第6話
再び集まったのは、放課後になってからだ。
人が多い時間を避けたいので、少し置いてから職員室の前に向かう。わずかに待つだけで生徒の姿はほとんどなく、代わりに外から運動部の声が聞こえる。廊下は冷えた空気に満たされて、肌寒さを感じた。
僕が職員室の前までやってくると、灰桐さんは窓から中庭を眺めていた。
一年生が『綺麗な人だなぁ……』と彼女を眺めながら、通り過ぎていく。
その人が見えなくなってから、灰桐さんに声を掛けた。
「ごめん。お待たせ」
「行きましょうか」
彼女はさっと背を向けて、職員室の扉に手を掛ける。迅速すぎる行動に、僕は慌ててその手を掴んだ。
僕は何も聞かされていない。
職員室に入って何かをするのなら、僕だって心の準備くらいしたい。
「ちょ、ちょっと待って。今からどうするの?」
「話を聞きに行くの。わざわざ説明することは何もないわ」
そう言って、さっさと扉を開けてしまう。取り付く島もない。本当かなぁ……。
僕たちは挨拶を口にしながら、職員室に入っていく。
灰桐さんはまっすぐ、藤間の席へと進んだ。まぁそうだろうな、と思う。落とし物入れの行方を聞かなければならない。
「先生。落とし物入れ、どこに行ったかわかりましたか」
藤間はゆっくり顔を上げ、きょとんとした顔を僕たちに向けた。
しかし、すぐに「あぁ」と声を上げる。
「忘れてた。聞いてないや」
……この教師は。せめて取り繕ってくれ。なんでこんなダメな人に、この係を担当させているんだろう……。
灰桐さんは僕をちらりと見る。一応、嘘を吐いているかどうかの確認だろう。僕は小さく首を振る。嘘も隠し事もない。純粋に忘れていただけだし、罪悪感も覚えていないようだった。
僕はてっきり、これで質問は終わりだと思っていた。
落とし物入れの確認をするため。そのためだけに、職員室に来たんだと思っていた。
だから、彼女が言葉を続けたときは、内容も含めて驚きを隠せなかった。
「先生。では、落とし物が届いているかどうか、チェックだけでもお願いできますか。財布を落としたのですが」
なんだそれ。財布を落とした? 灰桐さんが?
僕は動揺して、彼女の顔を見そうになる。それを必死で抑え、前を向き続けた。
代わりに、藤間がぎょろりと灰桐さんを見やる。
「なに、君は鍵といっしょに財布まで落としたの?」
「いえ、彼が」
ここで僕が声を上げなかったのは、本当に偉いと思う。……表情に出なかったかは自信ないが、ある程度は抑えられただろう。
灰桐さんが僕に手を向けていた。財布を落としたのは僕だ、と彼女は主張している。何を言っているんだ、という話だ。あれは辻本くんの財布なのに。灰桐さんが何を考えているか、さっぱりわからない。
さっき、話を聞きにいくだけって言ったじゃないか! そう文句を言いたくなる。
そこで初めて、藤間は僕をはっきり見た。
その表情が緩む。ニヤニヤした笑みを浮かべながら、僕と灰桐さんを交互に見た。嫌な形に歪んだ唇、緩む頬、無遠慮な視線。それらが心の声となって、僕に伝わってくる。
『へぇー……、なるほど。そういうことなんだ。はー、なるほどねえ。このふたりが……。へぇー』
「…………?」
なんだ?
なんだ今の思考は。藤間は、僕らに何かを感じ取っている。僕たちふたりを見て、何か含みのあることを考えている。
一体、なぜ?
「はいはい、そういうことね。ちょっと待って」
藤間はファイルを取り出して、開いた。落とし物のリストだろう。
僕は藤間が目を離している隙に、灰桐さんを見る。すると彼女は、僕に顎で藤間を指した。どういうことだ? 彼女は何を伝えたい?
僕は未だ混乱していたが、悟る前に藤間が顔を上げた。
「それじゃあ、一応、決まりだから。中に何が入っていたか、言ってくれる? 本人確認できたら返すよ」
藤間が僕に向かって尋ねる。だけど、待ってほしい。わかるわけがない。あの財布は僕のものではない。中身なんてわかりようがない。
しかし、ここで灰桐さんに助けを求めるのは不自然だ。あれは僕の財布なんだから。とにかく、中身を答えなければならない。
思わず固まっていると、さっき灰桐さんがした仕草の意味がわかった。
あれは、心を読め、と言っているのだ。
藤間自身は、財布の中身をもちろん知っている。リストに落とし物の詳細を書き込んでいた。それを読み切って、口に出せ、と彼女は言いたいらしい。心を読める僕なら、中身を言い当てられるだろう、と。
しかし、それは間違いだ。灰桐さんは僕の体質を誤解している。
僕は別に、超能力で頭の中を覗いているわけではない。表情や身体、その動きや仕草を見て、考えていることを読んでいる。言ってしまえば、これは予測や予想でしかない。ほとんど外さないだけで。
なので、具体的なことはわからない。数字の一を思い浮かべている人を見ても、「あなたは一を思い浮かべています!」と言い当てられるわけじゃない。わかるのはもっと大きな、感情や考えの流れまでだ。
「ん? どうした?」
何も答えない僕に、藤間は顔を上げる。彼の心の声は聞こえてくるが、財布の詳細まではわからない。そこまでは読み切れない。
しかし、ここでわかりません、なんて言えない。……言いたくない。
灰桐さんは僕の体質を誤解していると考えたが、そうではないと思い直した。
灰桐さんは、きっと僕ならやりきると思って、自分にはできないことを託したのだろう。
ならば、それに応えたい。彼女に、少しでも貢献したい。
「……お金は、あまり入ってないです。千円か、二千円くらいで」
頭を全力でフル回転させる。辻本くんの発言、思考、状況。情報のすべてを総動員させて、どうにか答えを絞り出す。まるきり真実を言う必要はない。藤間が『あぁこいつは持ち主だ』と誤解してくれればいいのだ。
「……身分証の類は、入ってないです。学生証とか、そういうのは別に入れてあったので。カード類は入ってないです」
僕は、藤間が中身をチェックする姿を確認した。
財布の中に身分証が入っていれば、わざわざ保管する必要はない。放送でも何でもして、本人を呼び出せばいい。担任に託してもいい。
それができないのは、その手のものが入っていなくて持ち主が不明だからだ。辻本くんも、最悪諦められると言っていた。重要なものは入っていないはず。
「……」
しかし、藤間は返事をせず、本当に、本当にごくわずかに眉をひそめた。その動きを僕は見逃さない。何か、何かちょっとだけ間違いがあったのだ。僕は軌道修正を試みる。
「……あー、でも、何かのポイントカードは入ってたかも、です。あんまりカードは見ないんで、ちょっと記憶がおぼろげなんですけど」
「うん」
藤間は頷く。よし、と拳を握りたくなる。彼は、ここで僕を持ち主だと誤認したらしく、身体の力が少しだけ抜けたのだ。あとはもう、財布の持ち主として対応すればいい――。
「で?」
僕は息が詰まりそうになった。藤間が顔を上げて、何やら嬉しそうな顔をしていたからだ。
で? でって、なんだ。これ以上、ほかに情報が必要なのか? 彼は今、僕を財布の持ち主だとわかっている。その確認作業は済んだ、と感じている。だというのに、なぜこれ以上の情報を欲しがる?
「大事なものが抜けてるだろぉ。ほらぁ。言えよー。何か、大事なものが入っていただろー? 金とかカードより、大事なやつがさぁ」
藤間はいやらしい笑みを浮かべ、気安く僕をつついた。
なんだこの反応は。
心を読んでも、言っていることと大して変わらない。
財布の中に、何か入っていたのだ。金額やカード類、そんなものは非にならない、別のなにか。その財布を象徴する、特徴的な何かが。
これを答えられなければ、藤間の認識はひっくり返る。せっかく誤認してくれたのに、それが解けてしまう。
なんだ。なんだ? 僕は頭を一生懸命回しているせいで、きっと余裕のない表情をしているだろう。不自然だからと灰桐さんを見ないようにしているが、助けを求めたくて仕方がなかった。
けれど、灰桐さんもわからないんじゃないか? わかっていたら、きっとヒントをくれたはずだ。これは、彼女にとっても想定外なんじゃないかと思う。
しかし、奇妙なことに僕のリアクションはこれで正解らしい。藤間は「そうだよなぁ、言いたくないよなぁ」とにやにやしている。そして、その視線をちらちらと灰桐さんにも向けていた。
もしかして、何か卑猥なものだろうか。女子の前ではとても言えないような、十八禁的な何か。
いや、そうではない。さすがの藤間も、女子の前で辱めてやろう、なんてことは思ってない。女子に卑猥なものを見せてやろう、という下卑た考えもない。そういう類の感情なら読み取れる。
彼はどうしようもない教師だが、意地が悪いわけではない。嫌がらせをしたいわけではない。単にデリカシーがないだけだ。
じゃあ、なんだ?
――そういえばさっき、彼は灰桐さんと僕を見て、「なるほど」と思っていた。何がなるほど、なんだ? 彼は何を誤解している?
何が入っていたら、こんな顔をされる?
……何が入っていたら、辻本くんはあんな行動に出る――?
僕は、咄嗟にその言葉を口にした。
「――写真! 写真が入っていました!」
完全下校時間が迫り、外は完全に暗くなっていた。すっかり日が落ちるのが早い。夕暮の時間は短く、すぐに夜へと移り変わっていく。
上着を着ていても外は肌寒く、風がぴゅうと吹くたびに校舎へ逃げ込みたくなる。さむ、と呟くのを堪え、そっと手を息で温めた。温かいものでも買っておけばよかった、と後悔し始めているが、今更移動はできない。
僕と灰桐さんは外で待機していた。
中庭は電灯があるため、部分的には明るくなっている。しかし、そこ以外はかなり暗い。何かが動いていても、きっと気付かないだろう。
そんな暗闇の中、ひとつの光が動いていた。地面を照らし、そろそろと移動している。
あれはきっと、スマホのライトだ。
持ち主の顔は見えないが、今更間違えようがない。
僕と灰桐さんは物陰から飛び出し、こちらもスマホのライトで彼を照らした。
「う……、だ、だれだ? 先生?」
ライトを突き付けられ、眩しそうに顔を向けるのは、ひとりの男子生徒。
辻本くんだ。
ライトのせいで、こちらを認識できないらしい。手で光を防いでいる。
「ここは暗いから。電灯の下に来てもらえるかしら」
彼は、灰桐さんの声にぎょっとする。「は、灰桐……?」と頓狂な声を出した。
辻本くんに同情する。おそらく、灰桐さんは今彼が最も会いたくない人物だ。
しかし、辻本くんは素直に電灯の元にやってきてくれた。僕と灰桐さんも、電灯の下に足を踏み入れる。
「佐々木……?」
僕を見て、彼は不可解そうな顔をする。この場に僕がいるのも、灰桐さんがいるのも不思議でならないようだ。
彼の心にはノイズが吹き荒れている。しかし、その表情からははっきりと警戒の色が見て取れた。この状況に困惑し、不審に思っている。
灰桐さんは辻本くんをまっすぐに見据え、静かに口を開いた。
「どうやら、探し物をしていたようだけれど。何を探しているのかしら」
辻本くんは言葉に詰まる。
財布が届けられていることは、僕の口から伝えてある。これ以上探しても無駄であると、彼自身も言っていた。
なら、それ以外に何を探しているのか。
「い、いや別に……。わ、わざわざ人に言うようなもんじゃないから……」
彼はごにょごにょと口ごもり、視線を逸らしている。
何を探していようが彼の勝手だし、僕たちに言う必要はない。関係のない話だからだ。
それは、灰桐さんもわかっているのだろう。
だから、直接的に尋ねた。
「あなたの探し物はこれでしょう?」
灰桐さんがそう言ったタイミングで、僕がポケットから取り出す。
それは一枚の写真だった。
彼に見えるよう、大きく掲げる。
それを見た瞬間、辻本くんは可哀想なくらい狼狽した。目を大きく見開き、信じられない、と言った顔で、写真を見つめる。口は言葉を紡ぐことなく、開けっ放しだ。顔色は青くなっていく。
……いや本当に。可哀想でならない。僕はそっと彼から目を逸らした。
彼は、必死で隠していたのに。絶対にバレないよう、ひとり奮闘していたのに。
想い人が写った写真を、「これあなたのでしょ」って本人から見せられるなんて、一体どんな罰だろうか。
数時間前。
藤間の前で、「写真!」と言い放った僕は、見事、あの財布の持ち主であると認識された。
「そう! 写真だよ。あれって修学旅行の写真だろぉ? いたよなぁ、こういう奴」
明らかにからかうような口調で、彼は引き出しから一枚の写真を取り出した。
それを机の上に置く。迷いなく手に取ったのは、灰桐さんだった。
彼女はじっとその写真を見つめたあと、心から不思議そうに言ったのだ。
「……これ、わたしの写真じゃない」
そう。修学旅行での、彼女の写真だ。カメラマンが心を奪われたんじゃないか、と思うほど綺麗な彼女のワンショット。頬杖を突き、窓の外を見る灰桐さんだ。
なんで? と首を傾げる彼女を一旦放っておき、藤間に尋ねる。
「……先生。これって、財布の中に入っていたんでしょう。なんで、先生の机の中にあるんですか」
僕の問いかけに、彼はぐにゃぐにゃの癖毛を掻きながら答えた。
「一回、中身をチェックするだろ? そのあと、外の落とし物入れに移したんだけどさぁ。うっかり写真だけ戻すのを忘れちゃって。落とし物入れって鍵も開けなきゃだし、戻すの面倒くさくってさぁ。取りに来たときに直接渡せばいいや、って思ってさ。別に問題ないだろ?」
ここに写真があるのは、彼のズボラのせいらしい。問題があるかないかで言えば、普通にある気がするけど……。勝手に人の財布の中身を出しているわけだし。
僕が内心で呆れていると、その呆れをより濃くさせることを彼は言う。
「しかし、佐々木。お前、彼女の写真を財布に入れてるなんてさぁ。古風っつーか、なんというか。まさか、俺もふたりが付き合ってるとは思わなかったなぁ。釣り合ってないけど、まぁそんなもんだよぁ」
何を言っているんだ、と訝ったが、思い直す。今、あの財布とこの写真は僕の物……、ということになっている。
僕と灰桐さんがともに行動をするのを、彼は今日だけで二回見ている。さらに片方が写真を持ち歩いていれば、恋仲と誤解しても仕方がない。
藤間は、灰桐さんに妙な視線や表情を何度か向けていた。それは、『あぁ、あの写真の子だ』とか『佐々木は灰桐の写真を財布に入れてるのか。付き合ってるんだな』と感じたからのようだ。
しかし、誤解だ。そんなおかしな誤解をされるのは困る。
僕は否定しようとしたが、灰桐さんが先に口を開く。
「はい。ですが、周りには内緒にしたいので、黙っていてくれますか」
「ん? あぁ、わかったわかった。俺だってね、言うなって言われたら言いませんからね」
そんなことを言う。誤解されたままで通すようだ。灰桐さんがいいのなら、別にそれでもいいけれど。
これが一番合理的でもある。変に言い含めると、彼はうっかり人に言いかねない。単純に内緒にしてね、が効果的だろう。
彼に期待してはいけない。「言うなと言われたら言わない」も怪しいものだ。
僕がこっそりそう思っていると、藤間は腰を浮かせた。
「それじゃ、鍵を開けるよ。取りに行こうか」
「先生。ですから、その入っている落とし物入れがないんです」
「あぁそうだったなぁ。わかった、じゃあまた先生方に訊いておくよ」
そんな気の抜ける会話をしたあと、僕たちは職員室を出た。
扉を閉じて、ほーっと息を吐く。
突然の難問を突き付けられ、生きた心地がしなかった。けど、どうにかやり遂げた。彼女の望む情報が手に入った。とても褒められた方法とは言えないけど……。灰桐さんは気にしないだろうが、あとできちんと辻本くんに謝らないと。
準備もなしにあの状況に放り込まれ、文句を言いたい気持ちにはなる。けれど、言ったところで灰桐さんには無駄だ。ぐっと飲み込んで彼女を見る。
灰桐さんは、不思議そうに自分の写真を眺めていた。
「……それだったんだね。辻本くんが、財布探しを断った理由」
これなら納得がいく。
仲間が先に財布を探し当て、万が一、中を見られてしまったら。灰桐さんの写真が見つかってしまったら。
好きな人が露見するだけでなく、写真を持ち歩いていたことがバレてしまう。
それはどうあっても、避けたかった。だから、だれの助けも借りずにひとりで探していたのだ。
気持ちはわかる。
しかし、当の本人は、やはり腑に落ちない顔をしていた。
「なぜ彼は、わたしの写真を財布に入れていたのかしら」
「……え。本気で言ってる?」
思わぬ彼女の問いに、僕はついそんな言い方をしてしまう。じろりと睨まれてしまった。
まぁ、灰桐さんが人の気持ちに疎いのは知っているけど……。
「つ、辻本くんが灰桐さんのことを好き、ってことでしょ」
結構恥ずかしいことを言わされる。
そして、非常に自分勝手なのだけれど、これで灰桐さんの心が動いたら嫌だなぁと思ってしまった。辻本くんは格好いい。性格もめちゃくちゃ良い。彼に好かれていると聞いて、嫌な気持ちになる人はいない。と、思う。
しかし、灰桐さんは「ふうん」といつものように言うだけだった。
自分の写真をしげしげと見つめたあと、僕に目を向ける。
「好きな人の写真って、財布に入れるものなの? そういうもの? 佐々木くんもこの気持ち、わかる?」
「え、あ、ま、まぁ。わかるといえば、わかる、けど」
突然おかしなことを訊かれ、どぎまぎしながら答える。気まずさから、つい目を逸らしてしまった。再び、彼女は「ふうん」とだけ言う。
そんな灰桐さんに、思わず問いかけた。
「……灰桐さんって、人を好きになったことってある?」
「失礼ね。それくらいあるわ」
むっとして返され、「え、あるんだ」とついこぼしそうになった。いつごろの話なんだろう。気になるけれど、さすがにそこまでは訊けなかった。
灰桐さんとこういう話は全くしないし、彼女は興味もないと思っていた。だから、貴重な話が聞けたなぁ、と僕は内心喜んでいたのだが。
当の灰桐さんは、いつの間にか深く考え込んでいる。
長い髪を指に絡め、くるりくるりと回している。
そして、少しの沈黙のあと、はぁ、とため息を漏らした。
「――思ったよりも、退屈しのぎにならなかったわね」
そして、今に至る。
すべてを把握したから、辻本くんを問い詰める。灰桐さんがそう言うので、僕はともにやってきた。
例によって、「同じ話をするのは無駄だから」と僕には詳細を伝えられていない。
「自分の写真を持ち歩くのは嫌だから」という理由であの写真を渡され、任意のタイミングで出すように言われただけ。つまり、僕の仕事はもう終わりだ。
あとは、事の次第を見守るだけだ。
「な、何のこと? そんな写真、俺は知らない」
写真を突き付けられ、あんな反応をしてしまったあとでも、辻本くんは白を切った。まぁそうだろうな、と思う。僕だって、同じ状況なら絶対に認めない。
しかし、灰桐さんは彼を見つめ、淡々と事実を述べていく。
「その写真は、あなたの財布から出てきたものよ。茶色の二つ折りの財布でしょう? 先生からも確認した。あの財布に入っていたものだと、はっきり言ったわ」
そして、彼女は藤間が行ったことを説明する。中身を確認したときに、写真だけ戻し忘れたこと。面倒だったのでそのままにし、落とし主が現れたときに返せばいい、と自分の机に仕舞っていたこと。
辻本くんは、青い顔でその話を聞いていた。その表情で認めているようなものだ。
けれど、僕には話の流れが見えない。この話の行きつく先が見えない。あの写真が彼のものだと認めさせたとして、灰桐さんは何を望んでいるんだ……?
僕が灰桐さんの無感情な顔を見つめていると、彼女はこう続けた。
「この写真を元あった場所――、あなたの財布の中に戻そうにも、戻せない。財布が入った落とし物入れが、消え去ってしまったから。わたしが訊きたいのは、そのこと」
彼女はそこで一拍置き、彼を冷たい目で見据えた。
「落とし物入れを持ち去ったのは、あなたね」
「え」
僕は思わず声を漏らす。
辻本くんが落とし物入れを持ち去った? 彼女の言うとおり、落とし物入れは今、所在不明だ。それが持ち去られたもので、しかもその犯人が辻本くんだって?
僕が混乱していると、辻本くんはぶんぶんと首を振った。
「し、知らない。俺は何も知らないよ」
「そう。なら、あなたが言いたくなるよう、順番に話していくわね」
彼女は冷たく告げると、視線を校舎に向けた。
始まるらしい。
僕は結局、この一連の謎がどうなっているか知らない。彼女の考えを聞いていない。佇まいを直し、彼女の話に耳を傾けた。
「あなたは昨日、財布を学校の敷地内で落としてしまった。その財布の中には、あなたの想い人の写真が入っている。決して中を見られたくはない。そう思ったあなたは、仲間の助けを借りずに、自分ひとりで財布を探すことにした」
想い人、という言葉に、辻本くんの肩がぴくりと揺れる。
それを本人に言われるのだから、堪ったものではないだろう。
「しかし、幸か不幸か、あなたの財布は別の人が先に拾ってしまった。放課後、落とし物として届けられているのを、佐々木くんが見ている」
僕の名前が出て、辻本くんが僕に目を向ける。思わず、目を逸らしてしまった。
灰桐さんは何も気にせずに、話を進めていく。
「あなたは部活が終わったあとにでも、落とし物入れを確認したんでしょう。そこで困った。自分の財布が、落とし物入れの中に入っていたから」
彼女の言葉に、僕は「ん?」と首を傾げた。
「落とし物入れは、そのときにはまだあったってこと?」
僕の問いに、灰桐さんは「えぇ」と答えた。
「そして、消えたのもそのとき」
辻本くんが息をはっ、と吐く。
彼の目は、灰桐さんをじっと見つめていた。困ったような、怯えたような目で。
それを受けても灰桐さんの表情は何も変わらず、話を続けた。
「彼は、落とし物入れに自分の財布があるのを見て、途方に暮れたでしょうね。もしかしたら、最も避けたかった事態かもしれない。回収しようとすれば、どうあっても藤間から写真について言及されてしまう」
想像に容易い。というか、既に僕たちは体験済みだ。
藤間は写真の存在に気付いていたし、それを面白がってもいた。相手がだれであっても、同じようにからかっただろう。
辻本くんが「この財布は自分の物です」と言えば、写真の持ち主であることが彼に露見する。
しかし。
こう言ってはなんだか、それだけだ。
「……でも、それでバレるのは、藤間だけなんだしさ。最も避けたいっていうのは、言いすぎじゃ?」
僕なら、自分の好きな人がクラスメイトにバレる方が嫌だ。どうあってもほかの人にも伝播してしまう。下手をすれば、本人にまで。
それならまだ、関わりの少ない教師ひとりにバレる方がマシではないか。
僕の考えに、灰桐さんは小さく首を振る。
「相手があの教師だから、彼は悩んだんでしょう。嫌なことを言われるのは間違いないし、口止めしてもうっかり人に漏らすかもしれない。一番、秘密を知られちゃいけない類の人でしょう」
「う」
藤間のいやらしく、嬉しそうな顔を思い出し、僕は何も言えなくなる。
それは耐え難い苦痛だ。自分を辻本くんに置き換えると、とても落ち着かない気持ちになる。僕が同じ状況になったとき、素直に財布を取りに行けるだろうか。
藤間に自分の秘密を握られるなんて、気が気でない。
彼は「言うなと言われれば言わない」と口にしていたが、今までのことを思うと信じられない。授業中に洗いざらい話したあとに、「あぁこれ、言うなって言われてたんだった」なんてしれっと言いそうである。
少なくとも、藤間はそれほど信用できない人物だ。
藤間が今誤解している、『僕と灰桐さんが付き合っている』というのは、もし藤間がうっかり口にしても、僕たちが否定すれば終わりだ。面白みもない噂だし、広まりもしないと思う。嘘だし。嘘くさいし。
しかし、辻本くんは違う。
『辻本が、灰桐の写真を財布に入れて持ち歩いていた』というのは、噂話としては面白い。灰桐さんも辻本くんも、この学校では有名人だ。だれからも好かれる辻本くんが、彼女をそこまで想っている……、という話は、僕だって興味がそそられる。
本人が否定したところで、噂の拡散は止められない。
藤間に面白おかしく語られ、それがほかの人に知られていく。想像するに、とても耐えがたい。
それならいっそ、財布を諦めた方がいい。僕ならきっとそうする。名乗り上げさえしなければ、写真の持ち主は、不明なままだ。
「あ。そうだ、そうすればいい。財布を諦めればいいんじゃないか」
僕は自分の考えに、名案だ、とばかりに声を上げた。
灰桐さんと辻本くんを交互に見てから、考えを口にする。
「そこまで知られるのが嫌なら、財布は諦めるんじゃないかな。だって、額はそんなに入ってない、最悪諦めてもいい、って辻本くん自身が言ってたんだ。身分証の類も入ってないから、自分の物だってバレないしさ」
辻本くん自身がクラスメイトにそう言っていた。その言葉は本心だったし、そこまで惜しくない、と思っていたのは間違いない。
それならいっそ、諦めるんじゃないか。財布と尊厳なら、後者を取るのはそれほどおかしくないはず。
僕の言葉に、辻本くんはすがるような目を向けてきた。
どうだ、と灰桐さんを見るけれど、彼女はすぐさま首を振る。
「それは、状況がより悪くなるだけ。彼が無視をしていても、彼の友人が見つけてしまうでしょう。これはお前の財布だろう、受け取りに行こう、と。そうなっては最悪。実際、彼の友人は、財布の形状を覚えていたようだし。届けられた時点で、彼は詰んでいるの」
あぁ、と僕の口から吐息が漏れる。
そうだ、それも口にしていた。なぜ、僕が辻本くんの財布の形状を知っているか。クラスメイトがそう言っていたからだ。
僕でさえ、財布の落とし物と聞いたとき、「辻本くんのかな?」と思って確認しようとしたくらいだ。近しい友人なら見つけ次第、報告してくれるに違いない。
そして、もし僕と灰桐さんのように、複数人で藤間の前に立ったとしたら。
その場にいる全員に、確実に秘密がバレてしまう。
それは、確かに最悪の展開だ。
僕が黙り込むと、灰桐さんはそっと告げた。
「だからあなたは、財布を、落とし物入れごと持ち去った」
灰桐さんの冷たい視線と声、それに晒され、辻本くんは表情を硬くさせる。
先ほどと違い、否定の言葉を返すこともなかった。
手をぎゅっと握り、灰桐さんの顔を見返している。
「あなたは昨日、落とし物入れに財布があることを確認した。放置はできず、受け取るしかない。けれど、藤間にバレることはどうしても避けたかった」
彼女は視線を職員室に移す。この位置からなら、ちょうど窓越しに見える。
僕は、灰桐さんの話を聞いて、そのときの辻本くんを思い浮かべた。
落とし物入れを見て、途方に暮れる辻本くん。先生に言うこともできず、かといって、財布を放置することもできない。
そうなったとき、彼はどういった行動を取るのか。
「だからあなたは、入れ物ごと盗み出すことにした。箱に鍵は掛かっているものの、容易に持ち運びはできる。部活終わりなら、校内に人も少なかったでしょう。素早く渡り廊下から外に持ち運べば、見つかることもないでしょうね」
きっと今と同じくらいの時間帯だ。外は真っ暗、教室の電灯もほとんど点いていない。煌々と照らすのは廊下ばかりで、人の気配も薄かった。だれかが通れば、足音が響いてすぐにわかる。
彼は辺りを見回し、人が来ないことを確認してから、落とし物入れを持ち去った。
「そして、落とし物入れ自体はただのプラスチックケース。地面に叩きつけるなり、石で殴打するなりで、簡単に破壊できる。中の物を取り出せる。そうしてあなたは、だれにも知られることなく、自分の財布を回収した」
鍵が掛かっていても、箱自体を壊せば関係ない。原始的で単純だが、だからこそ有効だ。
僕は辻本くんを見る。
彼は唇を噛んで、今は俯いてしまっていた。
それでも灰桐さんは手を緩めることはなく、淡々と続けていく。
「しかし、ひとつ誤算があった。財布の中に入れていたはずの、写真がなくなっていた。きっとあなたは、回収した際に落としたと勘違いしたんでしょう。今日の昼間も、そして今も。写真を探し回っていた。廊下から外に出られる、この中庭で。落とし物入れを持ち去った先で。証拠を残したくなかったんでしょうけど、それが裏目に出た」
そこで彼女は辺りを見回す。
「財布を回収したのが、この近辺なんでしょうね。どこかに破壊したプラスチックケースや、ほかの落とし物がまだあるはず。すべてを処分するには、昨日だけじゃ準備不足だったでしょうから。今日にでも、すべてを片付けるつもりだったんでしょう?」
そこで、彼女は一度息を吐く。
辻本くんを見据えて、その反応を窺った。
彼は顔を上げて、まじまじと灰桐さんを見つめた。なんでそこまで、と言う声が聞こえてきそうだ。心の声はノイズで何も聞こえないのに、彼の反応はそれでもわかりやすい。
けれど、彼は首を振った。
ぐっと拳を握り、「俺は、し、知らない」と言葉を繋げる。
「そ、それは、灰桐の想像だろ。俺は、知らない。もし、灰桐の言うように落とし物入れが破壊されていたとして、お、俺じゃない。別のだれかがやったかもしれないじゃないか」
彼はたどたどしくも、そう主張する。
確かに、灰桐さんは確固たる証拠を出したわけではない。あくまで想像の範疇だ。この話を他人にしたところで、信じてもらえるかはわからない。
しかし彼女は、少しだけ強い光を目にたたえながら、辻本くんを見た。
「悠長なことを言うわね」とかぶりを振る。
「今、何も起きていないのは藤間が怠慢だから。生徒の私物、しかも鍵や財布が一斉に消え去ったのよ。きちんと訴えれば、先生方は捜索を手伝ってくれるでしょう。この近くで落とし物入れが破壊されたのは、もうわかっている。先生方と捜索して、破壊されたプラスチックケースと、あなたの財布だけがなくなってる光景を見たとき――、先生方はどう思うでしょうね」
学校側の管理不足で、灰桐さんの鍵は紛失した。彼女がそれを声高に主張すれば、大事になる可能性は大きい。
この状況で辻本くんが疑われ、もし、持ち物検査にでも発展すれば。警察に届けられるようなことがあれば。
辻本くんは、逃げ切れるだろうか。
その言葉がとどめだったようだ。
辻本くんは目を大きく見開いたあと、黙ってうなだれてしまった。
俯いたせいで、彼の表情は見えない。
沈黙が降りる。暗い中庭に無言で佇む。風が吹いて、髪が揺れた。その冷たさについ目を細める。
しばらく経ったあと、辻本くんは諦めたようなため息を吐いた。
顔を上げて、強がりの笑みを浮かべる。
「やっぱり、悪いことはできないな……」
サーっとノイズが晴れていく。
彼の感情が見えるようになる。
落ち込んではいるけれど、心のどこかでほっとしている。彼自身、強い罪悪感に苛まれていたようだ。それから解放されたことへの安堵、罪を暴かれた恐怖がないまぜになっている。
同時に、僕らに怯えてもいた。
僕らふたりを交互に見ながら、不安をそのまま言葉にする。
「それで……、俺は、何をすればいい……?」
彼の懸念はそこだった。
僕らが何を求めているか、わからない。
言ってしまえば、灰桐さんは辻本くんの弱みを握った。バラされたくなければ、と脅されるかもしれない。何かを要求されるかもしれない。彼はそれを恐れている。
僕だって、灰桐さんがどういう意図で彼を問い詰めているのか、わからなかった。
ただの答え合わせなのか、それとも。
すると、灰桐さんは躊躇なく辻本くんに手を差し出した。
「決まっているでしょう。わたしの鍵を、返して頂戴」
辻本くんの表情がきょとんしたものになる。何を言われたのかわかっておらず、心の中も混乱の声でいっぱいになった。
ようやく、灰桐さんのしたいことがわかった。
言葉足らずの彼女の代わりに、僕が説明する。
「……落とし物入れに、灰桐さんの鍵が入ってるんだって。だけど辻本くんが持ち去ってしまったから、灰桐さんが回収できなくなってるんだ」
「あ、あぁ……、そうか……、なるほど……?」
彼の心の中は、複雑な感情が入り混じっていた。
「そんなことで?」と考えてしまっている。
まぁ、気持ちはわかるけど……。
辻本くんは、僕たちをその場所へ連れて行った。
案内された先は、裏庭の端にある倉庫。その裏。
そこに落とし物入れの残骸、そして、中に入っていた落とし物が捨てられていた。倉庫の物陰に押し込まれている。
灰桐さんはそこにしゃがむ。しばらく眺めていたが、「あった」と鍵を持ち上げた。あの、猫のキーホルダー付きの鍵だ。
辻本くんは、その様子を強張った顔で見つめている。
意を決したように口を開いた。
「それで……、俺は、どうすればいい」
ここから先の要求はなんだ。どういった行動を取ればいいのか。
これで終わりだとは、とても思えなかったらしい。
それなりの覚悟を持って尋ねたようだが、灰桐さんは素知らぬ顔だ。「何も」と答える。
「わたしは鍵が取り返せれば、それでいいから。これで、お母さんに怒られずに済むもの」
そう言って、立ち上がる。放っておけば、そのまま立ち去りそうなくらいだった。
僕は慌てて、辻本くんに水を向ける。
彼は、言いたいことがあるはずだ。これで終わりだと、どうにも彼の気が済まないようだったから。
「ええと、辻本くんはどうしたいの?」
僕の言葉に、彼は少しだけ考え込む。視線を落とし物入れに向けながら、ぐるぐるとものを考えている。やがてため息を吐き、ぽつぽつと答えた。
「俺は……、全部先生に言うよ。謝ってくる」
「…………」
『そうしなきゃダメだよな』と強く考えている。
やはり、彼は良い人だ。
おそらく、このまま放っておいてもバレはしない。灰桐さんが特殊なだけだ。知らんぷりを続ければ、きっと彼が犯人だとはだれも思わないだろう。それどころか、これが明るみに出ることもないかもしれない。
それは彼もわかっているだろうに、それでも、ということらしい。
灰桐さんは興味がなさそうに「ふうん」と言ったが、視線を鍵に戻した。
「それなら、わたしがこれを持ち去るのはまずいわね」
そうかもしれない。鍵が持ち去られているとわかれば、学校側も何かアクションを起こすかもしれない。下手をすれば、面倒なことになる。
というか。
辻本くんが素直に謝罪するのなら、とっくに面倒なことになっている。
「……もう既に、僕たちはまずいことになってるよ」
僕の言葉に、灰桐さんが小さく首を傾げる。わかっていないらしい。
僕は、辻本くんに事情を説明しがてら、問題点を指摘した。
あの財布だ。……今、辻本くんの財布は、僕の物、ということになっている。
灰桐さんは、情報を引き出すために嘘を吐いた。辻本くんの財布を僕の物だ、と主張した。
ここで辻本くんがすべて正直に言うと、僕らのおかしな嘘がバレるわけだ。
辻本くんは「そんなことまでしていたのか……」と内心で呆れ、苦笑しつつ、「それなら、俺も話を合わせるよ……」と言ってくれた。やはり、彼はいい人だ。
「今からすべて話してくる」と言って、職員室に向かう辻本くんを僕たちは見送る。
灰桐さんは、自分の鍵をそっと地面に戻した。
後日。
僕は旧校舎に辻本くんを呼び出し、財布を差し出した。あの二つ折りの茶色の財布だ。
正真正銘、彼が落とした財布だ。
「はいこれ」
「ありがとう。悪いな」
「いや、こちらこそ」
苦笑交じりでそんなやりとりをする。
辻本くんは宣言どおり、自分のやったことを洗いざらい藤間に話したようだ。
動機の部分だけを変更して。
『落とし物入れの財布を見て気に入り、どうしても欲しくなり、魔が差してやってしまった。しかし、罪悪感に耐えられず、こうして返しにきた』
結果的に写真の件も伏せられて、いい嘘だと思う。
辻本くん自身は何かしらの罰を覚悟していたが、藤間は「あぁそう。じゃあ、何とかしとく」と言うだけで、特にお咎めはなかったそうだ。彼の言葉を疑いはしたものの、本当に何もなかったらしい。せいぜい、倉庫裏の残骸を片付けるよう言われただけ。
どうも、藤間が面倒を嫌って、内々に処理した可能性が高い。何も言わなければ、新しい落とし物入れを用意するだけで済むからだろう。
教育者としてどうなのだ、とは思うものの、辻本くんとしては良い方に転んだ。バレるとまずいのは藤間も同じなので、きっと言い触らすこともない。
今は似たようなプラスチックケースが同じ場所に配置され、落とし物がそこに詰め込まれている。
そして僕は改めて、藤間の元に訪れた。持ち主として、財布を回収するために。
返却してもらったあと、本当の持ち主である辻本くんに返す。
彼は財布を受け取って、大きく息を吐いていた。彼にとっても、色々と大変な数日間だったろう。自業自得とはいえ。
彼は財布を眺めながら、ぼそりと呟く。
「灰桐、俺のこと気味悪がってるよな。写真なんて入れて、あんなみっともないところを見せてさ」
何気なく言うよう、努めてはいる。けれど僕には、しっかりと落ち込んでいる声が聞こえていた。
励ましの意味も含めて、僕は事実をそのまま口にする。
「特に何も言ってなかったから、気味悪いってことはないと思うよ。灰桐さんって、思ってたら言う人だし」
「そうか……、それなら、いいな」
少しだけほっとした様子で、彼は薄く笑う。
しかし、辻本くんは真面目な表情になると、僕をじっと見つめた。
おそるおそる尋ねてくる。
「佐々木ってさ……。もしかして、灰桐と付き合ってるのか?」
「……そう見える?」
答えると、彼の顔にははっきりと「見えない」と書いていた。首まで振る。
「そういうことだよ」
僕は苦笑するしかなかった。
その日の昼休み。
運よく、旧校舎で灰桐さんを見つけた。用があったので、彼女を呼び止める。
一応、辻本くんのことを報告しようと思ったのだ。
「辻本くんに財布、返してきたから」
「そう。わたしも鍵を回収できたわ」
灰桐さんは鍵をポケットから取り出した。猫のキーホルダーが可愛らしい。無事に返ってきたなら、よかった。
そちらの報告が終わったので、僕はもうひとつの用事を持ち出す。
僕はポケットから、あの写真を取り出した。彼の財布に入っていた、灰桐さんの写真だ。
辻本くんを問い詰める際に、この写真は僕が所持していた。それをうっかり返し忘れていたのだ。
返さなきゃ、と思ったものの、同時に僕は疑問を覚える。この写真を回収したのは灰桐さんだ。それを僕が預かっていただけに過ぎない。
本来の持ち主は辻本くんだが、僕は灰桐さんから受け取っている。
「ええと、この写真ってどうするべきかな」
どうするかは、彼女に訊くのが筋だと思った。
灰桐さんは写真をちらりと見て、「あぁ」と呟く。
何かを言いかけて、口を閉じる。彼女には珍しい反応だ。
「彼に返すと、わたしが『持っていてもいい』と許可するみたいで、抵抗があるわね」
そう続けたので、なるほど、と思う。
少なくとも、彼女から辻本くんに返すのは避けるべきだろう。辻本くんも困るだろうし。
じゃあ、僕が返しておこうか。そう言おうとしたが、
「捨てておいてくれる?」
そう先手を打たれてしまう。
「………………」
いいんだろうか、と思いつつも、彼女の気持ちもわかる。
勝手に捨てたとしても、辻本くんもきっと文句は言えない。
とりあえず曖昧な返事をしつつ、僕はポケットに仕舞いなおした。
話は終わったと判断したのか、彼女はくるりと背を向ける。そのまま歩いて行こうとして、「あ」と振り返った。
その表情は、実に珍しい。
少しだけ、本当に少しだけだが、彼女がいたずらっぽい笑みを浮かべていたのだ。
「何なら、佐々木くんの財布に入れておいてもいいわよ。どこかに落としても、戻ってくるお守りとして」
彼女はそうとだけ言い残すと、さっさと立ち去ってしまった。
「……そんなこと言われてもな」
僕は再び、彼女の写真を取り出す。お守りなんて言っていたけれど、これがなければ、辻本くんは何の問題なく財布を回収できた。むしろ、曰く付きのアイテムだ。写真さえ入れてなければ、あんな事件は起こらなかったのだから。
……いやむしろ、灰桐さんはそれを望んでいるのか? 何かしらの事件が起きることを。
僕は大きなため息をこぼし、写真を見つめる。
本当によく撮れた一枚だ。彼女の魅力を写真越しでも伝えてくれる。じっと見ていても、飽きることはない。
灰桐さんは、辻本くんの思考や行動を言い当てていた。
しかし、ひとつだけ間違っていたと思う。
彼が失くした写真を探し回っていたのは、「証拠を残したくないから」と彼女は想定していた。けれど、おそらくそうではない。
この写真を、手放したくなかったのだ。
「……辻本くんに返しておくか」
灰桐さんの意向に反するが、元々これは彼のものだ。勝手に捨てるのも忍びない。それにこんな綺麗な写真なのだ。とても捨てようなんて気は起きなかった。
『何なら、佐々木くんの財布に入れておいてもいいわよ。どこかに落としても、戻ってくるお守りとして』
「………………」
先ほどの彼女の声が、頭の中で響く。小さく息を吐いた。
その必要は全くない。
僕は自分の財布を取り出す。
財布の中には、一枚の写真が入っていた。
灰桐さんだけ聴こえない 一久けい @ichihisa
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