第14話 はじまっただろ(確信)

「蒼井さん、そろそろ用意した方が良いのではないですか」


 彼女の視線は右隣の、少し散らかった俺の机から離れ、それの使用者ユーザーに向けられる。


「草野さん、いつの間にか帰ってますね」

「いつ着席しようが、私の勝手です」

「確かにね」


 少し首をすくめる。


 机の端に、持っている化学の教材たちを置く。

 そして椅子を引き、着席する。

 とりあえず、机のままに出しっぱなしになっていた音楽の教科書を机の下の収納の中にしまう。


 そして時計を見れば、授業が始まるまで残された時間はおよそ二分。


「まずいなぁ」


 思わず、小さな声でつぶやいた。プリントがなければ、化学の授業はまともに受けられないだろう。

 

 俺は化学が苦手だ。嫌いではない。だが、中々理解できない。

 中3でつまずくわけにはいかないので、何とかしなければならない。このレベルができなければ、この先の人生中々不安である。

 そうは言っても、積極的に予習をしたりなどをする気にはならない。頭では必要だとは分かっているが、理解に難いものをわざわざ自分の時間を使ってまでやろうとするほど、俺は優れた学生ではない。


と言うことで、俺はこの頃化学の授業をしっかり受けることにしていた、が、無理そうだ。


「何がマズイんですか」


しまった。周りに聞こえるほど大きかったか。


「いえ、化学のプリントがなくてですね」

「紛失したんですか」

「まぁ、はい。そんな所です」


 草野の方を向いた目を少し逸らして緑のファイルをチラッと見る。


「ちょっと待ってくださいね」


 そう言って、草野は開いていた本のページに紐栞を挟み、閉じた。

 そして彼女の机の中からファイルを取り出し、その中から一枚のプリントを出した。


「これ、私の自習用のコピーで良ければ使ってください」

「え、いや。いいですよ」


 草野とまともに話したことなんて、今朝が初めてくらいだ。いや、俺が忘れているだけで実は世間話くらいしたことがあるのかもしれないが。

 それでも、仲も何もない程の距離感の人間から何かを貰うことなんて、そんな気楽に「うん、ありがとう」とは言えない。


「でも無いとマズイんですよね」

「いや、まぁ。はい。そうですけど」

「じゃあ、使ってください。私はありますから」


 その時、扉が開く音がする。

 教室の前を見ると、化学の教師が教室に入ってきていた。


「授業始まるから、どうぞ」

「えっ、じゃあ、ありがとう……ございます」


 押される形で、俺はプリントを頂戴した。


 号令がかかる。


 俺は草野から頂いたプリントを机の上に置き、起立した。

 目は教師ではなく、ずっと机上のプリントを見つめていた。

 

 どうして、草野は渡してくれたのだろうか。


 着席した後、教師はしばらく雑談をしていたので、その間も考えた。


 朝、寝ていたせいで降りていなかった同級生を起こしたのは、まぁ、理解できる。ただ優しく親切な、出来た人間だ。

 途中、自販機の件で別れたが、一緒に登校したのも、まだ同級生だから、と言えば分かる。

 だが、同級生、いや隣の席で困っているからと言って、自習用のコピーとは言え、プリントを渡すだろうか。少なくとも、俺は渡さないだろう。


 こんなに親切なやつだったのか、草野という隣人は。


 横眼でその隣人をチラッと見る。

 教師の方を見て、雑談もしっかり聞いている。

 すごいやつだなぁ、と同学年ながらに感心した。


***



 堤防の上を走る道路から、車が駆ける音が止むことなく聞こえる。


「それは、あれだ。脈があるってやつだろ」

「そうなのか? 」

「それはそうだろう」


 俺の数少ない友人、三崎はその手に持っている焼きそばパンを食っていった。


「あ、蒼井、早く食わないとそれ鳶にかっさらわれるぞ」

「あぁ、そうだな」


 場所は海岸沿いの堤防の階段。

 鳶の餌場だ。


 俺が右手に持っているのは、ビニールが剥かれた状態のメロンパン。

 口に入れると、クッキーのような表面が割れ、ふわっとした内側が広がる。


「あれだろ、朝の電車で起こしてくれたんだろ」

「あぁ」

「で、プリントもくれたんだろ」

「あぁ」

「そりゃ、もう。少なくとも気になってはいるだろう」

「そうだとしても、気になる理由がないくねかね。まともに話したこともないんだ」

「うーん、まぁ、女子ってのは良く分からないものだしなぁ」


 三崎はそう言って、空を仰いだ。

 もう焼きそばパンは食べ終えているようで、腰かけている堤防の階段に手をついている。


「まぁ、なんとかなるだろ」

「あぁ」

「聞く所によると、JCは攻めれば落ちるって話だから、もし攻めたいならガツガツいくのが正解らしいぞ」

「そうなのか」

「まぁ、噂だけどね」


 一息ついたあと、三崎は続けた。


「まぁ、こう言うコトを、恋愛経験ゼロの俺に相談するしかないくらいのお前だ。せいぜい頑張ってくれ」

「まるで俺の交友関係が狭いみたい言い方だな」

「そうだろう? 」


 少しの沈黙。

 その後に、小さな笑いが生まれる。


「確かにな」

「おう、なんとか頑張れよ」

「いや、まぁ、おう」

「そういや今日、蒼井は生徒会? 」

「あぁ。なんでも今年の採用面接やるとか、どうとか。だから帰り遅いから先帰った方が良いぞ」

「いや、自習して待ってるよ」

「マジで? まぁ、三崎の自由だよ」

「あぁ。そういや、そろそろ時間やばくね」


 三崎の言葉で、時計を見る。

 時刻は昼休みが終わって、5限が始まる5分前。いかに海に近い学校と言えど、授 業をする校舎まではいくらか距離がある。


「やばいぞ。走ろう」

「あ、マジ? じゃあ、どっちが早いか競争な」

「いや、待て三崎? 」


 三崎は、座っていた階段を駆け下り、砂浜を駆けていった。

 その後を追うように、なんとか駆ける。


 インドア派にとって、いきなりの運動はキツイものがある。

 でも、やらなければおそらく授業に遅れる。


「ちょ、三崎、待て、おっ、って」


 誰が作ったのか、はたまた自然かの砂の穴にひっかかりながら、なんどか走る。


 朝も遅刻しかけ、化学の授業は直前までプリントが見つからなかった。いや、それは今もなくて、ただ貰えただけだけども。


 もしかしたら、今日の俺は時間に呪われているのかもしれない。

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