第4話

 翌日の放課後。

 僕たちは昨日と同じく、美術室の前に来ていた。

 これからのことを思うと、僕はどうしても緊張する。けれど、灰桐さんはどこ吹く風だ。全く躊躇もなく、扉を蹴り飛ばす。

 ガタガタ、と嫌な音を立ててから、古い扉は動きを止めた。灰桐さんが手を掛けると、建付けの悪さを主張しながらも開く。

 美術室の中は、昨日と変わらない。

 火事跡も、中にいる人も、同じだ。

「おや。連日でやってくるなんて、やけに熱心だね。そんなに火事が気になる?」

 そう声を掛けてきたのは、今日も絵を描いていた梶木だ。

 灰桐さんにはにこやかに笑いかけ、まるで僕は見えていないかのよう。

 しかし、友好的な態度を見せつつも、彼の心の声にはノイズがかかっていた。灰桐さんへの警戒を解いてはいない。

 彼は隠し事を続けるようだし、必要なら嘘も吐くだろう。

 梶木は昨日と同じ位置で、絵を描いている。まだ放課後になって間がないというのに、既に彼の周りは散らかっていた。床には丸めた紙と絵具がこぼれ落ち、放置されている。

「今日は、あなたに用があるの」

 灰桐さんが静かに言い放つと、梶木の表情がきょとんとしたものになった。

 しかし、すぐに「えー、なんだろうなぁ」と笑みを浮かべる。下品な笑顔にならないよう堪えているが、あまり効果はなかった。

 灰桐さんがそう言った瞬間、ノイズが一気に晴れて、彼の心の声がなだれ込んでくる。

『なんだよ。やっぱり素っ気ない態度はふりだったわけね。昨日色々と聞いて来たのも、気を惹こうってわけかな。それとも、単に話したかった?』

 ……はしゃいでいる。うるさいくらい声が聞こえるので、僕は思わず目を瞑ってしまう。浮き立っているのが透けて見えて、こちらの方が落ち着かない。

 僕はハラハラとした心持ちだった。灰桐さんは本当に彼に気があるのかも……、と心配しているわけではなく、単にどうなるかわからないからだ。

 今からするのは、答え合わせ。

 灰桐さんの考えた仮説が正しいかどうか、確認しに来ている。

 結局僕は、灰桐さんから何も教えてもらっていない。謎は謎のまま、この場に来ている。「わざわざ二回説明するのは面倒だから」ということらしいが、何も知らずにこの場にいるのは心臓に悪かった。

 どういう展開になるのか、一切読めないからだ。

「それで、僕に用って一体なに? わざわざ来てくれるくらいだから、楽しい話なんだろうね」

「いいえ、そんなことはないわ。退屈で仕方がない話よ」

 冗談めかして言う梶木に、灰桐さんは冷たく言い返す。

 昨日の灰桐さんは、まだ機嫌がよかった。

 自分の退屈がまぎれるかもしれない、と期待していたからだ。けれど、事件の真相はもう見通してしまった。結果にも納得いかないでいる。退屈がまぎれなかったことを、不満に思っている。

 灰桐さんは彼に配慮する気など全くない。答え合わせをして、さっさとこの話に幕を閉じようとしていた。

「わたしがここに来たのは、あの火事の話をするためよ」

「…………」

 灰桐さんがそう口にすると、露骨なくらい彼が無表情になった。

 途端、心の声は聞こえなくなり、うるさいノイズが走り出す。心を閉ざした、とすぐにわかった。

「……君も好きだね。確かに、それは退屈な話かもね。バカな不良がボヤ騒ぎを起こした。ただそれだけの話だと思うんだけど」

 梶木は苦笑いを浮かべながら、顎を指で擦る。手についた絵具が付着したのか、顎が汚れる。それに気付かず、彼は絵を描く作業に戻った。

 キャンバスに目を向けながら、素っ気なく彼は続ける。

「それで? なんで僕に用なのかな? 昨日みたいに、何か聞きたいことでも?」

「いいえ」

 灰桐さんは軽く首を振り、淡々と続ける。

「今日は、ただの答え合わせだから。わたしの話を聞いて、違っていたら違うって言ってくれればいいわ」

 何も期待などしていない、と言った目で、彼女は梶木を見下ろす。

 梶木の目はキャンバスに向いているため、灰桐さんを見ていない。しかし、それが幸福だと思う。ぞっとするほど冷たい目だったからだ。

 彼女は、退屈そうに口を開いた。

「後藤たちが起こしたとされる、あのボヤ騒ぎ。後藤たちが美術室で煙草を吸い、その吸殻をゴミ箱に捨て、ゴミ箱から出火。そして、美術室は今このような状態になっている。後藤たちの処分は停学か、退学か。このまま放っておけば、きちんとした処分を受けるでしょうね」

「それが妥当だろう。あいつらはそれだけ、バカなことをしたんだから」

 梶木は嘲笑する。それに灰桐さんは取り合わない。

 それどころか、一気に踏み込んだ。

「火事を起こしたのは、あなたね」

 突然の直球に、梶木はたいそう驚いたことだろう。しかし、それは僕も同じだ。物凄く驚いた。

 今日、灰桐さんがどんな話運びをするのか、それすらも聞いていない。

 そして、灰桐さんが梶木を犯人だと断じていることも。

 僕も昨日、同じように彼を疑いはした。自作自演や事故の擦り付けを考えたが、彼女に否定され、そしてそれは納得に足る理由だった。

 さらに言えば、灰桐さんの前だからこそ言える、無責任な推測でしかなかった。

 あのときから大して情報は増えてないのに、灰桐さんは梶木を犯人だと決めている。断定している。灰桐さんがいい加減なことを言う人じゃないのは、僕はよく知っていた。

 彼女は、既に何かを掴んでいるのだ。

 梶木は動きを止めて、一度、灰桐さんを見た。そして、すぐに噴き出す。

 大げさなくらいに肩を竦め、話にならない、とばかりに頭を振った。どれもやけにパフォーマンスじみて見えた。

「何を言うかと思えば、面白いことを言うね。僕があの火事を起こした? 言っておくけど、僕は一番の被害者だと思うよ。今、ここでこうしているのが理由だ」

 梶木は筆とパレットを持ち上げ、ひらひらさせてアピールする。

「あの火事のせいで、僕はこそこそ絵を描く羽目になっている。〆切に追われているコンクール用の絵を、こんなふうに描かなければならない。これが、僕が望んだ状況だとでも言うのか?」

 ふん、と鼻を鳴らす。その声には苛立ちが垣間見えた。

 そうだ。理由がわからない。彼が火事を起こす動機が見えない。

 灰桐さんは軽く首を振り、答えた。

「あの火事は、意図的に起こしたことじゃない。偶発的に起きたこと。事故と言ってもいい。けれど、その原因はあなた。あなたが火事を引き起こし、そして、その罪を後藤たちに擦り付けたの」

「はあ?」

 はっきりと犯人扱いされ、今度こそ梶木は不快そうに顔を歪めた。

 筆を机に放り投げる。筆はそのまま跳ねて転がり、床へ落ちていった。筆に着いた油絵具が床を汚す。

 梶木は、じろりと灰桐さんを睨み付けた。

「君はおかしなことを言うなぁ。あの火事が僕のせいで、しかも偶発的? 美術室でどうやって火事が起きるって言うんだよ。まさか、僕が後藤たちみたいに煙草を吸っていた……、なんてつまらないことは言わないでくれよ?」

 挑発するように、梶木は語気を強める。

 梶木が言っていることは、まさしく僕が灰桐さんから否定されたことだ。

 彼は煙草を吸っていない。煙草以外のことが原因で、火事が起きている。

 そんなこと、ありえるのか……?

 僕が灰桐さんをじっと見つめていると、彼女はぽつぽつと語った。

「それは、あとで話すわ。わかりやすく、時系列順に話していきたいから」

 その言葉に、梶木は顔をカッと赤くさせた。コケにされたとでも思ったのか、顔を怒りに染めて、立ち上がろうとする。

 だが、途中で冷静になったらしい。ここで取り乱すのはみっともない、とでも感じたのか、つまらなそうに前を向く。投げやりに筆を拾い上げ、絵に向かい合った。

 僕は密かにほっとする。暴力的な空気は苦手だ。

 灰桐さんは特に何も感じていないようで、そのまま淡々と話を進めた。

「そうね――、まずは火事が起きたときの、昼休みの話をしましょう。知ってのとおり、昼休みの美術室で火事が起きた。ゴミ箱から出火し、それがわたしたちの前で燃え広がりそうになったところで、あなたや佐野先生が来て、火は消し止められた」

 一拍を置いてから、話を進める。

「そのあと、あなたが『事件当日の昼休み、後藤たちは美術室で喫煙していた』と証言した。さらに、ほかの美術部員を引き連れて、『後藤たちは、日頃から美術室で喫煙していた』と証言を重ねた。そこまではいいわね?」

 灰桐さんの言葉に、梶木は「あぁ、君の言うとおりだよ。ひとつも間違っちゃいないね。素晴らしいよ」と皮肉げに答える。

 筆は動かしているが、作業は一向に進んでいない。

「しかし、後藤たちは『事件当日、美術室には行っていない』と証言しているの」

 灰桐さんがさらりと言うと、梶木はバカにしたような笑い声をあげた。

 そして、灰桐さんを上から下に無遠慮に見つめる。

「後藤たちが『行ってない』と言っているから、それを信じるって? おいおい、冗談だろ。僕より、あんな不良たちを信じるって? 頭おかしいんじゃないの。なに、もしかして君、あのバカどもの女とか? 身の潔白を晴らすために、動いてるとか? だとしたら、あまりにも哀れだな。心底軽蔑するよ」

 怒りや憐憫、様々な感情をにじませながら、彼はまくしたてる。どこまで本気なのか、今の僕にはわからない。何にせよ、彼は灰桐さんのことを不愉快に思っている。

 確かに、今の発言は梶木じゃなくても、おかしく感じると思う。

 灰桐さんが後藤たちの証言を信じられるのは、僕の体質を知っているからだ。それがなければ、決してこんなことは言わない。

 この事件を、事件だとも思わなかっただろう。

 灰桐さんが何も言わずに、じっと見つめていると、梶木は黙り込んだ。灰桐さんが無言でいれば、それだけで威圧感がある。

 あれだけ煽ったくせに色気を残したいのか、「いやまぁ、冗談だよ。どうぞ、続けて」なんて澄まし顔をしていた。

 灰桐さんは言われなくても続けただろうが、そのまま口を開く。

「後藤たちは行っていなくとも、あなたは昼休みにここを訪れた。昨日も言っていたわよね、昼休みに美術室へ来たと。あなたは後藤たちがいたと証言していたけど、実際にはいなかった。代わりに、ゴミ箱から上がった火を見つけたの」

「………………」

 灰桐さんは話を進めるが、梶木は何も返さない。

 筆を動かしながら、好きに話せばいい、といった姿勢を作っている。しかし、意識は完全にこちらに向いていた。

 梶木の代わりのつもりはないが、自然と僕が相槌を口にする。

「彼が来た時点で、既に火事は起きていた、ってこと?」

 灰桐さんも自然と、僕の言葉に頷く。

「そういうことになるわ。そして、その火事の原因は、彼の不手際に寄るもの。ゴミ箱が燃えているのを見た彼は、すぐさま自身が原因であることを悟った。同時に、まずい、とも思った。自分のせいで火事が起きたんですもの、焦りもするわよね」

 彼女が先ほども口にした、偶発的に起きた火災。事故。

 その責任が梶木にあるのなら、彼は然るべき罰を受ける。後藤たちほどじゃないにせよ、何らかの処罰はきっとある。

「そこで彼は、自分の過失を隠蔽しようとした」

 ぽそり、と彼女は言う。

「彼が考えたのは、後藤たちに罪を擦り付けること。彼らが美術室で煙草を吸っているのは、美術部では周知の事実。後押しをするだけで、彼らのせいにできると思ったのね。事実、今現在、だれもがあの火事は後藤たちがやった、と思い込んでいる」

 彼女の言葉に、僕は閃く。

 僕たちが火事の原因だと信じて疑わなかった、あれだ。

「……もしかして、吸殻を使った?」

 僕の問いに、灰桐さんはこくりと頷く。

「ゴミ箱の中に、ひとつ吸殻を入れておくだけで、あとは勝手に後藤たちが犯人扱いされる。だれもゴミ箱に捨てる瞬間なんて見ていないのに、その吸殻は後藤たちが捨てたんだ、って決めつける」

 そこで彼女は、視線をゴミ箱に移した。

 軽く眉をひそめながら、ぽつりと呟く。

「世の中には、想像を絶するほど頭の悪い人は存在する。信じられない愚か者もいる。わたしたちは、後藤たちがそうだと決めつけていたの。……普通に考えれば、ゴミ箱に煙草の吸殻なんて、捨てるはずないわよね」

「……まぁ、そうだね」

 言われてみれば、そのとおりだ。

 ゴミ箱に吸殻を捨てるなんて、普通に考えればありえない。火事になるリスクも、学校側にバレるリスクも大いにある。そうする理由が全くない。

 けれど、信じられないほどバカな人は、これまた存在するのだ。

 僕たちは後藤たちが、その考えなしだと思い込んでいた。

 彼らは「ゴミ箱になんて捨てるわけがない」と主張していたのに。

「じゃあ、灰桐さん。ゴミ箱から見つかった吸殻っていうのは」

 後藤たちが捨てていた吸殻。

 昨日見たばかりの、紙に包まれた吸殻を思い出す。

 僕の言葉に、灰桐さんは頷く。視線を窓に移した。

「そう。敷地の外には、後藤たちの吸殻が大量にある。それをひとつ拝借して、ゴミ箱に入れてしまえば、あとは罪を擦り付けられる。彼はそう考えた」

 僕は梶木を見る。

 梶木は無表情で絵を見つめており、何の反応もない。反論する様子も、認める様子もなかった。相変わらずノイズばかりで、何を考えているかわからない。

 灰桐さんは反応を求めているわけではないようで、気にせず話を進めた。

「だから彼は、火事を確認後、後藤たちの吸殻を回収しに行った。旧校舎から出て、土手に向かい、吸殻を回収して戻ってくる。あとはそれを、ゴミ箱に入れればいいだけ」

「おいおい、待ってくれよ」

 そこでようやく、梶木が口を挟んだ。

 口元には笑みを浮かべているが、それが引き攣っている。

 そのことに気付いているかはわからないが、彼は笑顔のまま反論を述べた。

「本当に好き勝手に言ってくれるね。何から何までおかしな妄想をさ。それで犯人にされるなんて、堪ったものじゃないんだけど」

「なら、どこまでが事実で、どこまでが妄想?」

 灰桐さんが間髪を入れずに、鋭く問いかける。

 何かを言いかけていた梶木は、言葉に詰まった。こちらの様子を窺い、それこそ下手なことを言わないよう警戒している。そんなふうに見えた。

 一度、大きく息を吸い込んだあと、ゆっくりと口を開く。

「……確かに、僕は。火事の現場を見た。そして、すぐに外に向かった。そこまでは君の言うとおりだ。だけどそれは、助けを求めるためだ。先生を呼ぶため。吸殻を拾うためなんかじゃない」

「なら、なぜあなたは外に向かったの? 職員室なら、渡り廊下を突っ切ればいい。わざわざ外に出る必要なんてないでしょう?」

「………………」

 梶木はこちらを睨みつける。灰桐さんはそんな視線に怯むことなく、真っ向から視線を返した。

 梶木は黙り込んでいたが、ふぅ、と大きく息を吐く。

 わざとらしいくらいに明るい声を出した。

「いやいや、よく考えてくれよ。僕は火事を目の当たりにして、何とかしなきゃって考えてたんだ。でも、そんな状況じゃまともな判断なんてできないだろう? 冷静じゃなかった。パニクってた。ただそれだけ。だから、思わず外に飛び出したんだ」

「いえ、あなたは冷静だったわ」

 ぴしゃりと灰桐さんは言い切る。

 梶木は面食らって反論しようとしたが、それよりも早くに灰桐さんが言葉を繋げた。

「あなたは土手に行った。佐野先生に助けを求めたのは、そうせざるを得なくなっただけでしょう? あなたは吸殻を拾いに行く途中――ではなく、帰りに佐野先生とばったり会ってしまったから」

「――――」

 梶木は、灰桐さんの顔をまじまじと見つめた。言葉は何も出てこず、真っ白な顔色で固まっている。

 灰桐さんはさらに言葉を重ねた。

「一番まずいところを見られたわよね。万が一にも、あなたは何をしていたか悟られたくない。訊かれたくない。『なぜ、土手に行く必要があったんだ』と追及されたら、とても困るわ。だから急遽、人を呼びに行ったことにして、佐野先生に助けを求めた。あなたの機転が利いて、先生は不審だとは思っていない。けれど、あなたがあのとき、土手の方からやってきたことはちゃんと覚えている」

 灰桐さんは、そこで僕にちらりと視線を寄越した。

 僕は昨日、佐野先生と会ったときのことを思い出す。

 僕たちふたりを見て、確かにこう考えていたはずだ。

「……土手から来た僕たちを見て、このふたり『も』、あっちから来たのか、って考え……、いや、言ってた」

「そう。佐野先生は覚えている。きっと、きちんと尋ねれば、あなたが土手からやってきたことを証言してくれる。……それで、訊くけど。あなたはなぜ、あんな場所に向かっていたの? 助けを求めに行った、っていうのは通らないわよ」

「………………」

 梶木は黙り込んでしまう。何も答えず、唇を引き結んでいた。

 認めたようなものだろう。しかし、そうなると、僕の方が疑問にぶつかる。思わず、灰桐さんに問いかけた。

「いやでも、待って灰桐さん。その順番だとおかしい」

「どうして?」

 僕の異論に気を悪くしたらどうしよう、と危惧したが、思ったよりも優しい声色だった。ほっとしつつ、素直に疑問を口にする。

「彼が吸殻を回収しても、入れるタイミングがない。彼が戻ってきたとき、既に僕たち野次馬が現場を取り囲んでいた。消火したあとに入れても、煙草は一切燃えてないんだから、不自然になる。吸殻を入れるっていうのは、難しいんじゃ……?」

 灰桐さんの邪魔をしたいわけではないが、どうにも気になった。おかしく感じる。

 灰桐さんは僕の目を見たまま、ゆっくりと答えた。

「それは簡単ね。彼はわたしたちの目の前で、吸殻を入れたのよ」

「え」

 思わず、梶木を見る。彼がびくりと身体を揺するのが見えた。

「佐々木くん。わたしたちの前で、彼が消火活動をしていたわね。なんだか、おかしいとは思わなかった?」

 言われて、あのときの状況を思い出す。

 あのとき感じたことを思い出す。

 梶木はブレザーを脱いで、それをゴミ箱に叩きつけて消火しようとしていた。

「……あれじゃ、消すのは無理だろうって思った」

「そうね。ゴミ箱の中にある火種を、ゴミ箱の外から叩いて消えるわけがない。でも、それでよかった。消火が目的ではなかったから。火種にさえ近付ければ、理由は何でもよかったのよ。そして彼は、ゴミ箱の前で妙な動きをしていたでしょう?」

 言われて記憶が呼び起こされる。

 確かに彼は、火に近付いたはいいものの、なかなか消火しようとはせず、まごまごした動きを見せていた。

 僕はてっきり、火を目の前にして怯んでいるのかと思っていたが……。

「……あそこで、吸殻を放り投げたってことか」

「えぇ。背中で隠せば、見られずに入れるのは難しくない。あとは消すふりをすればいいだけ。別に彼は、消えようが消えまいが、そんなことはどうでもよかったのよ」

 さらりと灰桐さんは言ってしまう。すとん、と腑に落ちた。

 火事を目の当たりにしてから、今まで起きたことがフラッシュバックする。

 彼女の言葉が、不可解だった謎を解き明かしていく。

 見えなかった真実に近付いていく。

 彼女の言葉はすべて、現状では憶測に過ぎない。しかし、これが真実ではないか。ここで梶木が認め、仮説が真実に代わるのではないか。

 しかし、そうはならなかった。

 梶木が、思い切り机を叩いたのだ。

 力任せに拳を振り下ろしたらしく、机が一度大きく跳ね、そのままバランスを崩して倒れてしまった。再び大きな音が鳴る。パレットや絵具までいっしょに転がり、からからから……、と乾いた音を立てた。

 梶木は立ち上がり、その勢いで椅子がひっくり返った。

 こっちを強く睨みつけている。今までは何とか取り繕うとしていたが、そんな配慮は一切合切消え去っていた。憎々しげに灰桐さんを睨み、拳をぶるぶると震わせている。怒りが身体を支配していた。

 感情を叩きつけるように、彼は声を張り上げた。

「何ふざけたことをベラベラ言ってるんだ! 適当なことを並べやがって、ふざけんなよ! 人を犯人扱いしやがって! お前は結局、大事なことは何ひとつ言わず、ただ妄想を並べてるだけだろ! 答えろよ! なんで僕は、そんなことをしなくちゃならないんだ! 僕の不手際で火事が起きたんだろ!? その理由をきちんと説明しろ!」

 僕は、あぁ、と息を吐きそうになった。

 そうだ。結局、灰桐さんはその話をしていない。

 後藤たちの煙草でないのなら、なぜ火事が起きたのか。

 彼女は梶木のせいだと主張しているが、その理由は明かされていない。時系列で語ると言っていたのに、彼女は結局口にしていないのだ。

 その理由は、もしかして。

 同じことを考えたのだろう、梶木は嫌な笑みを浮かべた。よだれをたらしそうなほど興奮し、大声で続ける。

「どうせ、僕が途中でぼろを出すことを考えてたんだろ? 火事の原因が思いつかないから、別の方法ではめようとした! だけど、無駄だから! 僕は火事なんて起こしちゃいない……! 不手際なんて一切ない! 何も言わない! 火事の原因がわからない限り、今までした話はすべて無駄だ! なぁそうだろ!?」 

 その声に、僕の方が怯みそうになる。

 言葉遣いは乱暴だが、彼の発言は正論だ。

 灰桐さんの主張はあくまで、梶木が『自身の過失で火事を引き起こし、それを擦り付けるための行動』だ。その前提である、『なぜ火事を起こしてしまったのか』が不明瞭な限り、この主張すべてに説得力がなくなる。

 梶木を追い詰めて、その理由を吐かせるつもりだったのだろう。

 しかし、それも見破られてしまった。そうなっては、灰桐さんがただただ、根拠のない疑いをかけたことになる。

 灰桐さんを見ると、無表情で梶木を見つめていた。

 何も言わない灰桐さんを見て、梶木はさらにヒートアップする。

「お前、ただで済むと思うなよ……! 人を散々犯人扱いしておいて、重要なところはわかりません、じゃ通らないよな! 謝れよ! 床に這いつくばって、すみませんでした、って頭を垂れろ! それぐらいはしろよ!」

「………………」

 充血した目をぎょろつかせ、梶木は床を指差す。

 灰桐さんは、それをただ黙って見つめていた。

 しかし、何度も梶木が「土下座しろ!」と叫ぶうちに、灰桐さんの身体が動き出す。

 彼女は床を見つめながら、一歩二歩と歩き出した。それを見て、梶木は心から嬉しそうに、下卑た笑みを浮かべた。

 僕は心臓が掴まれたような気分になる。

 まさか、そんな、灰桐さんがそんなことをさせられるのか……?

 頭の芯が凍り付く感覚に、動けなくなる。

 やがて、灰桐さんも足を止めた。言葉を発さず、床に視線を落としている。

「どうした! 早く床に頭を擦りつけろよ!」

 梶木の怒鳴り声に、灰桐さんはうるさそうに顔を上げる。

 そして、床に上靴を滑らせた。

 その瞬間、靴がきゅっと音を鳴らす。

「――火事の原因は、これ。あなたがこぼした、画溶液」

 鈴のような彼女の声に、梶木の口がぴったりと止まる。

 彼の表情が驚愕に染まった。雷にでも打たれたかのようだ。凄まじい衝撃に襲われている。

 身体は硬直していたが、わなわなと震え始める。信じられない、という目で灰桐さんを見つめた。顔色はサーッと青くなり、口をぱくぱくさせ始めた。

 やっと静かになった、とでも思っているのか、灰桐さんは軽く息を吐く。つまらなそうに視線を外し、「実に退屈だった」と呆れたように言った。

 理解しているのは、彼らだけだ。

 僕は完全に置いて行かれている。

 僕は慌てて、灰桐さんに説明を求めた。

「ま、待って、灰桐さん。どういうこと? 僕にもわかるよう説明してほしいんだけど……。何がどうなったって?」

 灰桐さんは僕に視線を向けて、少しだけ表情をやわらかくさせた。

「わからない? なら、もっとわかりやすく言うわ。あの紙が燃えたのよ」

 彼女が指を差したのは、梶木の周りに転がった紙だ。あれはキッチンペーパーか何かだろうか。絵具が付着している。梶木が何度か筆を拭っているのを見たので、その時に付いた絵具だろう。

 あれが燃えた。火事の原因になった。

 ……あまりにも突拍子もなくて、さっぱり理解できなかった。

「ごめん、灰桐さん。もっと詳しく教えてもらえると……」

「そう? それなら、佐々木くん。油絵を趣味にするときのために、よく覚えておくといいわ」

 俯いて何も言わなくなった梶木を一瞥し、彼女は床に転がった紙を拾い上げる。

 そして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「油絵具や、油絵に使用される画溶液。それらに含まれる乾性油類は、乾燥する過程で、空気中の酸素に反応してしまうの。その化学反応時、わずかではあるけれど、反応熱が出るわ。熱を持ってしまう。もちろん、それだけじゃ発火には至らない。でも――」

 そこで一度息を吐き、視線をゴミ箱に移す。

「油絵具、もしくは画溶液をふんだんに含んだ紙や布。それを狭いところにみっちりと詰め込むと――、熱がこもって高温に達し、発火にまで至る場合がある。乾燥しやすい今の季節なら、尚のこと」

「……………………」

 僕は再び、床に転がった紙を見つめる。絵具を含んだだけの、ただの紙だ。

 そして、火事跡に目を向ける。

 ゴミ箱は熱に溶かされ、壁にはしっかりと火災の跡が見られる。

 これを、あの紙が引き起こしたって? そんなこと、ありえるのか?

 思わず、そう疑ってしまう。でも僕は、油絵具には詳しくない。

 知識がないだけであって、本当にそういうことはあるのだろう。彼女の言うことも、意味自体はわかる。梶木だって否定はしない。そういう事例もあるんだろう。信じられないような気持ちではあるが、あれが火事を引き起こした。

 それはいい。

 しかし、同時に疑問も湧いてしまうのだ。

 それは、僕のようなズブの素人だからこそ、やってしまうことじゃないのか?

「油絵具や画溶液で火事が起きる場合がある……、そんなの、僕は知らなかった。だけど、その注意事項って、油絵を描く人ならわかっていることじゃないの……? ゴミ箱にパンパンに詰め込んであったら、顧問の先生なり、ほかの部員が注意しそうなものだけど」

 条件が整えば、火災が起きる可能性がある。そんな道具を取り扱うのだったら、その条件が揃わないよう、気を付けるはずなのだ。

 特に顧問は注意を払うはず。見つけたら、指導だってするだろう。そうならないよう、指導するはずだ。

 僕の指摘に、灰桐さんは小さく頷く。

「そう。だから、これは百パーセント彼の過失なの。彼が横着しなければ、面倒くさがらなければ、きちんと処理していれば、起き得なかった事故。佐々木くん。あなたがこの床で足を滑らせたとき、彼はなんと言っていた?」

 梶木は、灰桐さんの言葉にびくりとする。

『あぁ。そこは昨日、画溶液をこぼしたんだ。だから滑るかもしれない』

 そう彼は言っていた。そして、僕もこんな感想を抱いたはずだ。『これだけ滑るってことは、かなりの量をこぼしたんじゃないか』と。

 床にこぼし、広がった画溶液を、彼は一体何で拭き取ったのか。

 そして、それをどうやって処理したのか。

 自然と、視線がゴミ箱に向かう。

「彼は自分でも言っていたし、あの一年生も言っていたわね。ひとりで、夜遅くまで残っているって。夜、ひとりで作業をしているときに、画溶液をこぼしてしまった」

 頭の中に、そのときの光景が思い浮かぶ。

 外はとっぷりと日が暮れ、ひとりで絵を描いている梶木。その折に、床に画溶液を床にぶちまけてしまう。結構な量の画溶液が、床にとくとくと流れていく。

「もちろん、彼はそれを拭き取ったでしょう。雑巾なのか、何かの紙か布なのか。とにかく拭き取った。量に応じて、大量にゴミも出る。けれどそのとき、彼は適切な処理をしなかったんでしょうね。知識はあったでしょうに、それでも横着してやらなかった。どうも彼は、ズボラな面が多分にあるもの。見ていて不快だわ」

 さすがにそれは当たりが強いと思うが、ズボラなのは確かにそうだ。

 卓上や彼の周りを見れば、わかる。

 ゴミは適当に床へ転がし、道具の使い方もいい加減。筆が落ちてもすぐには拾わない。そのせいで床が汚れても、どこ吹く風だった。不快とまではいかないが、「汚いなぁ」とは思う。頑張っていますアピールなのかと思ったが、そういう心の声も聞こえなかった。純粋に彼の性格の問題らしい。

 部活停止中に活動しているルール違反もそうだが、彼は自分がよければそれでいい、といった面がある。

 床に画溶液をこぼし、イライラしながら拭き取る姿は容易に想像できた。

 これだけ床が滑るんだし、本当に拭いただけで、それ以上は何もしていない。

 苛立ったまま、「別にこれくらい大丈夫だろ」と拭き取った紙や布を、ゴミ箱に詰め込む姿まで思い浮かぶ。

 そして翌日。

 ぎゅうぎゅうに詰め込まれたせいで、発生した酸化熱が逃げ場を失い、高温に達する。やがてそれが発火に至り、ゴミ箱は火災まで成長した。

「彼は美術室で、燃えさかるゴミ箱に直面する。すぐに自分のせいだとわかったでしょう。まずい、とも思った。火事の原因を調べられたら、きっと過失に辿り着かれる。美術室のゴミ箱から出火するだなんて、それだけでも顧問の先生が勘付きそうだものね。逃げられない」

 それは間違いない。

 学校側も再発防止に努めたいだろうし、原因は必ず究明される。

「そうなれば彼は、横着で学校を火事にした、大まぬけになる。きっと、学校中の笑い者でしょうね」

 そんなもの、梶木が耐えられるわけがない。

 彼と話したのはほんのわずかだが、それだけでもプライドや自己評価の高さが凄まじかった。バカにされるなんて、絶対に避けたいはずだ。

 何せ、ここまで偉そうな彼がそんな失敗をすれば、こぞって陰口を叩かれる。どれだけ絵で成績を残そうとも、その汚点ひとつで卒業まで笑いものにされる。

 それどころか、卒業したあとも。

 そんな彼がこのミスを隠蔽しようと考えるのは、朝が来れば夜も来る、と同じくらい自然なような気がした。

「そこで彼は、後藤たちに罪を擦り付けることを考えた。もっともらしい理由を用意すれば、深く調べられることなく、そこに流されていくと思ったのでしょう。実際、そうなった」

 彼女の視線は、梶木に向かう。

 梶木は完全に俯いていた。

「吸殻の処理先を知っていたあなたは、吸殻を回収し、わたしたちの前で何食わぬ顔で偽の証拠品を投げ込み、あとは情報操作をした。あなたと後藤たちなら、だれだってあなたを信じる。不良たちの声はだれにも届かず、学校側は偽物の真実を持ってこれを良しとし、あなたは何の罰を受けることもない――」

 灰桐さんはそこで一呼吸し、心から退屈そうに言う。

「これが、この事件のあらまし。全くもって退屈な、何の面白みもないお話」

 そう締め括ってしまう。

 美術室が、しんと静まり返る。

 梶木が不運だったのは、この事件が灰桐さんに見つかったことだ。

 先生も生徒も、もちろん僕も。だれひとりとして、『後藤たちがバカなをことをやった』と信じて疑わなかった。

 それで済んだ話だ。

 僕が後藤たちの顔を見なければ、灰桐さんが興味を持つこともなかった。

 退屈だなんてとんでもない。

 僕にとっては、全く予想のつかなかった、色んな思惑が入り混じった事件だった。

 けれど、それも終わり。

 あとは梶木が認めれば、灰桐さんは興味を失うだろう。

 そう考えていたけれど、そうはならなかった。

 梶木がギラギラした瞳で、こちらに嫌な笑みを向けたからだ。

 気温は肌寒いくらいなのに、大量の発汗をしながら、こちらを見据えている。

「それで?」

 喉に詰まったような声を出す。

 そしてすぐに、堰を切ったように喋り出した。

「だからなに? どうするわけ? 僕を後藤か教師に引き渡すか? こいつが真犯人ですーって探偵みたいにさ。あんたはそれをしたくて、ここまで頑張ったわけ?」

 充血した目をぎょろぎょろさせて、詰まりながら彼は言う。

 何を言うかと思えば。灰桐さんが、そんなことに興味あるわけがない。

 これは彼女にとっては暇つぶしだ。決して、正義感から動いているわけではない。やりたいのは謎解きであって、正義の味方ではないのだ。

 しかし、梶木が言いたいのは、そういうことではないらしい。

「でも、できないよなぁ!」と大声を張り上げ、灰桐さんが眉をぴくりと動かした。

「だって、証拠がないんだから! あんたが探偵ごっこをしたいのなら、付き合ってやるよ! 証拠! 証拠を出せ! あんたが言ってるのは全部妄想で、しょうもない絵空事だ! 僕を犯人扱いしたいのなら、確固たる証拠を見せてみろよ!」

 興奮したせいか、椅子まで蹴り飛ばし、好き勝手に喚いている。

 灰桐さんが不愉快そうに転がる椅子を見下ろしていた。

 だが、彼が強気になれるのは、実際に証拠がないからだ。

 灰桐さんが言っているのは、すべて想像の出来事。いくら梶木の不可解な行動を指摘しようが、それらは証拠にはならない。だからなに? と言われれば終わりだ。

 でも、証拠なんてないのではないか。

 僕はおそるおそる灰桐さんを見る。

 僕は梶木にビクビクしているが、灰桐さんはいつもどおりだった。無表情のまま。

 しかし、彼女は小さく嘆息した。

 さらに、負けを認めるようなことを口にする。

「正直な話をするけれど。わたしはこの結論に達したとき、あなたを素直に評価したわ。火事を発見した際、瞬時に後藤たちに濡れ衣を着せることを考え、それを実行に移した。その行動力と頭の回転の速さ、度胸。これは称賛に値する。即興劇としては上等だった」

 初めて梶木を認めることを言ったからか、梶木の表情が少しだけやわらかくなる。散々罵声を浴びせたあとで喜びづらいのだろうが、明らかに彼は喜んでしまっていた。

 ここで灰桐さんが「証拠は何もない。わたしの負け」とでも言えば、ぐちゃぐちゃにされた彼の自尊心も、元通りになるかもしれない。

 けれど、そうはならなかった。

 灰桐さんが、後藤を鋭い目つきで睨みつけたからだ。

 でも、と続ける。

「あなたは三流だった。あなたが引き際を弁えていれば、もっと綺麗に終わったはずなのに。あなたの余計な一言で、すべてが台無しになった」

「……?」

 突然の全否定に感情がついていかないのか、彼女の言っていることが理解できないのか。それとも、その両方か。

 彼は表情を失って、ただ灰桐さんを見つめた。

 説明するのも面倒そうだったが、彼女はため息交じりで言葉を並べる。

「あなたは、後藤たちに強い恨みを持っていたそうね。見下し、バカにし、けれどそんな相手に、自分の行動を制限されていた。そこに強いストレスを感じていた。何か仕返しを考えていたけれど、それを行動に移す勇気もない。そんなところでしょう」

 灰桐さんが気持ちを代弁する。

 梶木が後藤たちに抱えていた想いは、だいたいそのとおりだ。

 僕が、心の声を聞いている。

「だからこそ、スムーズに後藤たちに罪を擦り付ける方法を思いついたんでしょう。普段から、そんな妄想をしていたのかもしれない。それはいい。問題は、そこから」

 再び、灰桐さんは後藤を睨む。

「もしあなたが、自分の身を守ることに徹していれば、何事もなく逃げ切れたかもしれないのに。後藤たちの処罰がどうなるかはわからないけれど、少なくとも、今よりよっぽど逃げ切れる可能性は高かった」

 ……何を言っているんだろう、灰桐さんは。

 それだとまるで、梶木はもう逃げ切れないみたいじゃないか。

 同じ考えに至ったのか、梶木は目を見開き、必死に灰桐さんを凝視している。「何を、何を言っているんだ、お前は……」とぶつぶつ繰り返している。

 その視線を冷ややかに躱しながら、彼女は言う。

「あなたは大きなミスをした」

「え」

「あなたは欲を出してしまった。そのまま逃げればよかったのに、後藤たちに罪を着せることに固執してしまった。そこがあなたのミス。せっかくの即興劇を台無しにした愚。彼らへの恨みがあっても、感情的になるべきではなかった」

 淡々と、本当につまらなそうに彼女は続ける。

 その目に宿るのは憐憫や侮蔑、怒り。様々なマイナスの感情が入り混じり、それらすべてが梶木に注がれる。

 梶木はわなわなと震え始め、みっともなく声を張りあげた。

「だから! それが何なのか、言えってんだよ! いつまでも勿体ぶってんじゃねぇぞ!」

 それで、灰桐さんの目がより冷ややかになる。ため息をひとつこぼすと、面倒くさそうに答えた。

「後藤たちは事件当日、本当に美術室には行ってないのよ」

「は……?」

 梶木の声から、間抜けな声が漏れた。

 何を言われたかわからない、と言った顔で、視線をきょろきょろとさせている。

 不可解そうに、だらだらと言葉を垂れ流した。

「え、いや、え……? だって、あいつら、いつも、昼休みに、ここで、煙草を……」

 彼を哀れそうに見つめたあと、灰桐さんは話を進める。

「あの日、後藤たちは途中で学校から帰ったの。嘘でも言い訳でも何でもなく、本当に美術室に立ち寄ってないのよ。だれも信じていないだけで。――でも、そうなると、おかしなことになるわよね」

 灰桐さんの声に梶木は肩を震わせたが、彼女は気にせずに続けた。

「彼らにとって、退学か停学かの瀬戸際。煙草に関しては認めていたけど、火事については断固否定していた。そうよね、だって本当にあの場にいなかったんだから。彼らは冤罪だとわかっている。死に物狂いで否定材料を用意するでしょうね」

 彼女はそこで、ふっと視線を外に向ける。

「やろうと思えば、いくらでも証拠は見つかるはず。彼らは学校の外に出ていた。店員さんや駅員さんを証人にすることや、監視カメラの映像……、それこそ、学校にも校門にあるわよね。それをチェックすれば、彼らが昼休みに学校から出ていく姿が見られるんじゃないかしら。昼休みにいなかった、という証拠は必ず提出される」

 視線を戻す。

 灰桐さんは、呆然としている梶木を射貫いた。

「後藤たちが容疑者から外れたところで、『別のだれかが美術室で煙草を吸い、それが火事になった』と片付けられるでしょう。学校側も何かしらのアクションは取るでしょうけど、必死で犯人捜しはしないでしょうし、する必要もない。もしかしたら、後藤たちは怨恨で調査するかもしれないけれど、あなたに辿り着くのは難しい。皆、吸殻のフェイクに縛り付けられているから」

 でも。

 彼女は、冷たく言い放つ。

「あなたは余計な証拠を残した。後藤たちを貶めたいばっかりに、疑惑を真実にしたいがために、嘘の証言をしてしまった。『後藤たちが事件当日、美術室で煙草を吸っていた』と嘘を吐いた。さらにはほかの部員を扇動して、先生たちに訴えた。放っておいても、後藤たちに疑いの目がいったでしょうに」

 梶木は目を見開いている。口はまぬけにも半開きになっていた。

 彼はふるふると首を振ったあと、「そ、それだけじゃ……、は、犯人扱い、までは……」と声を震わせる。

 灰桐さんはそれを打ち消すように、はっきりとした口調で続けた。

「後藤たちが美術室に行ってないことが証明されれば、あなたの証言は何だったのか、という話になる。部員の中には、『無理に報告させられた』と不満に思っている人もいた。そうなれば、今度はあなたが一気に怪しくなる。今までは見逃された、あなたの不審な行動も明るみに出るでしょう。――佐野先生もきっと思い当たる」

 梶木にも伝わったのだろう、目がさらに見開く。

 はっとして、窓の外に目を向けた。

 僕たちも確認した、大量の吸殻だ。

「火事が起こった際、あなたと佐野先生は接触している。そのとき、なぜかあなたは土手から現れた。助けを求めに行ったはずなのに、あそこにはだれもいない。あるのは、吸殻だけ。そしてその吸殻だけれど。ゴミ箱に捨てられていた吸殻は、きっと先生が保管しているわよね。もしかすると、それを後藤たちに見せるかもしれない」

 梶木の視線がこちらに戻る。

 しかし、瞳の色は困惑に染まっていた。

 状況が整理できず、ただだた灰桐さんを見つめている。

「あなたは知らないでしょうけど、土手には様々な種類の煙草が捨てられているの。彼らは三人で一箱を分け合って吸っていて、常に違う銘柄を購入しているみたい。所持していた煙草は没収されたけど、きっとその銘柄と、ゴミ箱から出てきた吸殻は違う種類」

 そうなれば、と続ける。

「彼らは、『この煙草を吸っていたのは以前のことだ』と主張するでしょう。今は違う煙草だ、没収された煙草を見てくれ、とも。その主張は、単体ではきっと意味がない。けれど、あなたの嘘の証言で疑惑を持ち、事件時の行動に不審を覚えた先生なら? それら小さなミスが、ひとつひとつが立ち上がってくる」

 灰桐さんは、梶木を睨む。

 彼は一歩二歩と後ずさった。

「そうなれば、あなたはやがて追及を逃れられなくなる。嘘の証言という証拠から、ほかの証拠までズルズルと引っ張り上げられる。それさえなければ、うやむやにできたかもしれないっていうのに。あなたは、自身が犯人だと名乗り上げてしまった――、そういうところが、三流なのよ」

 決定的な言葉を突き付けられ、梶木の両腕がだらりと下がった。

 口をパクパクさせて、ありえない、と頭を振っている。

 そして、瞳には憎しみの色が濃く現れた。こちらを強く強く睨みつける。

 その瞬間、ずっと彼から聞こえていたノイズが、徐々に晴れていく。

 彼の心の声が聞こえ始めてきた。

 しかしそれは、梶木の口から発せられるものと同じだ。思ったことをそのまま口にしている。

 梶木は顔を真っ赤にして激昂し、床を強く踏みしめながら叫びだす。

「うるっせぇなあ! だからなんだよ! あぁそうだよ、僕がやったよ! だけど、それがなんだっていうんだ! あんなゴミども、どうなってもいいだろ!? むしろ、ゴミ掃除になったんだから、みんな僕に感謝するはずだ! 僕はこの学校に必要なんだ! 今までの功績を考えたら、何をやったって許されていいはずだろうが……!」

 大きな手ぶりで身体を揺らし、目を見開いて主張している。

 それは彼の、心からの本音らしい。

 その熱が僕は怖い。何をしでかすかわからない。

 心の声が聞こえるようになったのも、彼が隠すことをやめたから。やけになって本心をさらけ出しているが、それが良いように作用するとは思えない。

 けれど、そんな状況になっても、灰桐さんは変わらなかった。

 何も言葉を紡ぐことはなく、冷たい視線を彼に向けるだけだ。

 一瞬、その視線に彼は気圧される。

 ぴたっと動きを止めて、呻くような声を上げた。

 しかし、すぐに火が点く。再燃する。灰桐さんに対してどす黒い感情が膨れ上がり、それは彼の身体を動かした。

「その目を、やめろォ――――ッ!」

 まずい、と思った。

 梶木が灰桐さんに向かって、思い切り駆け出したのだ。完全に我を忘れている。心の中も、わけのわからない叫び声に満たされていた。暴力的な空気を感じ取り、身体が竦む。

 けれど、このままでは間違いなく、灰桐さんがケガを負う。

「は、灰桐さんっ」

 急いで、灰桐さんの前に飛び出した。

 彼の目が僕を捉える。庇い切れるかは自信ないけれど――。

「佐々木くん。こっち」

「え? わっ」

 彼女の前に飛び出した途端、腕を引っ張られる。灰桐さんとともに、数歩後退した。

 そして、僕たちが立っていた場所に、梶木が足を踏み入れた瞬間――。

 彼の上靴が、きゅっ、と鳴った。

「う、うわぁっ!」

 彼は叫び声をあげて、足を滑らせる。

 全力で駆け出した勢いは凄まじく、そのまま机に激突した。

 机はひっくり返り、けたたましい音を立てる。椅子もつられるように、がたん、がたんとなぎ倒されていった。

 机のそばに梶木は転がり、痛みで顔を歪めている。全力で転んだうえに、机にぶつかったのだ。すぐには立てないかもしれない。

「ぐ……、くそ……、いてぇ……」

 悪態をつきながらも、起き上がる様子はない。戦意喪失したようで、先ほどのような激情はもうなかった。

 ほっとしていると、灰桐さんが彼の前に立つ。

 面倒そうに彼を見下ろしていた。

「この話はこれでおしまい。わたしは、こんな退屈な話に興味はない。このことを人に話すことはないし、これから関与するつもりも一切ない。だからあなたも、わたしには関わらないで」

 彼女は一方的にそう告げると、そのまま背を向けた。何のためらいもなく、美術室を出ていこうとする。僕は慌てて追いかけた。

 美術室から出る直前、梶木の様子を窺う。

 彼は変わらず、机とともに床に転がっている。動かずに天井へ目を向けていた。

 顔はよく見えないので、心の声は聞こえてこない。

 彼は、灰桐さんの言葉を信用してくれただろうか。あれはきっと本心だ。だから、安心して灰桐さんから距離を取ってほしい。

 後ろ髪を引かれつつも、僕は美術室から出る。

 一応、約束なので扉を蹴って鍵を閉めた。

 灰桐さんは、僕を待たずに廊下をぐんぐん歩いている。駆け足で彼女の隣に並んだ。

 灰桐さんの表情は何も変わらず、いつものように涼しい顔をしている。先ほど、梶木とひと悶着あったとは思えないくらいに。

 彼女の綺麗な横顔を見ると、落ち着くくらいの静寂が返ってくる。無秩序な感情の声でも、耳障りなノイズでもなく、ただただ静かな空気。

 それで、僕もようやく動悸が落ち着いてきた。

 僕はそっと息を吐き、彼女に声を掛ける。

「灰桐さん。お疲れ様」

 彼女はちらりとこちらを見る。

 小さく肩を竦めた。

「帰りましょう」

 異論はない。もうここには用はないのだし、今後、放課後に近付くこともないだろう。

 この話はここで打ち止め。僕たちはこれから先、何も関わる気はない。

 後藤たちがどうなろうと、梶木がどうなろうと、こちらに関係がない限りは触れない。灰桐さんが望んでいないからだ。

 ふたり並んで、廊下を静かに歩いていく。

「佐々木くん。さっきはありがとう」

「え? なにが?」

「なんでも」

 灰桐さんは小さく呟くだけで、それ以上は何も言ってくれなかった。どのことかはわからなかったが、僕も言及はしない。できない。

 しつこくして彼女に機嫌を損ねられると、僕が困るからだ。



 それから数日が経った。

 結局、後藤たちの容疑は晴れたらしい。昼休みにいなかったことを証明するため、何人かに頭を下げて、証人を連れてきたそうだ。そのあと監視カメラを検め、後藤たちが校門から出ていく姿を確認した。嘘ではないことが証明された。

 ただ、煙草の所持や喫煙は事実のため、今現在も謹慎している。

 あれだけ騒がれていたので、この一連の話も学校中を駆け回った。だれもが知っているゴシップと化し、「では、なぜ火事が起きたのか?」と考える人たちもいたが、僕の見た限り、真実に辿り着いた人はいない。

 それ以上の、学校側の対応はわからない。真犯人を探しているのか、何かを捜査しているのか。特に公言はされていない。

 気にならないと言えば嘘になるし、僕が本腰を入れて探ればわかるけど、それでは灰桐さんが梶木に言ったことが嘘になる。

 一方的ではあったけれど、僕はあれを約束だと思っている。

 あれから梶木は、僕や灰桐さんに関わろうとはしなかった。

 一度廊下ですれ違ったときも、見て見ぬふりをされた。心の中では腸煮えくりかえっていたが、僕もそれは見て見ぬふりをしようと思う。

 事件も風化し始めている。

 学校中の話題を掻っ攫った美術室の火事も、今はもう、全く話題に上がらなくなっていた。数日は盛り上がったが、進展がなければ話題にしようもない。

 すでにもう、みんなの頭からは抜け落ちているのではないか、とすら思う。

 今でも頭がいっぱいなのは、当事者くらいだろう。

 今後、進展があるかはわからないが、平和なまま終わればいいな、と思う。

 昼休みになったので、僕はいつもどおりに教室を出た。

 旧校舎を歩いていると、後ろから涼やかな声が聞こえ、足を止める。

「佐々木くん。こんにちは」

「こんにちは、灰桐さん」

 灰桐さんだ。彼女は綺麗な黒髪を揺らし、手に弁当箱を持っていた。

「灰桐さんは、今日は旧校舎でお昼?」

「そうね。まだ場所は決めていないけれど」

 これから彼女は適当に旧校舎を歩き、適当なところで腰掛けるのだろう。

 その隣に座って、以前のように弁当箱を開くことができれば、どんなにいいだろう。

 しかし、僕にはその資格はない。

 今は何も、彼女の興味を惹ける話を持っていないからだ。

 あの火事についても、彼女は既に興味を失っている。得た情報を灰桐さんに伝えてみたけれど、「ふうん」と本当に興味がなさそうな返事をされた。

 もうどうでもいいのだろう。

 彼女はまた、退屈に喘いでいる。

「佐々木くん。また何か面白い話があったら、教えてね」

 彼女はそう言って、僕のそばを通り過ぎる。

 長い髪を揺らしながら、そのまま廊下を歩いていく。

 それを惜しく思うが、今の僕は手ぶらだ。何か手土産を見つけて、彼女に持って行こうと思う。そうしたら彼女は、また話を聞いてくれるだろう。

 灰桐さんから視線を外し、僕は階段を上っていく。

 窓の外を見ると、枯れた木葉が風に吹かれて落ちていった。


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