第16話
文化祭が開会した。今日は文化祭の二日目。初日は校内のみで、催しが一般開放されるのはこの二日目からだ。
俺には、クラス内に親しい人間が三人しかいない。俺のコミュ力偏差値は高く見積もっても四十を下回っていると思われるので、クラスに友だちと呼べるであろう存在が三人というのは、むしろ多いほうかもしれない。ちなみに、そのうち二人は
……不満があるわけじゃないが、今日みたいな日に所在がないことを嘆くくらいはどうか許してほしい。
一日目は、地学研究部に所属している仲のいいもう一人のクラスメートが、「部活の文化祭準備が間に合っていない」と言うのでその手伝いをすることでなんとか乗り越えた。しかし、この二日目が問題だ。まだ午前九時も回っていない。なんとかして、文化祭が閉会する午後四時までの時間を潰さなければならない。
柚樹はどこかへ行ってしまった。古矢もだ。ひとりで行動する度胸のない俺には所在がなさすぎて困る。
だいたい、俺にだって仕事があったはずなのだ。
俺は一年十組と図書委員会と野球部に所属している。このうち野球部は文化祭になにも関与していないので、一年十組と図書委員会に所属する生徒としての仕事が、本来俺に割り当てられなければならない。
しかし、一年十組の文化祭実行委員のクラスメートからは、「
こんなこと、あっていいのか?
確かに、野球部の練習で文化祭準備を手伝えないのはおっしゃる通りだ。だけど、文化祭当日は野球部はなにもしないのだ(ちなみに前日はサッカーがあったので手伝えなかった)。だから当然、俺は「当日くらいは手伝います」と申し出た。が、やんわりと、しかし、きっぱりと固辞された。いわく、準備を手伝っていない人間は準備を手伝った人間よりも仕事への理解度が低い、俺の罪悪感を軽減するために仕事全体の効率を下げるわけにはいかない、という実にもっともな主張によって。
もう一度言おう。こんなこと、あっていいのか?
……まったく、独り者の居心地がこんなに悪いとは。今後、文化祭の在り方を見直さねばなるまい。だれか、それをマニフェストに生徒会長に立候補しないものだろうか。もしそんな素晴らしい人間がいるのなら、俺は全身全霊をもって票集めに勤しもうじゃないか。
などというふうに、ぐちぐちと不毛な願望に想いを馳せながら、俺はいま、トイレで制服から軽装に着替えて、武道場裏に向かっていた。素振りでもしようと思ったからだ。なにが悲しくて文化祭当日に練習しなければならんのだ、という気持ちはもちろんあるけれど、所在がないのだから仕方がない。仲睦まじい男女を見て、心中で「けっ」と吐き捨てているよりはずっと生産的だろう。
グラウンドを横目に連絡廊下を歩き、武道場裏というまずだれの目にも入らないだろう辺境に到着する。
そこで俺はまさかの光景を目にした。
俺はなんだか悲しい気持ちになった。文化祭の日だというのになんて寂しいやつだ。
河野も俺が来たのに気づく。そして言った。
「おい大森。お前いま、ものすごく失礼なこと考えてないか?」
「いや、まさか」とかぶりを振る。
「じゃあ、その憐れむようなまなざしをやめろ」
妙に鋭いやつだ。さすが
俺は訊いた。「なにしてたんだ?」
「素振りだ。どうせ暇だしな。お前こそ、なにしに来た」
「俺も素振り。筋トレでもいいけど」
「文化祭なのに、寂しいやつだな」
おい。
「お前には言われたくない」と言い返す。
しかし、言い返してから気づいた。河野は俺と違って青春を謳歌しているやつなのだ。
「河野は、彼女と文化祭まわんなくていいのか」
「向こうも今日が文化祭だからな。ここに呼んでない」言いながら、河野はスイングする。空気を切る音がした。
「ふうん」
そういえば、河野の彼女は他校なんだっけ。
「
俺がきょろきょろとまわりを見回して言うと、河野は顔をしかめる。
「お前、俺が
「違うのか」
「そんなわけないだろう。だいたい、文化祭のさなかにまで練習に付き合わせようとするほど俺だって非常識じゃない」
ごもっとも。
「あいつは俺と違って交友関係が広いし、遊び相手には事欠かんだろう」
もう一度、河野がスイングする。俺にはない力強さ。
「ふうん」
最初は素振りをしようと思っていたけれど、なんだか気が変わった。筋トレをすることにする。壁に立てかけてあったマットを、砂を軽く払ってから足元に敷く。そして軽くストレッチをしたあと、スマホで、一分で一アラーム目、その二十秒後に二アラーム目が鳴り、それを繰り返すように設定する。
ストップウォッチをスタートさせ、まずは通常のスクワットを繰り返す。一アラーム目が鳴ると、二十秒の休憩。次のアラームが鳴ると、二種目目。スクワットで腿と地面が平行になるくらいまで腰を落とした状態から、バウンドさせるように上体を上下に振動させる動作。
同じ要領で、動作の異なるスクワットを計八種目こなす。十分足らずのトレーニングで俺は汗だくになっていた。
「はあっ、はあっ、はあっ」と荒く小刻みに息を切らす。
「一か月でずいぶんと耐えられるようになってきたな」と河野。
「まだ、十分しかやってないだろ」
息を整えながら言い返すと河野は鼻で笑った。
「一か月前まではその十分で足ガクガクだったやつがよく言う」
俺はなにも言い返さなかった。正直なところ、自分でも実感していた。
次のメニューの準備をする。アラームの設定はそのままだが、今度は下半身ではなく体幹中心のメニュー。
二十秒の休憩の終わりを示すアラームが鳴る。まずはプランクの状態から腰を上下させる動作。それが終わると、サイドプランクの状態からまた腰を上下動させる。計十種目。最後のバイシクルクランチを終えて、「ふーっ」と俺は大きく息を吐きだした。
続いて、背中を鍛えるメニューを十種目。
おおよそ四十分かけてこれらのメニューを終えて、俺はようやく一息つき水筒の麦茶に口をつけた。それまでほとんど会話はなかったけれど、このタイミングで河野が話しかけてくる。
「大森」
俺は答えず、視線だけ河野に向ける。
「お前、なんというか、ひたむきだな」
俺は眉根を寄せる。「なんだよ急に」
「いや」河野は苦笑する。「お前が野球部に入ると主張をひっくり返したときは、
そういえば俺が最初にここのグラウンドに来たときに、女子になびくのがどうとか言っていたな。ひょっとして、松橋さんにいい顔をしたいだけとか思われていたのか? まあ、しょうもないやつだと思われる分には構わないのでとくに否定はしないが。
「それは、俺がここに来る前から素振りしてたお前に言えることだろ」
俺はそう言ったが、河野はかぶりを振る。
「俺が練習するのは、なんというか義務みたいなもんだ。そこまで自発的にやれてるわけじゃない」
義務。
意味を反芻する。なにに対する義務なのか。いや、だれに対する義務なのか。
「河野って、捕手としてのレベル高いよな」
「お前こそなんだ急に」河野は気味悪そうにする。そんなにいやがんなくても。
「いや、小南の話は前に聞いたけど、河野の話は聞いてないなって思って。そんだけの実力があれば、河野だってもっと野球が強いとこにいけたんじゃないのか?」
河野は俺を胡散臭そうに眺めて、「まあお前ならいいか」とつぶやく。
「いわゆる強豪と呼ばれるような学校から話がなかったわけじゃない。ただ、県外に出られるほどうちに経済的な余裕がないってだけだ」
む。思いのほかデリケートな話を聞いてしまった。失敗した、と思っていたのが顔に出ていたらしい。
「そんな顔するなよ。べつに珍しい話でもない」気にするな、と河野は言う。
「……もしかして、実は小南もか?」と俺は訊く。
「いや、剛広については前に話した通りだ。もちろん全部話した通りではないかもしれんが、家の経済事情が理由で
ふむ、だとすると。
俺はなんとなく思い浮かんだことをそのまま口にした。
「さっき言ってた義務っていうのは、小南か」
河野は珍しく、意表を突かれたような顔をした。
「……もしかして、剛広がなにか言っていたのか?」
顔を険しくした河野に、俺は少したじろぐ。彫りの深い顔のつくりに野太い声だと、なんというか迫力がある。
「いや、そうじゃないけど……」と答えながら、言っていいものか躊躇してしまう。けど、まあ、いいか。
「もしかしたら、河野は小南に対して罪悪感があるんじゃないかって思ったから」
「……どうしてそう思う」と河野。
俺が河野の立場なら。そう考えれば、正解かどうかはともかく推測は難しくない。
「小南が
河野は口を結んだままだ。構わず俺は続ける。
「小南のことを深く理解してるつもりなんてないけど、真っ先に浮かぶ理由は河野、お前がいるからじゃないのか? お前がいるから、小南は大阪誠翔を蹴ってこの学校を選んだ。その結果が、同学年の選手がたった五人しかいない現状なんだとしたら……」
俺なら、恐怖を覚えるかもしれない。将来を嘱望されている選手の時間を無駄に消費させているのではないか。大事な時期を無駄に消費させることは、才能を潰すことにならないか。
河野はため息をついた。
「お前、抜けているように見えて、案外ひとを見ているんだな」
「抜けているは余計だ」
はは、と笑いながらも、次の瞬間河野はなにかを諦めたように表情を曇らせる。
「お前から見て、剛広はどう映る? プロに行けるやつだと思うか?」
俺は即答した。「思う」
「俺もだ。当然いかに剛広でも簡単な世界じゃないだろう。だが、挑戦するだけの権利をあいつは持っていると思う」
河野の言葉に俺はうなずいた。おそらく小南は権利を持っている。プロの世界がどういう世界なのかなんて俺は知らない。俺が知らないだけで、すごいやつなんて世の中にはいくらだっていることはわかっている。けれど、それでも小南がそのすごいやつらに明確に劣っているとは思わない。そういうやつらと競い合うだけの権利を、小南は持っている。
「お前の言う通り、俺は剛広に罪悪感を持っている。中学までの間にあいつが努力して手に入れた権利を、俺が捨てさせたんじゃないかってな。正直俺は、高校でも剛広と野球ができるとは思っていなかった。だからあいつと進路が同じになったときは単純に喜んでいたんだが……」河野は自嘲気味に笑った。「まさか同期がこれだけしかいないとはな」
俺は顎に手を当てて考えるそぶりを見せる。なにか言葉を選んだほうがいいかと考えていたのだけれど、面倒くさくなってやめた。
「前から思ってたけど、河野ってバカ真面目だよな」
「……バカとはなんだ」
にらまれた。やっぱり言葉を選ぼう。
「というよりも心配性だ」
「心配性?」
「そもそも小南の進路選択に河野が負う責任はない、っていうのはまあ、置いておくとして」と前置きをして切り出す。頭で理解していても心情で納得できないのに、理を説いたところで仕方がない。「いまの環境は、別に最悪ってわけじゃない。最低限野球ができることを保障された環境だ。もちろん河野が思い描くようなレベルではないかもしれないけど、少なくとも俺はこのたった一か月でいろんなトレーニング方法を知ったし、体や栄養の知識も増えた」
「……お前にとってはそうでも、剛広にとってもそうだとは限らない」
「じゃあ訊くけど、小南はお前に促されなきゃ成長が止まるやつなのか?」
河野はむっとした。「俺はそういうことを言っているんじゃない。いまは先輩たちがいるが、このまま部員の数が減ってチームが弱くなれば、剛広が世間の目に留まる機会も少なくなるんじゃないかと言ってるんだ」
「それこそ無用な心配だ。一目見てあいつの凄さを理解しないほうがよっぽど難しい。どれだけ目立たないチームにいたところで、あいつだけは目立つぞ」
あいつの凄みがいちばん際立つのは守備だ。柔らかいグラブさばき。細かく刻まれるステップ。ボールの持ち替えからスローイングまでの異常な速さ。どちらかと言うと玄人好みではあるけれど、それなのに素人が見てもわかるから、あいつは凄い。
「あいつの境遇は不幸と呼ぶものじゃない。だったら、小南の実力でなんとでもできるさ。というよりもそれだけの実力があるだろ、あいつには」
「それは……」
「そんなことより俺は、あいつだけのチームって呼ばれたくない。いまのまんまじゃ、俺らが三年のときの福岡南は小南ひとりに呑まれる。小南が有名になったとき、別のチームなら甲子園に行けたのにって俺は言われたくない」
河野は腰に手を当てて顔を地面に向け、「ふう」と一度大きく息を吐きだした。そして、俺が微かに聞き取れるくらいの小さい音量でつぶやいた。あいつの言った通り、面白いやつだな。
「?」
「大森、お前の言う通りかもしれないな」
そう言われて、俺ははっとした。つい勢いに任せて余計なことを言いすぎてしまったかもしれない。
河野は珍しくすっきりしたような笑みを見せる。
「お前、案外アツいところがあるんだな」
俺はそっぽを向いて答える。「いや、悪い。言い過ぎた。いまのは忘れてくれ」
そしてメニューを再開しようとストップウォッチを起動しようとするけれど、「なあ。俺も、ひとつ訊いていいか?」と河野から言われて、動きを止める。
「なんだ?」
「いつか聞いた気もするが、今度はちゃんと聞きたい。大森、お前中学のとき、なんで野球部をやめたんだ?」
二時間ほど汗を流していたら、早くも持参していた水筒の中身がなくなってしまった。暑い。
河野は素振りをやめて、下半身の筋トレのメニューに取り組んでいた。それを横目に、俺は少し集中力が切れかかっていることを自覚する。
「十分休憩」
だれにともなくつぶやいて、俺は校内に設置してある自動販売機に向かうことにした。
連絡廊下を歩きながら、置いておけばよかったものをタオルを手にしたままだったのに気づいて、持ったままなのも邪魔なのでとりあえず頭に巻いておく。どこもかしこも校内は浮かれているというのに、自身は汗臭いというのがなんともいたたまれない。
武道場裏からは微妙に自動販売機までが遠い。文化祭の雰囲気を無理やり意識の外に放り出しながら、中庭を通り抜け数分かけて自動販売機が設置してある駐輪場の付近までたどり着く。と、知った顔がいた。
向井さんがベンチに座って、昼寝をしていた。
俺は踵を返そうとしたけれど、もうのどはからっからだ。物音さえ立てなければ気づかれるまい。交通系ICカードをポケットから取り出し、そっとポカリスエットのボタンを押す。「ピッ」と音が鳴って、まずい! と思って後ろを見る。が、向井さんに起きる気配はない。
ホッとするも、ピンチは続く。考えてみればICカードをかざしたときにも電子音がするはずだし、なんなら買ってから取り出し口にボトルが落ちる「ゴトン」という音もするはずだ。どうする? ここは中断するべきか?
向井さんは奉仕活動として文化祭実行委員のお仕事を手伝っている最中で、本来こんなところで昼寝をしているはずがない。ここで起こしてしまうと、間違いなく面倒ごとを押し付けられる。
危険だ、やはり別の場所で水分の調達を、と考えた矢先だった。
「買わないのか?」と後ろから声がした。
俺は振り返らず、そのままICカードを自販機にかざす。電子音も取り出し口にペットボトルが落ちる音ももはや気にならなかった。
「なんだその恰好。力仕事でもしてきたのか?」と向井さんは可笑しそうに訊いてくる。
「まあ、そんなとこです」とおざなりに答える俺。取り出し口からペットボトルを取り出す。「向井さんは、実行委員の仕事はいいんですか」
「休みのない仕事なんてないんだよ」と正論を向井さんは言った。正論だけど、いま向井さんが昼寝していたことを正当化するものにはならないと思う。
「じゃあ俺はこれで」
「待て待て、大森」
「なんすか」
「お前のそのステルススキルを見込んで頼みたい」
「ステルススキル?」
「俺じゃあ、どれだけ影を薄くしても存在感を隠せなくて目立っちまうからな」
ほう。自身を持ち上げ相手に喧嘩を売りつつ助力を乞うとは。向井さんも器用な真似をする。
「じゃあ俺はこれで」
「だから待てって」
左肩をつかまれる。
「だから、なんすか」
「いや、だからな? いま俺は」
「実行委員の仕事の手伝いをサボっているから、見つからないよう身を隠したい。影の薄い俺にそのコツを教えてくれ。そういうことですか?」
「素晴らしいな」
素晴らしいじゃねえ。
「上司の意図をくみとって行動してくれる部下は重宝される、って意識高い系のクソみたいな記事で読んだことあるぜ」
「やっぱり俺はこれで」
グラウンドに向かって歩き出す。
「おい待てって」と向井さんに止められるけれど構わない。しかし、俺は足を止める。
視線の少し先で制服姿の女子と私服姿の男が向き合っており、女子のほうは見覚えがある人物だったのだ。
何回か会話も交わしたことがある女子生徒。松橋さんだ。
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