『失せ物箱が失せ物に』

第5話

 今の時代、スマホが一台あれば、いくらでも綺麗な写真が撮れる。

 性能の向上は著しく、プロのカメラマンでもスマホを使うことがあるという。

 少なくとも、普段の生活で使用する分には、申し分ない性能だ。

 それをひとり一台持っており、ほぼ無尽蔵に撮影ができる。

 以前はインスタントカメラが一般的だったそうだが、廃れたのもわかる。

 今ならばデータでいくらでも保存でき、持ち歩くことも可能、シェアだって容易なのだから、『写真』そのものが必要ないのではないか……。

 と、僕は思っていたのだけれど。

 この盛況ぶりがそれを否定している。

 それはそれ。

 これはこれ。

 みんなはそう思っているらしい。

 今、僕たちがいるのは新校舎の一階。貼り出された写真を見るために、二年生がワラワラと集まっている。

 少し前に行った、修学旅行での写真だ。たくさんの写真が壁いっぱいに並んでいる。同行したカメラマンが撮影したものだ。僕たちは申込用紙に番号を書き、該当する写真を注文する、という仕組みだ。小学校でも中学校でもあった。

 今朝貼り出されたばかりなので、皆我先にとこの場に集まっている。

 周りの生徒は一様に顔を上げ、一生懸命に写真を見つめていた。

 その表情が見えるたび、彼らの考えていることが頭に響く。

『うわ、顔ぶっさ。こんなところ撮らないでよー、最悪なんだけど』

『西野、目瞑ってるー。あいつただでさえ写真写り悪いのになぁ』

『ぜんぜん俺の写真ねーじゃん。ふざけやがって、ヘボカメラマン』

「………………」

 人の多いところはただでさえ声がうるさいのに、さらに今は表に出ない感情が多い。

 できれば、来たくなかった。

 顔をしかめないよう注意していると、肩をぽんと叩かれる。

「いやー、やっぱめちゃくちゃ人多いな。みんな写真気になりすぎだろ」

「もっとバラけろよ、って感じだよな」

 自分たちのことを棚上げし、好き勝手に言う。クラスメイトの中沢くんと谷口くんだ。

 彼らに「写真貼り出されたらしいぞ! 早速見に行こう!」と言われてしまえば、僕は断れない。もし断れば、『なんだよこいつ。付き合い悪ぃな』とでも思われ、その言葉は僕に突き刺されるからだ。

「お。俺たち写ってんじゃん。楽しかったよなー、来年も修学旅行あればいいのになあ」

 中沢くんがご機嫌に指差す先に、僕たちの写真があった。

 班で食事をしている場面で、クラスメイト六人でカメラに笑顔を向けていた。三人はこの場にいる僕たちと、クラスの女子三人だ。屈託のない笑みを浮かべている。

「ねぇ。楽しかったねえ」

 僕は笑って答える。

 中沢くんはどうやら心の底から、「楽しかった」と思っているようだけれど、言葉を選ばずに言うなら、僕にとっては地獄だった。

 昼休みでさえ、リスクを取ってでも「人と数十分いっしょに食事をする苦行」を避けるのが僕だ。寝食をともにするのが、どれほどの苦痛だったか。

 ただでさえ、旅は不満が出やすくなるというのに。

 人の心が読めるというのは、相手の建前と本音を同時に受け取ることだ。

「あぁ、大丈夫。ぜんぜん気にしてないよ」と言いつつも、心の中では口汚く罵る。黙っていても、「あいつふざけんなよ」と憤っている。そんな場面が常に付きまとうのだ。

 食事のときも、眠るときも。

 正直、行く直前まで休むかどうか、悩んだ。想像するだけで胃が痛くなり、憂鬱でどうしようもなかった。楽しみなわけがない。

「………………」

 でも、写真の僕はそんなことを感じさせない。ちゃんと笑えている。

 写真は好きだ。さすがに写真だけじゃ、その人の心は読めない。見ていても静かなままで、ほっと安心できる。

 ある程度は、僕も写真を買うつもりだ。僕しか映っていない写真は、僕が買わないとさすがに悪いし……。

「! おっと」

「うわっ」

 前の人で見えないから、と身体をずらしたときだった。

 中沢くんたちと逆の方にいた人と、僕の肩がぶつかった。

 お互いに体勢を崩し、僕はそちらに目を向ける。

「おいお前ら、押すなよー! 人とぶつかっただろ!」

「お前がぼっとしてっからだろー。あー、佐々木。悪いなー、辻本がぼうっとしてて」

「おー、ごめんなー。全部辻本が悪いから」

「お前ら本当ふざけんなよ!」

 そんなふうにじゃれているのは、うちのクラスの男子たちだ。口調は怒っていても、声色に怒気はない。

 彼らに押されて、僕にぶつかったのが辻本くん。彼らのグループは辻本くんを中心にしているが、クラスの中心と言い換えてもよかった。

「あぁ、大丈夫。こっちこそごめん」

 僕が謝るのと、辻本くんがこっちを向くのは同時だった。

 羨ましいくらい背が高く、それでいて顔立ちは整っている。通った鼻筋やくっきりした二重瞼、形のいい眉。髪もナチュラルにセットしてあり、さりげなくオシャレなのがまた格好良かった。体つきもよく、野球部だけあってたくましい腕をしている。

 彼は申し訳なさそうに、ちょんと手を挙げた。

「悪い、佐々木。ふざけちゃって」

 僕は体質のせいでなかなか人を好きになれないが、辻本くんには好感を持っていた。

 彼は今、『悪かったよなぁ。あいつら注意しておかないと。佐々木、嫌な気持ちになってないかなぁ』と心から慮っている。

 顔が良い人は性格が良い、というのはいささか主語が大きいとは思うけど、彼は純粋に心が綺麗だ。それが人を惹きつける要素でもあるんだろう。

 僕が再び大丈夫、と伝えると、彼は人好きのする笑みを浮かべた。僕に背を向けて、さっきのふたりと「お前らふざけんなよー」とじゃれ始める。

 そこで気が付く。僕の足元に申込用紙が落ちていた。

 僕の手には、自分の申込用紙がある。彼が落としたのだろうか。

 拾い上げると、綺麗な字で番号が並べ立ててあった。改めて辻本くんを見ると、その手にはペンしか握られていない。

「辻本くん、これ落としてない?」

「ん? あ。あー、ありがとう!」

 辻本くんに声を掛けると、彼は手元を確認して声を上げた。やはり彼の物のようだ。

 僕が差し出すと、辻本くんは再びお礼を言って、受け取ろうとした。

 そのとき、彼の表情が変わる。眉がわずかに上がり、口を「あ」の形にし、紙を掴む指がぴくりと動く。全身が一瞬だけ硬直する。 

 その動きを、僕は目ざとく把握してしまう。

『あ、やばい』

 彼は心の中でそう思い、僕の顔をまじまじと見た。

 しかし、すぐに笑顔に戻ると、彼は「悪いな」と笑って、背を向けてしまった。

 表情を取り繕ったところで、僕には心の声が聞こえてしまう。

 けれど、今の彼のように「知られたくない、隠したい」と感じると、心の声にはノイズが走る。彼がなぜ「やばい」と思ったのかは、わからなかった。

 けれどまぁ、そんなことは考えるだけ無駄だ。知らなくていいのなら、その方がいい。

「おーい、佐々木ー。もう終わった? 終わったならもう戻るぞー」

「あ、あぁ。ごめん、すぐ確認する」

 中沢くんに急かされ、僕は慌てて写真に視線を戻す。

 心の中で彼は『ったく、早くしろよ』と苛立っていたので、できるだけ迅速に。無理そうなら先に戻ってもらおう。

 とはいえ、ある程度は確認できているけど――、と一枚の写真に目が留まった。

「――――――」

 その写真だけが、異質だった。

 綺麗な女性が、気だるげに頬杖を突いている写真だ。バスの外から窓を写したもので、「思わず撮ってしまった」と感じる、そんな一枚。彼女は外を眺めながら、この世すべてが退屈だ、と言わんばかりの表情をしている。 

 修学旅行だというのに、全く楽しそうではない。

 しかし、その暗い瞳が、眠たげな眉が、重い肩が、その美貌を引き立てる。憂いを含んだ美しい女性に、心ががさりと揺さぶられる。名のある絵画のようだった。

 あれは、灰桐さんだ。

 こうして写真で見ると、あの人は本当に綺麗な人だな、と実感する。つい目を奪われた。

 修学旅行は、はっきり言って苦痛なことばかりだったけど、悪いことだけでもなかった。灰桐さんの退屈しのぎに付き合えただけでも、参加した甲斐はあった。

 もちろん、大変ではあったんだけど。

「佐々木ー。まだー?」

「あ、ご、ごめん。もう大丈夫!」

 僕は中沢くんに返事をし、彼らとともに教室へ戻った。



 教室に戻ってからも、どこか空気は浮き立っていた。

 廊下での空気を持ち込むように、「どれだけ写真買った?」「あそこめっちゃよく撮れてたよね」「修学旅行楽しかったなー」と写真の話から、修学旅行の思い出話に花が咲いている。

 僕も中沢くんたちの話を笑いながら聞いていたが、中沢くんがはっとして言った。

「ん。ていうか、一時間目って藤間だっけ? ……あー、藤間だ」

 中沢くんが時間割を確認し、嫌そうに言う。隣の席の女子が、「ちょっとー、嫌なこと思い出させないでよー」なんて中沢くんに文句を言った。

 藤間、というのは理科の教師だ。

 だが、別に理科の授業が嫌なわけではない。教師の藤間が嫌なのだ。僕も彼は苦手だ。

 何となく、どんよりした空気を感じ取っていると、チャイムが鳴った。

 ホームルームが終わり、一時間目の始業チャイムが鳴り響く。

 少し遅れて、藤間が教室に入ってきた。

「はーい、よろしくー」

 面倒くさそうに、間延びした口調で言う。隣の女子が「きも……」と呟いた。

 藤間は特に女子ウケが悪い。理由は簡単で、見た目がどこかみすぼらしいのだ。

 ぐしゃぐしゃの癖毛は伸び放題で、目を隠すほど。首筋にまでウネウネと伸びている。痩せているので頬がこけて見え、身体も薄っぺらい。貧弱、というよりは不気味だ。

 ボロボロのパーカーと、いつ買ったかわからないチノパンを履いており、「本当に洗濯しているのか?」と疑わしいほどに、いつも同じ服装だった。

 僕たちが普段どおりに号令をすると、彼は授業を雑談から始めた。

「廊下に、修学旅行の写真貼ってあったけどさぁ。あれって、君たち買うわけ? 毎年みんなありがたく買ってるけどさぁ、あんなの金の無駄だって。買ったところで見ないんだからさぁ。実際見ないでしょ? 勿体ないし、それよりさぁ……」

 そんなことをつらつらと垂れ流す。教室中が「なぜ水を差すようなことを言うんだ」という空気に満たされた。

 明らかに空気が悪くなっているが、藤間は気にも留めない。首に手をやりながら、なんてことはないように続けた。

「そういえば、川島。お前、修学旅行でホテルから抜け出そうとしたんだろ? 四組の三峰とさ。夜に男女で抜け出すのはダメだろぉ。何しようとしたんだよ、お前らさぁ」

 そんなことを笑いながら言う。教室の空気が凍った。

 川島さんは、僕からちょうど左前方の席だ。ついちらりと見てしまい、横顔が視界に入った。彼女は耳まで顔を赤くして、俯いてしまう。羞恥と怒りで肩を震わせていた。

 彼女は無言を貫いているが、心の中ではそれはもう罵詈雑言の雨嵐だった。その三峰くんも、彼女の口汚さを知れば百年の恋も冷めるのでは、と思うほど。

 しかし、これは藤間が悪いと思う。

 彼は単純に、デリカシーがない。

 言っていいことと、悪いことの区別がついていない。

 たまに生徒から誤解されるが、別に彼は悪意があるわけじゃない。悪意で生徒を貶めているのではない。

 心が読める僕だからわかるが、彼はもう本当にただただデリカシーがないだけの、どうしようもない人なのだ。思ったことを、そのまま口にしているだけだ。貶めよう、なんて思っていない。ぽろりとこぼれるだけだ。

 今のご時世、先ほどの発言も相当危ういと思うし、彼はあのレベルの失言を繰り返している。生徒から別の先生にクレームがいっているし、藤間にも行きついているはずだが、彼の態度は変わらない。平和に、この学校に在籍している。

「気にすんなよ。藤間の言うことだし、みんな聞かなかったことにしてくれるって」

 そう小声で慰めたのは、隣に座っていた辻本くんだ。

 彼に言われ、川島さんはこくこくと頷く。「ありがと」と答える声は涙声だが、彼女はこっそり「やっぱ辻本って格好いいなー……、いいなー……」なんて思っている。三峰くんはもういいんだろうか……。

 辻本くんを見ると、彼は笑顔で頷いていた。心でも『川島も、可哀想になぁ。藤間ももうちょい何とかならないかね……』と考えていた。良い人だなぁ、と僕はこっそり思う。

 藤間の失言に嫌な気持ちになったが、言ってしまえばいつものことだ。

 彼が「金の無駄」とまで言った写真が、教室に届いたとき、空気は華やいだ。だれも「無駄だった」なんて思わなかった。

 残念ながら、辻本くんの言う「聞かなかったことにしてくれる」は微妙で、写真を見ながら、ちらちらと川島さんを見る生徒は多かったけれど。

 


 ある日の昼休み。

 ちょっとした事件が起きる。

 僕は時間を調整してお昼ご飯を食べているので、教室に戻ってくるとちょうどいい時間になる。教室は大多数の生徒が戻ってきており、ざわざわと賑やかだった。

 その中で、「あれ? 財布がない!」とよく通る声が聞こえた。 

 辻本くんだ。

 教室中に聞かせたいわけではないだろうが、彼の声は注目される。自然と、周りの生徒が彼を見た。

 辻本くんはちょっと怯んで、『大きな声出しすぎた……』と反省している。

「なに? 財布ないって、落とした?」

「どうしたの、辻村くん。大丈夫?」

 クラスの中心人物だけあって、彼が困っていると周りが声を掛ける。そして、彼らも本当に気にしているようだ。ポーズではない。

 辻本くんは頭を掻きながら、鞄を指差した。

「うん、財布が入ってなくてさ……。マジでどっか落としたかも」

「家に忘れて来たんじゃないの?」

「いや、朝、自販機でジュース買ったから。持ってきてはいるんだ」

「昼休みは? 購買とか行ってない?」

「行ってない。朝使って、それきり。だから、学校のどっかで落としたと思うんだけど……」

 外ではなく、学校で落とした可能性が高い。それがわかると、辻本くん含めて、少しだけ安堵が広がる。

 しかしすぐに、ほかの男子が苦言を呈した。

「でも、落としたんならまずいだろ。パクられるかもしれないし」

「うん、そうだよ辻本くん。大丈夫? お金たくさん入ってたりしない?」

 辻本くんは腕を組んで、思い出すように視線を宙に彷徨わせた。

 うーん、と唸ってから、目を瞑る。

「そんな額は入ってない、と思う。千円とか二千円とか。だから最悪、パクられても諦めはつくんだけど」

「やー、探しに行った方がいいだろ。拾われてないなら回収しなきゃだし、だれかが拾って届けてくれてるかも。落とし物入れ、見に行こう。財布探すんなら、手伝うしさ。あの茶色の二つ折りだろ?」

 ひとりがそう言うと、「しょうがない、手伝うわ」「わたしもいっしょに探すー」なんて何人も声を上げる。

 さすが、辻本くんは人望あるな……、と見ていると、彼も嬉しそうに笑った。

「お前らー! ありがとな! 見つかったらジュース奢るから!」

「大して金入ってないんだから、無理すんなって。赤字になるぞ」

 ほかの男子がそう言い、どっと笑いが起きる。明るくていい空気だ。

 次の授業まで間はないが、とにかく少しでも探しに行くらしい。

 しかし、いざ辻本くんが立ち上がったところで――、急に動きが止まった。

「……ん」

 不思議なことが起きる。

 辻本くんの頭の中は、財布を落とした焦りから、クラスメイトへの感謝の気持ちへと感情が移り変わっていた。考えていることは、口に出したこととほとんど同じだ。そこに嘘偽りはない。

 しかし、なぜかここに至って、彼の心の声が聞こえなくなる。

 ノイズが走り、聞こえていた声が遠くなっていく。

 ――彼は今、嘘を吐いたか、何か隠し事をしている。

「……あ、あー。やっぱ悪いから、ひとりで探すわ。それに、もう授業始まるしさ! 落とし物入れだけでも、今から見てくるけど」

 辻本くんは彼らに明るく言うと、返事を聞く前に教室を飛び出した。

 手伝う気満々だった彼らは、辻本くんの行動にぽかんとしていた。お互いに顔を見合わせている。

 しかし、やがて「きっと遠慮しているんだろう」と判断したようだ。特に気にすることなく、席に戻っていった。

 辻本くんが戻ってきたのは、始業のチャイムが鳴り終えた瞬間。

「セーフ!」と、教室に飛び込んでくる。肩で息をしていた。

「おー、辻本。財布見つかった?」

「いやー、それがなくてさー。落とし物入れにも入ってなかった」

 彼は大げさに肩を落としてみせる。

 しかし、すぐに「まぁあとで、また見に行くよ」と苦笑して、席に着いた。

 表情や立ち振る舞いが、いつもどおりに見えて少しずつ違う。 

 ノイズはずっと走ったままだった。



 その日の放課後。

 僕は日直だったので、教室で日誌を書き、それを提出がてらそのまま帰ろうとしていた。

 数人しか残っていない教室から出て、廊下を進む。

 放課後になった直後はとにかく人が多く、騒がしい廊下も今は静かだ。ほかの教室から漏れる声を聞きながら、窓の外を見る。遠くで吹奏楽部の演奏が響いていた。

 一階の職員室を目指していると、見覚えのある背中を見つける。長い黒髪が、夕陽の色に反射していた。

「灰桐さん」

 思わず声を掛けると、彼女はゆっくり振り返った。そんな何気ない仕草も、妙に絵になる。

「あぁ。佐々木くん」

 彼女は感情のない表情で、無感動な声で言う。これは僕が嫌われているわけではなく、彼女の平常運転だ。

 僕は灰桐さんに歩み寄りながら、口を開いた。

「灰桐さんは今帰り?」

「えぇ。佐々木くんは、日直かしら」

「うん。今から日誌を出しに行くんだ」

「そう」

 彼女は呟くように言うと、さっさと背を向けてしまった。そのままスタスタと歩いて行く。会話が発展するどころか、別れの挨拶もない。

「…………」

 彼女の素っ気ない対応を寂しく思わないでもないが、手ぶらの僕にはあんなものだ。多くを望んではいけない。むしろ、いくつか言葉を交わせただけでも儲けものだ。

 灰桐さんの気を惹ける話があれば、彼女は乗ってくれる。また探してこよう、とそっと決意した。

 気を取り直し、僕は職員室に入る。

 先にほかの女子生徒が入っていったので、それに続いた。

「失礼しまーす」

「失礼します」

 女子生徒が気だるげに挨拶をし、きょろきょろと周りを見回す。話しかけやすい先生を見つけたのか、その先生に向かって手を掲げた。

「せんせー、落とし物拾ったんですけど、どうすればいいですかー」

 その声で、思わず彼女の手を見る。

 辻本くんのことがあったからだ。

 彼女の手には、しっかりと財布が握られていた。茶色の二つ折り財布だ。

 クラスメイトの会話を思い出す。確か、彼の財布は茶色の二つ折りと言っていたような。あれは辻本くんの財布じゃないだろうか。

 そうは思うものの、ここで僕が声を掛けるのも変だ。ちらちらと様子を窺いつつ、本来の目的を果たすことにした。

 担任のデスクに向かうと、彼はちょうど電話をしていた。「はい、はい」と真面目な表情で受け答えをしている。僕が近付くと、「ちょっと待っててくれ」と手で合図してきた。

 担任の電話を待つ間、さっきの女子生徒を目で追う。

「あー、落とし物は藤間先生が担当だから。そっち持って行って」

 先生にそう言われた瞬間、女子生徒は「げっ」という顔をした。考えていることもそのままだ。やだなぁ……、と思いながら、彼女は藤間の机に寄っていく。

「せんせー……、これ、落とし物なんですけどー……」

 おそるおそる話しかけると、藤間は面倒くさそうに顔を上げた。あぁー……、と声を上げつつ、財布を受け取る。彼はそれをじろじろと見つめて、卓上のファイルを手に取った。

「財布ねえ。中いっぱい入ってた?」

 何気なく尋ねる藤間に、彼女はむっとして「中見てないんでわかりません」と答える。

「えー、本当に? 財布を拾って中見ないなんてありえるかなぁ。興味ないわけないじゃん」

 へらへらと言われ、女子生徒はうんざりした顔を作る。

 実際に、彼女は中を見ていない。あれは事実だ。なのに、あんな言い方をされれば、だれだって気を悪くする。

 けれど、藤間自身はただの雑談のつもりのようだ。全く気にしていない。

 彼はファイルを開くと、「どこで拾ったの?」と質問し、答えを書き込み始める。

 そこで、がちゃりと受話器を置く音が聞こえた。

 僕は視線を担任に戻す。

「おー、待たせて悪いな。日誌か?」

「はい。お願いします」

 事務的な対応で日誌を手渡した。日直の仕事は終わったので、僕は入り口に向かう。

 ゆっくりと歩き、横目に藤間を見た。

 既に女子生徒は出て行ったようだ。藤間はひとりで、財布の中身を検めている。中身を出して、それを紙に記載していた。

『これ別に、中身抜いたところでわからないよなぁ。高校生の財布なんてたかが知れてるけどさぁ』

 そんなことを考えている。教師が考えることじゃないな……、と思いながら、職員室を出た。

 職員室の前に設置されている、落とし物入れに目を向ける。

 扉の近くに机があり、その上に正方形のプラスチックケースが置かれている。大きさは一辺三十cmくらいで、ひょいと抱えられるほど。中は透けて見えるが、鍵が掛かっていて開きはしない。

 隣には、

『私物があった場合、藤間先生へ 持ち主が現れなければ一定期間の保管後、破棄します』

 と書かれた紙が貼ってある。

 僕は落とし物をしたことも、拾ったこともないため、今まで気にしたことはなかった。

 箱の中にはいくつか物が入っている。シャーペンや目薬、消しゴム、キーホルダーが並んでいる。見るからに、落とし主が現れなさそうなラインナップだ。

 まぁ、重要なものならすぐに取りに来るだろうし、これらは処分される運命なのだろう。箱はそれほど大きくないが、これで十分といった具合だ。

 どの落とし物にも、番号が書かれた付箋が貼ってある。

『十二』が最新の番号で、猫のキーホルダー付きの鍵が入っていた。これはすぐに落とし主が現れそうだ。

 おそらく辻本くんのものだろう財布は、十三番にあたるわけだ。

 見つかって良かったなー、なんて思いながら、僕は視線を外す。

 きっと彼が、明日にでも回収するに違いない。

 後日見て、まだ残っていたら本人に聞いてみることにしよう。

 その日はそう思うだけで、特に何かすることなく下校した。



 おかしなことになったのは、翌日の昼休み。

 普段どおりに弁当箱を持って教室を出る。普段と違うのは、飲み物を忘れたので自販機に寄ろうとしたこと。

 一階に下りていくと、気になる背中が見えた。灰桐さんだ。

 彼女は弁当箱と水筒を持って、廊下に立っていた。

 今日は外にでも行くのかな、それともこの辺りに目星をつけているのかな、と思っていたら、どうも様子が変だ。

 彼女は辺りを見回しながら、職員室の前をうろうろしている。

 どうしたんだろう。

 普通の人なら、その姿と表情を見れば、何をしているかは悟れる。だが、灰桐さんだけは、いくら見ても心の声は聞こえない。

 何か困っているとしたら、力になりたい。

 僕は彼女に声を掛けた。

「灰桐さん。どうかしたの?」

「あぁ。佐々木くん」

 灰桐さんはゆっくりとこちらを見る。無表情で僕の名前を口にした。

「実は昨日、家の鍵を落としてしまって。おそらく、学校で落としたと思うのだけれど」

 灰桐さんも落とし物らしい。そういえば、辻本くんはちゃんと財布を回収できたのだろうか。そんなことを考えながら、僕は返答する。

「それは大変だ……。昨日は大丈夫だったの?」

「えぇ、昨日のところは。でもまだ見つかっていなくて。それで今日は、だれかが届けてくれていないか、確認しに来たの」

 僕は昨日見た光景を思い浮かべる。透明なケースの中に、確か鍵が入っていた。

「それって猫のキーホルダーが付いているやつ?」

 僕が尋ねると、灰桐さんが瞬きをした。「えぇ」と頷く。

 あれは灰桐さんの物だったようだ。意外とかわいいキーホルダーを付けている。猫が好きなのだろうか? 

 僕は、なぜ知っているのかを説明した。

「昨日、落とし物入れに入ってたよ。僕が見たときは、一番新しい落とし物だった。昨日の時点で、だれか拾ってくれたんじゃない? 確認するといいよ」

「あぁ、そうなの。届けられていたのね。それはありがたいけれど」

 けれど? 何か問題があるんだろうか。

 灰桐さんは僕から視線を外すと、職員室に目を向けた。そこから、視線を左右に行ったり来たりさせる。どこかに定まることなく、彼女はぼそりと呟いた。

「その落とし物入れは、どこにあるのかしら」

「あれ?」

 なかった。

 昨日まであったプラスチックケースが、忽然と姿を消している。

 元あった場所には、机と貼り紙だけが残されていた。大事な落とし物入れだけがなくなっていて、気の抜ける光景になっている。

 僕は机に近付いてまじまじと見つめるが、それで姿を現すわけもない。

「おかしいな。昨日まであったんだけど。先生が移動させたのかな」

「そうかもしれないわね。間の悪いことで。訊いたらわかるでしょう」

 灰桐さんは職員室の扉を開ける。

 無関係の僕はここで別れるべきだったのだが、思わず彼女についていってしまった。ふたりして職員室に入ったところで、うっかりに気付く。しかし、ここで回れ右するのもそれはそれで不自然で、おずおずと彼女の後ろを歩いた。

「先生」

「ん?」

 藤間は自分の机でお昼ご飯を食べていた。

 何やら匂いを感じるな、と思ったけれど、彼がカップ焼きそばを口いっぱいに頬張っている。また臭いの強いものを。向かいの机で、若い先生が白い目で見ているぞ。

「……なに? 何か用?」

「………………?」

 藤間は灰桐さんに応答したが、その前に一瞬の間があった。眉の動き、視線の移動、唇の緩み。『あぁ、この子は』と妙な反応をしている。

 しかし、それは一瞬のことで、すぐに『昼休み中に来るなよ。せっかくご飯食べてるのに』と面倒くさそうにしていた。というか、それなりに顔にも出ている。

 もちろん灰桐さんは全く気にせず、淡々と問いかけた。

「先生は、落とし物の担当ですよね」

「あぁ、そうだよ。何か落とし物拾った?」

「そうではなくて、回収しに来ました。けれど、落とし物入れがなくなっています」

 ファイルを取り出しかけた藤間だが、おかしな表情で動きを止める。

 眉をひそめて答えた。

「なくなっているって、どういうこと? あ、あとなに落としたの」

「鍵です。なくなっているというのは、言葉どおり。落とし物入れが、いつも置いてある場所にないです。机と張り紙は残っていますが」

 彼はその言葉には返事せず、ファイルを開いた。紙を指でなぞる。

 該当の場所を見つけたようで、指で紙を叩いた。

「うん。鍵、あるね。昨日、届けられたばかり。何か特徴言える?」

「猫のキーホルダーが付いています」

「うん、そうだね。合ってる。でも、落とし物入れがないって? えー、僕は何も聞いてないけどなあ。ほかの先生が移動させたのかな? 聞いておくから、またあとで来なよ」

「…………」

 藤間はそれだけ言うと、僕たちがいるにも関わらず、お昼ご飯に戻ってしまった。

 灰桐さんは冷ややかな目で見下ろしていたが、当の藤間は『あぁ、ちょっと冷めてる。せっかくの昼休みを邪魔しないでほしいなぁ』とこっちはこっちで不機嫌だった。

 今言ったところで、決して彼は動いてくれないだろう。それは灰桐さんもわかっているようだ。踵を返す。僕もそれに続いた。

 廊下に出ると、灰桐さんは何もない机に目を向ける。

「……担当の教師に何も言わず、移動させるなんてことあるのかしら」

「え? あぁ……、どうなんだろう」

 改めて彼女に言われると、考えにくい状況だとは思う。藤間のいい加減さに目を奪われたせいで、考えが及ばなかったけれど。

 灰桐さんは机に手を触れ、その目を細めた。

「しかも、落とし物入れだけを移動させるなんて。机も貼り紙もそのままだったら、関係のある生徒が混乱するでしょう」

 彼女の淡々とした口調に、事の次第を徐々に理解してくる。

 確かに、移動なりなんなりするにしても、何もかもが中途半端だ。さすがにいい加減すぎる。藤間のやったことなら理解もできるが、彼はこのことを知らないらしい。

「確認したけれど、職員室の中にそれらしき物も見当たらなかったわ」

 どうやら、あの短い時間で探していたらしい。抜け目のない人だ。

 そんな彼女がこう続けるのだから、その違和感はさらに強くなる。

「生徒の私物が入った箱を、だれかが持ち去った。しかも、職員室以外の場所に。担当の教師には、何の報告もなく。明らかにおかしいわ」

 灰桐さんの口ぶりから、あることを想定してしまう。

「……だれかが、盗んだってこと?」

「それはわからない。でも、何かしらの意図を感じる。断言してもいい。藤間がほかの先生に訊いたところで、きっと落とし物入れの行方はわからない」

「………………」

 普通なら考えすぎ、とか疑いすぎ、だとか思うかもしれない。けれど、とても笑う気にはならなかった。こんなとき、灰桐さんは予想を外さない。

 彼女がそう言うのだから、きっとそうなのだろう。

 僕もこの状況には違和感を覚えている。「落とし物入れだから」と軽く考えていたが、あの中には、生徒の財布や鍵が入っているのだ。しかも、周りに見える形で。

 何か良くないことが起こっている可能性はあるし、落とした本人は気が気でない。

 藤間に訴えたいところだが、彼に言ったところで無駄な気もする。

 うーん、と考え込み、何となく視線を外に向けた。

 すると、そこに辻本くんを見つけた。いつもだれかに囲まれているのに、今日はひとりだ。ひとりで中庭をうろうろしていた。

 一階は渡り廊下と体育館が繋がっている。廊下の奥を抜けると、そのまま渡り廊下になっている。扉もいつも開けっ放しだ。渡り廊下から中庭に進むこともできる。石畳になっているため、上靴のまま出ることを許されていた。

 過ごしやすい季節なら、中庭で昼食をとる生徒もよく見られる。そのためのベンチもあるくらいだ。花壇や木々は手入れされていて気持ちがいい。端に倉庫があるくらいでほかには何もなく、広々と使えた。聞くところによると、どこかの生徒がシートを持ち込んで、ピクニックもどきをするくらいだとか。

 ……僕は使ったことないけれど。

 灰桐さんが中庭で食べている姿は、何度か見掛けたことがある。

 そして、辻本くんも。彼はたくさんの生徒に囲まれて、だが。

 けれど、今はひとり。中庭を俯いて歩いている。ゆっくりとした速度だが、視線は忙しなく動いていた。いろんな箇所に目を向けている。

 僕じゃなくてもわかる。何か探し物をしているのだ。『ないなぁ……、ない……』と心の声も響いてくる。

 昨日の財布か。

 しかし、あそこには落ちていない。僕は昨日、落とし物として届けられる様を見ている。彼の今の行動は、完全に徒労だ。

 僕は窓を開けて、「辻本くん!」と声を掛けた。彼はびくっとして、こちらを見る。

 僕はそこで面食らった。彼の心の声に、急にノイズが走り始めたのだ。昨日と同じだ。隠し事をしている。

 彼は、自分の落とし物をそれほど隠したいんだろうか……?

 怯みつつも、やることは変わらない。伝えなくてはならない。

「辻本くん、財布探してるの?」

「財布?」

 彼は怪訝な表情で軽く首を傾げる。

「昨日、落としていたでしょ?」

「え? あ、あぁ! そうだよ、そう。落としちゃって」

 彼はぎこちなく笑う。

 その反応には引っかかるが、彼の声は変わらずノイズまみれだ。考えはわからない。

 彼はばつが悪そうに窓に近付いてくる。そこで、はっとした。僕の後ろにいた灰桐さんを見たからだ。

 けれど、すぐに取り繕う。笑顔で僕に目を向けた。

「この辺りに落としたのかもしれなくてさ。だから、今探してて」

 辻本くんは、普段どおりの爽やかな笑みを浮かべている。

 彼が何を隠しているかは知らないが、とにかく今の状況を伝えることにした。

「辻本くんの財布って、茶色の二つ折りだよね? 昨日の放課後、職員室に届けてくれた人がいたよ。僕は日直だったから、ちょうど見てて」

「あ、あぁ。そうなのか。それはありがたいな」

「でも今、落とし物入れがどこにもないんだ。なくなってる。落とし物担当の先生に訊いたら、ほかの先生に確認するとは言ってるんだけど。だから、辻本くんの財布は届いてるけど、今は回収できないんだ」

「なんだ、そうなのか……。あぁでも、届いているってわかったら、安心したよ。ありがとうな」

 辻本くんはにこやかに笑った。彼の心の声が聞こえないのは気になるが、考えたところでしょうがない。

 彼は探す必要がないなら戻る、と言って、教室に帰っていった。

 僕が振り返ると、灰桐さんがその場にまだ残っていた。少しだけ意外に思う。辻本くんが見えたから思わず声を掛けたが、灰桐さんは今の話に付き合う義理はない。

 彼女はこういうとき、何の遠慮もなく立ち去るタイプなのだけれど……。

「妙ね」

 彼女はぽつりとこぼした。

「あぁ、落とし物入れの話?」

「そうじゃない。彼のことよ」

「辻本くんが? 別におかしなことはなかったと思うけど……」

「そうは言うけど、佐々木くん。彼の心の声は、聞こえてなかったんじゃない」

「…………」

 鋭い。

 そう判断したのは、僕の反応からか、それとも辻本くんの様子からか。

 灰桐さんは外に目を向け、静かに口を開く。

「詳細はわからないけど、彼は昨日、落とし物をしたんでしょう。そして今、それを探していた。だったら、真っ先に落とし物入れを確認するはずでしょう?」

「……あ」

 言われてみれば、そうだ。

 僕は探し物をしている彼に、「財布は落とし物として届いていた」と伝えた。そして、彼は、「そうだったのか」と答えた。

 けれど、普通は先に「落とし物として届いているか」を確認して、闇雲に探すのはそのあとだろう。

 昨日はちゃんと、その手順を踏んでいたのに。

「なんで確認しなかったんだろう……?」

 僕の独り言のような問いに、灰桐さんも独り言のように答えた。

「そこに財布がないことをあらかじめ知っていた……、とか」

「え。なにそれ、どういうこと?」

 僕が灰桐さんを見ると、彼女は深い色の瞳をこちらに向けた。綺麗な目だ。それに意識が持っていかれそうになったところで、彼女は呟く。

「佐々木くん。時間はある? 詳細を教えてほしいの」

 灰桐さんは自分の弁当箱を掲げた。その瞬間、僕の背筋が伸びそうになる。

 彼女からお昼を誘われるなんて。

 舞い上がるのを抑えながら、同時に湧いた疑問を彼女にぶつけた。

「ということは、灰桐さん。これは」

「えぇ。退屈しのぎになるかもしれない」

 小さく頷く。ほんの少しだけ、目の光が強くなったように見えた。

 そして、こうも続ける。

「わたしの鍵も、取り戻さないといけないし」




 昼食の場は、美術室が選ばれた。

 欠けた擦りガラスから中を確認し、だれもいなかったので扉を蹴って鍵を開けた。聞くところに寄ると、灰桐さんはたまにここを利用しているらしい。

 今のところ、梶木と鉢合わせはしていないとのこと。

 あの事件後はひどいものだったが、今はさすがに修復されている。明らかに壁の色合いが違うが、火事があった痕跡は薄れていた。今では時折、だれかが気まぐれに口にするだけで、あの火事は完全に過去のものとなっていた。

 僕と灰桐さんは奥の机に座り、そこで弁当箱を開く。

 黙々と食べる準備を整えていると、飲み物がないことに気付いた。自販機で買ってくるつもりだったのに、話に夢中ですっかり忘れていた。

 今から買いに行こうにも、時間はあまり残っていない。灰桐さんに話をしないといけないし、諦めるしかなさそうだ。

「どうしたの」

 顔に出ていたのか、灰桐さんに問われてしまう。隠しても仕方ないので、さっと答えた。

「あぁ、えっと。お茶買うの忘れちゃったから」

 彼女は無言で水筒を開けて、コップに注ぐ。

 ちょうど僕と灰桐さんの間に、ことんと置かれた。

「よかったらどうぞ。使いまわしで悪いけれど」

「え、あ、あぁうん。ありがとう」

 思わぬ心遣いに心臓が跳ねる。

 まさか、灰桐さんがそんなことを言ってくれるとは思わなかった。ご厚意に甘えたいが、こんなに綺麗な人とコップの使いまわしは緊張する。

「それで、佐々木くん。さっきの彼が落とし物をしたっていう話、詳細を教えてくれるかしら」

 彼女に催促され、僕は洗いざらい話した。

 彼が昨日の昼休み、「財布を落とした」と言い始めた一連の流れ。

 僕が昨日、職員室の中で見て聞いた出来事。

 僕にはどうでもいいことでも、何が彼女のヒントになるかわからない。できるだけ漏らさず伝えた。

 僕の話を聞き終えると、彼女はしばらく黙り込む。

 僕はその間に、さっさと自分のお弁当を口の中に詰め込んだ。

「やっぱり妙よね」

 彼女は机に視線を向けたまま、ゆっくりと言う。

「彼は、佐々木くんに『財布を探してるのか』と問われて、意外そうな顔をしてわよね」

「ん。まぁ、そうだね」

 辻本くんの顔を思い浮かべる。きょとんとした顔で「財布?」と答えていた。

「あの反応は、『財布を探していたこと』が完全に過去のものになったからこそ、できる反応だと思う。彼は、財布を探していたことを忘れていた。なぜなら、それはもう済んだことだから。そう思わない?」

 そう説明されると、あの反応はしっくりとくる。

 少なくとも、現在進行形で財布を探している人が、「財布を探しているの?」と問われ、なんで? といった表情は作らないだろう。

「彼は、落とし物入れを確認しなかった。なぜなら、そこに財布がないことを知っていたから。つまり、彼はもう財布を回収したのかもしれない」

「あぁ……、昨日、僕が見たあと、辻本くんが取りに来たってこと?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

 彼女の言い回しは含みがあるが、僕は自分の疑問を優先させた。

「でも、それじゃおかしくない? もう財布を受け取ってるなら、僕の質問にあんなふうに答えないでしょ。財布は見つかった、って言うはずだよ。それに、財布が見つかっているなら、あんなふうに探す必要もないし」

「……………………」

 僕の疑問に、彼女は答えない。自身の長い髪を、指にくるくると巻き付けている。

 無秩序に疑問をぶつけはしたけど、妙なことになっているのは僕も感じていた。不可解な点が続いている。

 謎がある。灰桐さんはそれに興味を惹かれている。

 あの場には、彼女が惹かれる謎があるのだ。

 彼女の退屈しのぎに貢献できるなら、僕は努力を惜しむつもりはない。

 僕はコップを手に取り、ありがたくお茶を頂戴する。人心地ついていると、彼女は疑問を口にした。

「彼は、何を探していたのか」

 財布……、ではないのだろう。彼女の言葉を信じるなら。

 しかし、二連続で物を落とすというのも、考えづらくはある。

 一体、彼の行動は何だったのか。

「そして、妙なのは彼がひとりで探していたこと」

 彼女はコップに手を伸ばす。

 お茶を注ぎながら、僕に問いかけた。

「何か探し物をしていたとして。昼休みになって、彼はひとりで探しに来た。昨日の財布と同じく、ひとりで。クラスメイトの手伝いをまた断ったのかもしれない。彼は、そこまで友人に遠慮をする人なのかしら」

「いや……、そんなことないと思う。友達ならむしろ助け合うって感じで、お互いに頼るタイプの人だと思う。実際に昨日、彼は直前までクラスメイトに手伝ってもらうつもりだった」

 印象的だったから、よく覚えている。

 彼は手伝ってもらうことに遠慮しなかったし、周りも気を遣ってなかった。非常にいい空気で、辻本くんの人望がよくわかる光景だった。

 しかし、突然ノイズが走って心が読めなくなり、彼は手伝いを断ってしまった。

 彼が何を探しているかはわからない。

 けれど、昨日と同じく、友人に手伝われると困るものなのだろう。

「手伝われると困る。見られると困る? 財布をほかの人に拾われたくなかったのか……。とにかく、何かしらの理由があった。今回の探し物もそう。人に手伝われると、彼自身が困ってしまう」

 灰桐さんはそこでお茶をぐいっと飲み、空のコップを机に置いた。

「それは、一体なぜ?」

 そこまでは、さすがに灰桐さんでもわからないようだ。

 情報が足りない、と彼女は呟く。そして、灰桐さんはゆっくりとこちらを向いた。

「佐々木くん。情報が欲しい。手伝ってくれる?」

 僕に断る理由はなかった。



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