第12話 はじまり
あれは、俺が中学三年の頃。
桜から柏の月に移ってしばらくした五月中旬のことだった。
***
日の温もりだけを感じる世界。
どこか遠くから声が聞こえる。
「……あの……きて……さい?」
何を言っているのか理解できない。
耳から入っては脳を通りすぎ、反対のから抜ける。
その声は、届かない――安っぽいBGMのような声だった。
「起き……あの」
それは段々と明瞭なものになっていった。
「起きてください」
声と共に方が揺れる、いや揺らされる。
その刺激で脳が覚醒する。
「……あ、あぁ、あぁ?」
「蒼井さんですよね、おはようございます」
目が開く。うっすらと視界が開け、やがてそれはくっきりとしたものになる。
「ええぇ、はあ……」
「終点です。というか学校です。時間です」
向いの窓に見える景色。
それは確かに、何度も見たことがある――学校の最寄り駅のホーム。
「お、おぉ」
「とりあえず降りてくださいね」
それよりも眼の前の少女。
セーラー服――ウチの学校のモノを着ている少女。
丸眼鏡で黒髪ストレート、黒いリュックを背負っている。
「いや、あの」
ロングシートの一番端、仕切りを挟んで横のドアから出ようとしている少女を呼び止める。
「どうしました?」
誰だ?
知らない人……ではないはず。「蒼井さん」と言ったということは、俺の名前を知 っている。であれば知り合い……?
記憶にない……と思う。
いや、どこかで見たか?
「すみませんが……誰でしたっけ……?」
***
電車が止まってから少し時間が経ったせいだろう。
いつもであれば本校生徒が殺到し、一般・地元の方に多大なるご迷惑をおかけしている逗子駅の東口改札口。
ただ、今朝は人がチラホラと散見される程度に少ない。電車が止まってから少し経ったせいだろう。
こういうのは逗子に限らず、電車の入線頻度が多くない少し辺境の駅あるあるだろう。
ポケットからICカードを取り出し、改札機にタッチする。
何はともあれ、極めてスムーズに駅舎から出られた。
「あぁ、”くさの”さんか。うん、ね」
「その感じ、絶対覚えてないですよね」
駅舎の前では、市議会だかの選挙を前にした政治家が声をあげて活動をしている。
心ない言葉を取り繕おうともしない挨拶を受けながら、本人に訊いた”くさの”の名を咀嚼する。
くさの、くさ、草……草の……くさ野。
何げなく考えながら歩く。
そういえばクラスに草野とか言う名前のやつが……いたな。いや、いた。
教師に当てられていた記憶がある。
「あぁ、草野さんか」
「どうしたんですか」
「いやぁ、隣の席の草野さんかって」
「え、はい。どこの草野だと思ってたんですか? 」
「見知らぬ男子を起こす世話焼き系ラノベヒロインの草野さんだと思ってた」
「なんですか、それ」
「いや、何でしょう」
「まだ頭の中は起きてないんですね」
「そうかもですね」
ロータリー横、おそらく駅前で演説していた政治家の緑の幟端が力なさげにヨタヨタと微かに震えている道を通って交差点を抜ける。
駅のゾーンを抜けて、商店街に入った。
「日曜夜から夜更かしですか?」
「ロングスリーパーでして。何時間寝ても寝不足なんですよ」
「そうなんですね」
「あ、そこの自販機で何か買っていきますので……」
「私は先行きますね」
「えぇ」
歩き続けて少しづつ小さくなっていく草野の後、俺は見かけた白の自販機前で財布を取り出して立ち止まる。
目を覚ますには何よりも熱のある飲み物が一番、と個人的には思っている。
「あぁ、暖かいのないな」
しかし、もう皐月。古文で言ってしまえば夏の中ごろである。
さすがにそこまでではないが、充分に暖かい時期だ。
冷房のある屋内ならいざ知らず、外にあるこの自販機に”あったか~い”はもうな い。全ての飲み物が”つめた~い”になっている。
「うーん、まぁ、エナドリにするか」
紫陽花が描かれた白銅の百円硬貨を三枚取り出し、投入する。
エナドリが出てくる。よく分からない、イラストにも文字にも見えるそれっぽいモノが描かれた禍々しい缶が出てくる。
中身は激甘だというのに、なんとも見得を張った缶だ。
そんな御大層な缶に指が触れる、その瞬間。
冷気が皮膚の神経終末を走って脳を刺激する。
「冷たっ」
当然である。”つめた~い”なのだから。
何を馬鹿げたことを言っているのだろう、俺は。
やはり頭の中はまだ寝ぼけていたようだ。
***
「あれ、草野さん」
「追いつかれました」
商店街も抜けた所の交差点。傍のドラッグストアが鼠色のシャッターをガラガラと音を立てながら上げ、開店準備を始めている前。
普段なら、改札口と同じようにウチの生徒で溢れている所だ。
「ここの三叉路の横断歩道、歩ける時間の割りに待ち時間長いの何なんでしょうね」
「いや、そうですよね」
俺の肩よりいくらか高い位の位置にある草野の頭は俺の手元を見た。
「蒼井さん、まだ春ですけど暑がりなんですか? 」
「いや、別に? どうしてです? 」
「じゃあその手のエナドリ、ですか? それはリュックのサイドポケットにしまっておいた方がいいですよ」
俺の肩と同じか少し高いくらいの位置の草野の頭は、そう言った後に横断歩道の向こうに向いた。彼女視線の向こうには、立哨している交通指導の体育の教師を見つめている。
「すでに少し時間が遅いから、何か言われるかもしれないです。それにエナドリが加わって怒られたら面倒です」
「そうですな、入れます」
「私、入れましょうか? 」
草野はそう言って手を伸ばそうとした。
「いや、大丈夫です」
草野の伸びかけた手を断る。さすがに、いくら自分の力で降りる駅で起きられない男とはいえども、それくらいは自分で出来る。
俺は自分の腕を伸ばして、リュックのサイドポケットにエナドリを詰めた。見えないよう、できるだけ奥まで押し込んだ。
「よし」
「入ってますね」
「そういえば、草野さんは登下校中の買い物、咎めないんですね」
「いえ、別に? 」
「ふぅん。委員長っぽい感じですけどね」
黒髪ロング。しかも電車で寝てる同級生を起こすほど周りを気にしている。
これを委員長タイプと言わずして何と言う、というくらいに草野は委員長属性強い、少なくとも俺はと感じる。
「別に、私も寄り道しますよ。言えた口ではないです」
「あぁ、そうなんですか」
意外だった。
「あ、行けますね」
自動車の音は止まっている。
赤だった信号機は緑になっている。
「あぁ、行きましょうか」
「そうですね」
歩き出す。
黒のアスファルトに描かれた白線を越えて、超えて、越える。
***
皐月の日光が優しい月曜日の朝だった。
危うく電車で寝たままになるところだった。
久しぶりに、人と会話しながら登校した。
ついでに体育教師からは「遅刻するなよ」と軽く注意された。
その日の朝は、何か変な気分がした。
世界はこの気分を"始まりの予感"と言うかもしれない。
そう感じた朝だった。
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