安藤に言い返した。


「……僕自身は、ニュルンベルク法の制定には問題を感じていません。だいいち、過去の功績を鑑みても、ヒトラー総統に、誤りはあり得ません!」

「今のところは、だろう?」


 サシャは、胸の前で両の拳を握りながら、ムキになって叫ぶように言った。


「将来にわたっても、です!」

「それと、これは仮定の話だが、もしヒトラー総統がいなくなったら、ドイツはどうなるんだ?」

「それは……」


 途端に、サシャが口をつぐんだ。ヒトラーの信奉者らしい、いちドイツ人のサシャが、ヒトラーの不在という仮定の事象を考えたことなどなかったのだろうと、はたで見ている祥太郎は思った。


「……それも危険なんだ。ヒトラーという独さ……カリスマがいなくなれば、とたんに立ち行かなくなる。そんな国家は、危険極まりない」

「……」

「言ってしまえば、要するに君らは、ヒトラーというカリスマ一人に頼り切っているだけだ。誰か一人におんぶにだっこ状態では、先ほど言った通り、ヒトラーが暴走を始めてしまうなどして、一旦破滅への道を進み始めたら、もう止まらない。ヒトラーがいなくなって舵取りが消えても、同じことだ。一党独裁制の恐ろしいところは、まさにここだ」


 サシャは首を横に振った。


「ヒトラー総統のことを……独裁者と言いかけましたね?」

「……ああ」

「しかし、アドルフ・ヒトラーは、最初から独裁者だったわけじゃありません。ドイツ国民が、心から望んでドイツを託して、民主的な投票で選ばれたんです!」

「…………」

「だから、団結したドイツ人からなる第三帝国は……その中で選ばれた総統閣下は、限りなく正当で神聖な存在であり、そして永遠なんです!」

「言い切れるのか? ヒトラーは神じゃない。人間だ。……そういった意味において、俺自身は、ナチスは危険をはらんでいると思う」

「……」


 サシャは俯いていたが、やがて顔を上げて、安藤に反撃を始めた。


「……では聞きますが、日本は間違った道を進んでいないと言えるのですか?」

「ん?」

「日本は、満州国の建国をはじめとして、現在も中国で戦争状態にあります。これは他国からみたら、正当性のない領土的野心と見られなくもないと思います。これについては、大尉はどう思われますか?」

「……君の言う通りだ。日本の中国侵出は、このままでは、いずれ満州利権を狙う米英やソ連と衝突を……大戦争を起こすだろう。そうなれば、日本はお終いだ。そんなことをさせるわけにはいかない。……と言っても、遠からず我々第一師団にも、渡満の命令が遠くないうちに来るだろうがね……」


 祥太郎は、安藤の言葉に、意外なものを感じた。現役の陸軍将校が、自国の中国侵出について、はっきりと否定的な意見を述べていたからだ。祥太郎は山崎大尉の顔も思い出しつつ、陸軍の第一師団には、思いのほかリベラル寄りな将校もいるんだな、とも思った。今日ここにきている陸軍将校は多いが、少なくとも目の前の安藤は、ナチスにかぶれてはいないらしい。


 安藤は話を続けた。


「はっきりしているのは、ドイツも日本も、このままでは滅びる、ということだ。両国の国連脱退が、それを暗示しているのではないかとも思えるね」


 サシャが、聞き捨てならないとばかりに、怒りと……そして悲しみがないまぜになったような表情をした。


「我々第三帝国が……いずれは滅びるとおっしゃるんですか?」

「ああ。最後は、おそらく自壊することになるだろう。いくらオリンピックを主催できるような国家になったとしても、焚書をしたり、他民族の迫害を省みず、あまつさえ自ら独善的な……孤立の道を進んでいくのであれば、終わりはそう遠くはない。破滅だろうな」

「そんな……僕は、日本とドイツは、将来手をつなぐべき間柄だと思ってたのに……日本陸軍の将校であるあなたから、そんな言葉は聞きたくなかった!」


 サシャの瞳がわずかに潤んだのを、安藤も、そして祥太郎も見てとった。


 サシャは、絞り出すように言った。


「……僕は、ナチス党に救われて、今日まで生きてきた人間です」


 祥太郎は、サシャのその言葉の意味を測りかねた。


 サシャは続ける。


「第三帝国が滅びるときは、僕自身も身を投げ出します。いえ、そうしてでも、僕は第三帝国を……ナチスを崩壊から守りたい!」

「……」

「だから安藤大尉、あなたの言うとおりにはならないし、絶対にそうはさせない……!」


 サシャは、そのままじっとうつむいて、唇と両手の拳を震わせていた。

 その痛々しい姿を見ていた祥太郎は、いたたまれなくなって、思わず声を上げていた。


「大尉殿、よろしいでしょうか?」

「何だ……?」

「今しがた大尉殿がおっしゃったことですが、それは正しい指摘なのかもしれません。ですが……」

「…………」

「歴史学的な批判なら、後世においても、何とでも言えるはずです。それが、正鵠を射ていようといまいと」

「何が言いたいんだ?」

「我々人類は、現在の自分自身を客観視できるほど、進化しているのでしょうか? 俺は、そうは思いません」

「……」

「俺自身も、ナチスを全肯定できるかと言われると、疑問があります。ですが……ナチスによる支配をドイツ国民が選択したのであれば、そのこと自体を責めることは、少なくともドイツ人でない我々には、できない事だと思います。その当時の空気の中に、その状況のもとにいたのは、他でもない、我々ではなくドイツ人たちだったんですから」

「……いや、君には一本取られたな」


 安藤が相好を崩したのを見て、祥太郎は、ほっとした。


 安藤は、サシャに向き直って言った。


「サシャ君、責めるつもりはなかったんだがね。水を差して申し訳なかった。ただ、我が国の貧農問題の解決は、そう簡単なものではないと言いたかっただけだ」


 サシャも、少しだけ顔を上げて、ぼそりと言った。


「……こちらこそ、熱くなりすぎてすみません」


 祥太郎の見ている前で、二人は握手を交わした。


 そして安藤大尉は、他の陸軍将校たちの輪の中に戻っていった。

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