第2話 その、厳しい軍事訓練は……3/3
祥太郎が寮に戻ると、ストームはホールの中で酒盛りと化して行われている真っ盛りだった。半裸か全裸の男たちが、群れ集まって騒いでいる光景は、まさに壮観と言えた。
戻ってきた祥太郎を、ホールの中心で一升瓶を抱えている田原が、目ざとく見つけて叫んだ。
「おおい木下、どこに行ってたんだ! こっちに来い! お前も飲め!」
「は、ははは……」
田原が差し出してくる日本酒入りのコップを、祥太郎はしぶしぶ受け取った。
差し出された以上、飲まないと田原が怒りだすのを知っている祥太郎は、眼をつぶって、ぐっとコップをあけた。
「おお! いい飲みっぷりだな! いやあ、今夜は楽しいな!」
田原が真っ赤な顔に、笑顔を見せている。
ホール中では、皆がてんでにテーブルについて、級友と酒を飲み騒いでいる。
祥太郎のいる隣のテーブルで、一際高い声が聞こえた。完全に酔っぱらった声の主は、仁川だった。
「いやあ、幸せだ! あの山崎教官がいなくなってくれるとはさ!」
「仁川、お前はよく山崎からぶん殴られてたもんな!」
「人として最悪だ。あいつは鬼だ。畜生だ。どれだけ呪っても呪い足りないな! ……なあ、木下!」
いきなり話を振られて、祥太郎はそちらへ振り向いた。
そのとき祥太郎は、自然と、思っていたことを口にしてしまった。
「山崎教官も、根は悪い人じゃないと思うよ」
思いのほか声が通ってしまったからか、ホールが、静寂に包まれた。
仁川が、ゆっくりと立ち上がった。
「おい木下、あいつが……山崎教官が悪い人じゃないって、どういうことだ?」
「い、いや、言葉の通りだよ……」
祥太郎は、迂闊なことを言ってしまったと後悔した。
仁川は酔っ払って気が大きくなっているのか、なんとか呂律を回しながら吠えた。
「あいつは絶対悪だ! あんな風に人を無情に殴る蹴るする野郎が、悪じゃないはずがない! 我々自由を追求する学生の敵、軍国主義の権化だ!」
「……人は、一面からだけ見ていたら、理解できないよ」
「おい、今夜は山崎の追い出しストームなのに、どうしてそんなにあいつを庇うんだよ! 今さら人間論の講釈でもあるまいし、さすがに不愉快だぞ!」
皆、押し黙って二人を眺めている。場がしらけそうになった、その時だった。
田原がふらふらと立ち上がった。そして、祥太郎に向き直り、右腕を上げた。それを見た一同は、眼を背けた……が、次の瞬間、田原は勢いよく祥太郎の左肩を叩き、豪快に笑った。
「木下、お前は本当に男だ! お前も日頃よく殴られていたにもかかわらず、その恩讐を越えて人を赦せるというのは、ちょっと簡単にはできないことだぞ!」
「お、おう……」
場を取り仕切っていた田原のその言葉で、しらけモードが幾分薄まった。だが、静まってしまったホールの空気は、まだ固まったままだった。
そこへ、誰もが予想だにしなかった人物が、玉のような声を上げた。
「祥太郎、かっこいい!」
皆がそこに見たのは、田原の席の隣にちょこんと座り、顔を赤くして、満面の笑みを浮かべている、サシャだった。
日頃のサシャを知っている文乙のほとんどの面々が、口をあんぐりと開けて、ひたすら驚愕した。いつも不貞腐れているような表情を浮かべているその小顔に、弾けんばかりの笑顔に陽気さを満たしている、まったく未知のサシャが、そこにいたのだ。
祥太郎が、恐る恐るサシャに近寄った。
「さ……サシャ? 酔っぱらってないか……?」
サシャは、コケットに小首をかしげてみせた。
「えー? なに? 僕は大丈夫だよー?」
ざわざわと、また騒がしさがホールに戻ってきた。
田原が、ふらつきながら、一升瓶を抱いて、仁川のいるテーブルへ歩いていった。
「おいハイカラ野郎、まだ飲み足りないんだろう? 俺が注いでやるから、もっと飲めよ!」
「ふん……俺は、絶対に山崎教官を許さないからな……」
「まだ言ってんのか。仁川も、木下を見習えよ!」
「うるさいぞバンカラ! だいたい、お前は何でもかんでも人情論で……」
仁川はまだぶつぶつ言っているが、田原から酌をしてもらった酒を一気に飲み干し、いくぶん冷静さを取り戻したようだ。田原が次から次へ酒を飲ませているので、明日にもなれば忘れているだろう。
いっぽうの、サシャは、キラキラした眼で祥太郎を見つめていた。
「んふふー、祥太郎が帰ってきたー!」
サシャは、祥太郎の腕をとって、強引に隣に座らせて、笑顔をこぼした。
上気したサシャの顔が、祥太郎にはまるで少女のそれに見えて、思わず顔を背けてしまった。
「あ、ちょっと! 祥太郎、ねー、なんで僕のこと見てくれないのさ?」
サシャが、汗ばんだ両手で、祥太郎の顔を自分に強引に向け直していた。サシャの長い睫毛の奥の碧い瞳が、祥太郎の眼を射抜いていた。
そんな様子のサシャに、普段のサシャと今のサシャとのギャップに、祥太郎は、ただただ圧倒されるだけだった。すぐそばに、サシャの紅く染まった煽情的な顔があり、祥太郎は動悸がおさまらなくなってしまった。
祥太郎は、近くにいた鴨井に小声で尋ねた。
「おい、まさか誰かが、サシャに酒を飲ませたのか?」
「うん……田原がね、無理強いしたんだ。コップ二杯ね」
「コップ二杯で……ここまで酔っちまったのか?」
「あ、ああ……たぶん、サシャは、酒に弱いんじゃないか?」
鴨井と二人で話している祥太郎の腕を、横合いからサシャが強く引っ張った。
「ねー、僕のこと、そっちのけにしないでよ!」
「わ、悪かったサシャ!」
満足そうに頷いたサシャ。やがてサシャは、もじもじしながら口を開いた。
「そうだ……ねえ、祥太郎……?」
「な、何だ?」
「この間は、すっごく嬉しかったよ……ありがとう……」
祥太郎は耳を疑った。サシャが、誰かに礼を言った?
「この間って……えっと、何があったっけ?」
「ほら、教練の準備を手伝ってくれたり……」
「それは俺だけじゃないよ。鴨井と仁川もいた」
「それだけじゃないよ……あの山崎教官から殴られそうになったとき、祥太郎が身代わりになってくれたじゃん? それも、二度も……」
「あ、ああ……そうだったっけ……」
「あれ、僕、本当に嬉しかったんだよ? だけどお礼言えてなくてごめんね? ありがと、祥太郎……」
「…………」
しおらしく目線を落としながら言ったサシャの横顔を、祥太郎はまじまじと見た。……酒の力だろうとはいえ、サシャが丸くなっている。ああ、普段からこんな様子なら、サシャは何もしなくても人気者だろうし、俺だって苦労しなくて済みそうなものを……。
「あと、祥太郎、すっごく格好よかったよ! あの、自分を犠牲にして、皆に壁を登らせたの! さっすが、祥太郎だね!」
「そ、そうか……? へへへ……」
サシャからそう褒められて、祥太郎は悪い気がせずに、照れ笑いをした。
……サシャは、もしかしたら、普段は気位の高さもあってか、思っていることを口に出せずにいるだけなもかもしれない。そう考えると、祥太郎は、サシャにどことなく親近感を覚えたのだった。
そこへ、油断も隙もなく、酒の回った連中が、酒瓶を持ってサシャに近寄ってきた。
「サシャ君は、お酒を飲むと陽気なんだね!」
「いつもと違うサシャ君を見てると、僕らも嬉しくなるよ!」
「ささ、もう一杯!」
サシャも、満更でもなさそうだった。
「えー? そう? 照れるなあ、じゃあ、もう一杯いっちゃうね!」
祥太郎が慌ててサシャと酔っ払いどもの間に入った。
「おい、もうよせよ。サシャの身体に
とたんに、酔っ払い連中からブーイングが上がった。
「なんだよ、ご学友! 今日は特別だぞ!」
「そうだそうだ! 木下だけで、サシャ君を独占するなよ!」
「それともあれか? お前はサシャ君を手放したくないのか?」
ああ、だから酔っ払いの相手は嫌なんだ、と祥太郎はため息を吐いた。
そのとき、田原がまた立ち上がり、大声を上げた。祥太郎にとっては、まさに天祐のようなタイミングだった。
「おおい、合唱するぞ! 『嗚呼玉杯』だ! さん、し!」
嗚呼玉杯に 花うけて
緑酒に月の 影やどし
治安の夢に 耽りたる
榮華の巷 低く見て
向ヶ岡に そゝりたつ
五寮の健兒 意氣高し
寮生たちが、隣の者と肩を組みながら、コンクリート造りの寮を震わせんばかりに歌った。一高の、シンボリックで伝統的な寮歌が、夜の一高に響いた。
どさり、と音がした。サシャが、テーブルに突っ伏した音だった。慌てて介抱しようとする祥太郎。皆は、合唱に夢中で気づかない。
「おい、サシャ! サシャ聞こえるか? しっかりしろ!」
「ねえ、祥太郎……」
サシャは何か言いかけたが、舌がもつれて言葉にならなかった。とろんとした眼が、潤んでいた。
「いいから、今日はもう帰ろう?」
それを聞いたサシャが、甘えたような声を出した。
「僕、一人じゃ帰れないよう……」
「いったい、君の家はどこなんだ?」
祥太郎は聞いてみた。前にも聞いて袖にされた質問だったが、やはりというか、今のサシャは饒舌だった。
「ん~とね……ドイツ大使館!」
「ドイツ大使館って……あの、永田町のか?」
「そう……」
「じゃあ、サシャは、大使館に住み込みで暮らしてるのか?」
「うん……」
「サシャ、おいサシャ?」
「すー……」
サシャは、微かな寝息を立て始めた。
「仕方ない。円タク(シー)を使うか……」
ストームの喧騒の中で、祥太郎は、そっと一人ごちた。
*
その頃、校長室では、中澤教授と、一高校長の
中澤が口を開いた。
「二年生め、またストームをやらかしていますね。まったく……寮則で禁止しているというのに……」
「まあ、ケガ人が出ないうちはいいだろう。私も昔は、よくやったもんだ」
「そうですね、私もです」
「まあ、今回のストームは、山崎教官の追い出しがテーマだろうな」
「しかし、山崎教官が配属将校から外れるとは……驚きました」
「いい機会だった。この機に配属将校が替わるのは、生徒達も嬉しかろう」
「山崎教官も、高圧的なところは否めなかったからですね。教師一同も喜んでいます。山崎教官は支那に中隊長として出征されていたことがあると聞きます。陸軍省としても、経験豊富な将校は、前線に呼び戻したいというのが本音でしょうね」
「……ひょっとしたら、ドイツ大使館から陸軍省に、何か圧力があったのかも知れんな」
「まあ、その可能性は、大いにありますね……」
中澤と林は、しみじみと頷き合った。
「……それで、あのドイツ人留学生はどんな感じかね?」
「サシャ・フランベルグですか。最初は、お高くとまっていたというか、まあ、今もそんな感じですが……ご存知の通り山崎教官とも衝突したりしていましたが、かといって、孤立しているとか、そんな様子はないようです。何と言っても、〝ご学友〟に指定した、木下祥太郎の力が大きいものとみています」
「木下祥太郎か。やはり、二年文乙の彼に託して正解だったか……」
「ええ。彼が適役ですよ。彼は冴えないですが、冴えないがゆえに、思想に偏りがないから、波風を立てることなく、ことにあたってくれるというものです」
「そうか。まあ、我が校としては、穏便に留学期間を過ごしてもらえればいいんだが……」
一人ごちたように言う林に、中澤が尋ねた。
「そもそも、サシャ・フランベルグの留学期間は、いつまでなのですか?」
「私も分からん。ドイツ側次第だよ。彼らが、サシャ・フランベルグに、どれだけ日本生活を送らせたいか……それ次第だ。我々はそれに付き合うしかない」
「ドイツ側の圧力を受けた、文部省のたっての頼み……ですか?」
「だろうな。まったく、ドイツからの留学生なら、学習院か陸軍士官学校にでも入れればいいものを。なぜドイツ側が我が校を希望してきたのか、まったく分からん」
「考えすぎかもしれませんが、ドイツ側は、スパイ的な意味でサシャ・フランベルグを送り出してきたのではないでしょうか?」
「それは考え過ぎだろう。我が校には国家的機密などない」
「……そうですね」
中澤と林が、顔を見合わせて笑った。
「あと、気になるのが……なぜドイツ側は、前もって、サシャ・フランベルグを、わざわざ『男だ』と言ってきたのでしょうか?」
「間違いがないように、だろう。彼は中性的すぎるようだからな」
「なるほど。そんな心配など、我が一高には不要だというのに、ですね」
「ああ。我が一高の生徒は、皆、どこに出しても恥ずかしくのない青年ばかりだ」
「ええ、その通りです」
力強く頷き合いながら、中澤と林は、ストームの喧騒に眼を向けた。
*
まだドイツ大使館まで辿り着いていなかったが、祥太郎とサシャを乗せた円タクは、赤坂見附の手前で二人を降ろして、走り去っていった。
祥太郎が車酔いを催したので、万一の場合に備えて、そこで降ろしてもらったのだ。ドイツ大使館までは、まだ数百メートル歩かなければならなかった。
「ん……もう着いた?」
祥太郎に支えられて立つのがやっとのサシャが、薄目を開けた。
「まだだよ! もう少し歩くんだ。ほら、しっかり!」
「もう疲れたよ! 祥太郎、おんぶして!」
「何言ってるんだよ! しっかり歩いてくれよ!」
サシャは酔っぱらうと、幼児退行するのか? そんな疑念すら抱きつつ、祥太郎はサシャを半ば抱えるようにして歩いた。
不意にサシャが歌い始めた。
祥太郎のドイツ語力では正確な訳はできなかったが、分かる単語の端々から察するに、ナチスの行進曲か何かだろう、と思った。
いきなり、サシャの歌のキーが上がった。ボーイソプラノにしても、高すぎる声だった。いや、むしろこれはガールソプラノの高さの声ではないか……?
いったい、サシャは……この留学生は何者なのか。まだまだ知らないことがいっぱいあるぞ……と祥太郎は考えながら、ドイツ大使館への道を、サシャの暖かい体重を一身に受けながら、よたよたと歩いていた。
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