第3話
美術室を出て、扉を閉める。
彼女は外で待っていてくれた。帰っていたらどうしよう、と少し不安になったが、不要な心配だったらしい。
ほっとしつつ、僕は扉に向き直る。
そして、扉を蹴り飛ばした。
古い扉がガタガタと不安な音を立てる。
「佐々木くん。イライラするのはわかるけれど、モノに当たるのは感心しないわ」
灰桐さんがとんでもないことを言うので、僕は慌てて手を振った。
「違うって。さっき梶木くんに言われたんだよ。部屋を出るときは、きちんと鍵を閉めてくれてって。入るときと同じ手法で、鍵も閉まるからって。灰桐さんは最後まで聞いてなかったけどさ」
僕の言葉を聞くと、灰桐さんは扉に手を掛ける。ガタガタと音を立てるばかりで、開く気配はない。きちんと鍵は閉まっているようだ。便利な扉だなぁ、と感心する。
灰桐さんはそっと手を離すと、窓際に移動した。そのまま壁にもたれかかる。
どうやら、梶木と話し込んでいるうちにかなり時間が経っていたらしい。窓から差し込む光は夕暮のものだ。
夕方の色に染められて、灰桐さんは物憂げな表情を浮かべていた。何かを考え込んでいるらしい。真っ黒な髪に優しい色の光が当たり、彼女の顔がさらに美しいものに変わっていく。
その姿に見惚れていると、ぱっと目が合った。
彼女はこちらに、おいでおいで、と手招きしてくる。否応にも胸が高鳴るが、灰桐さんに深い意図はない。
単に、話を整理したいだけだ。
事の真相が気になるのは、僕も同じ。なので、彼女の隣に並んだ。
大きな声を出すのが億劫なのか、一歩距離を縮めてきた。僕はどぎまぎするが、彼女は普段どおりに口を開く。
「それで? 佐々木くんは、何か言いたいことがあるわよね?」
彼女の質問に、僕はこくりと頷く。
「梶木くんは、嘘を吐いている」
僕ははっきりと告げた。
彼の行動を思い出す。
そして、彼の声が聞こえなくなった瞬間も。
「僕は、人の心の声が聞こえる。でも、もれなく全員ってわけじゃない。最初から聞こえない人と、途中から聞こえなくなる人。ふたつの例外がある」
最初から聞こえない人は、灰桐さんのような人。
どれだけ顔を見ていても、声は全く聞こえない。読むことができない。
もう片方は、条件が揃うと聞こえなくなる場合だ。
普段どおりなら聞こえるが、ある行動を取ると聞こえなくなってしまう。先ほどの梶木のように、ノイズが走るようになる。
その行動とは、嘘を吐いているとき。
もしくは、隠し事をしているときだ。
人が嘘を吐いているとき、隠し事をしているとき、心の声は聞こえなくなる。何を考えているか読めなくなる。
嘘を吐いていることはわかる。隠し事があることまでは伝わる。
けれど、その内容は何か。どういった内容なのかまでは読み取れない。
おそらく、これは僕の性質が原因だ。
僕が人の心が読めるのは、観察しているから。人の一挙手一投足を目が自然と追い、見慣れた動きを解析して、心の声に変換する。勝手に。
そこに嘘や秘密が混じると、どうしても動きにイレギュラーが生じ、普段の動作から外れてしまう。余計なノイズと化す。
そのせいで、声が聞こえなくなるのではないか。
僕としては心が読めないのは大歓迎なのだけれど、「この人は今、嘘を吐いているのか」と思いながら話すのも、なかなかに重荷だ。
それに、わかりやすい嘘なら大体内容までわかってしまう。
灰桐さんは、僕のこの体質もよく知っている。けれど念のために説明すると、彼女はゆっくりと頷いた。
「あの男が、『後藤たちが昨日、美術室で煙草を吸っているの見た』と言ったあたりね。声が聞こえなくなったのは」
ぴったりと言い当てられる。よく見てるなぁ、と思いつつ頷いた。
灰桐さんは目を瞑り、自身の長い髪に指を絡めた。
「問題は、梶木がなぜ嘘を吐いたのか。後藤たちは『昼休みに美術室には行っていない』と証言し、それはほぼ間違いなく真実。一方、梶木は『後藤たちが昨日、美術室で煙草を吸っていた』という嘘を吐いた。その理由は、一体何なのか。そして、何が原因で昨日の火事が起きたのか」
そうだ。
梶木が嘘を吐いていることは確定だ。後藤たちは美術室に行っていない。
なら、昨日の火事は一体なにが原因で起こった?
僕は梶木を見ていて思ったこと、そして自分の考えについて語る。
「灰桐さん。梶木くんは、後藤たちに大きな反感を持っていたんだ。憎しみと言ってもいい。美術室を好きに使われていることが、許せなかった。自分のように優れた生徒が、彼らのような落ちこぼれに道を譲る構図に、ひどく憤っていた」
梶木が、後藤たちに向ける憎悪は大きい。
そして、今回のことを踏まえると、僕はどうしてもある考えが頭から離れなかった。
「これは、梶木くんの自作自演、って線はない? 彼は後藤たちを許せずに、どうにか追い出す方法を考えていた。そして昨日、実行に移した。昼休みに吸殻をゴミ箱に捨て、火事を起こす。そして、嘘の証言を吐いて、後藤たちを破滅へ追い込んだ」
おそらく、後藤たちはよくて停学、普通に考えれば退学だろう。
学校で煙草を吸ったばかりか、ボヤ騒ぎまで引き起こしたのだ。それぐらいの処分を受けても仕方がない。
美術室だけじゃなく、学校からも後藤たちを追い出せる。
それは梶木にとって、最も望む展開ではないのか。
灰桐さんはしばらく黙り込んだあと、髪を指に絡めたまま口を開く。
「その線は、多分ないわ」
「え、どうして」
「合鍵のケースと同じ」
彼女はさらりと口にする。合鍵……、扉を開けるときの話だ。何だったろうか。
僕が会話を反芻していると、灰桐さんがそっと続ける。
「割に合わない。確かに梶木は、後藤たちを煙たく思っていたでしょう。でも、リスクを冒してまで火事を引き起こすなんて、とても考えられない。放火は重罪。濡れ衣を着せるために放火なんて、バレたら彼の方が退学じゃ済まないでしょう」
「う」
……そこまでは考えていなかった。
僕の主張では、梶木の罪状は放火、ということになる。
罪の重さは後藤たちの比にならない。
そこまでするか? と言われたら、反論できない。
「あなたが言うには、梶木はこの高校では立場のある生徒なんでしょう。彼がその地位、どころか人生を賭けてまで、後藤たちを追い込むとは思えない。むしろ、同じ土俵に乗ることすら恥だと思うタイプでしょう、あれは。それとも、佐々木くんから見て、それほどまでに梶木は恨みを抱いていた?」
「……ううん。そんなことない。この仮説は取り下げるよ」
普段は全く人に興味がないのに、こういうときはしっかりと観察している。
梶木は、灰桐さんが言うような人物で間違いない。
梶木は後藤たちに強い憤りを覚えている。しかし、なりふり構わず潰してやろう、と思うほどの憎しみではなかった。
勝手に自滅する分には大いに喜ぶだろうし、潰れてほしいとも思っているだろうが、そのために彼が動いたとは考えにくい。
灰桐さんの指摘どおりだ。
僕はその考えを捨て、第二の仮説を口に出す。
「なら、梶木くんが煙草を吸っていた可能性は? 吸殻をゴミ箱に捨てて、それが原因で発火。そして、その罪を擦り付けるため、嘘の証言をした……、っていうのは」
僕の仮説に、灰桐さんはさして時間も掛けずに返答する。
「さっきと似たようなことを言うけれど。彼のような男が、自分の地位を揺るがすようなことを、わざわざ学校でやるかしら。美術室は扉から中が覗ける、鍵も開けられる、という状況で。さらには、吸殻をゴミ箱に捨てるだなんて。不快な男ではあるけれど、そこまで考えなしではないでしょう」
ごもっともだ。
後藤たちのように、本物の考えなしじゃないと成立しない。もし彼が仮に煙草を吸っていたとしても、もっと上手くやるだろう。
僕の持っていた考えは、綺麗に否定されてしまった。ほかに思いつくこともない。
彼女を見ると、深い色をした目がこちらを覗いていた。
「えと……、灰桐さんは、何か、ある?」
僕が問いかけると、彼女は小さく首を振った。
「まだ何とも言えない。もっと情報が欲しいわ」
そう言って、彼女は壁から身体を起こした。どこかに行くつもりらしい。
それについていこうとすると、第三者の声が介入した。
「あれ?」
階段を上ってきた女子生徒が、僕たちの姿を見て困惑する。
美術室と僕たちを見比べていた。
小柄な女子生徒で、大きな眼鏡が目立つ。リボンの色から、一年生であることがわかった。気弱そうな子で、おどおどと僕らを見ている。
『えっと……、この人たち、なんだろう……? 美術室の前で……。おしゃべり中……? カップル……、には見えないけど……』
彼女の心の声が聞こえてくる。
どうやら美術室に用があるようで、部屋の前を陣取る僕たちに困っているらしい。同時に、若干不審にも思っている。
僕は愛想笑いをして、怪しくないことをアピールした。
「あー、僕たち野次馬でさ。昨日火事があったから、その現場が見られないかなー、と思って来ただけだから、気にしないで」
「あ、そ、そうなんですか」
一年生はほっとした顔になる。信じてくれたようだ。まぁ嘘は言ってない。
彼女は扉に目を向けて、「立ち入り禁止……」と貼り紙の文句を読み上げた。
おずおず、といった様子で尋ねてくる。
「あ、あの。中って入れないですよね……?」
扉を控えめに指差す。
どうやら彼女は、例の開け方を知らないらしい。灰桐さんを見ると、彼女は我関せず、と言わんばかりに窓の外を眺めていた。
まぁ、わざわざ言うことでもないだろう。梶木にも口止めされているし。
「あー、そうだね。開いてなかったよ」
「そう、ですよね……。立ち入り禁止ですもんね……」
困ったように笑う。特に深い意味はないようだが、そのまま話を続けた。
「わたし美術部なんですけど、中に忘れ物しちゃって。取りに来たんですけど、こんな状態で……。困っちゃいました」
「あー。確かに立ち入り禁止だけど、先生に事情を話したらちょっと入るくらい許してくれるんじゃ?」
「あ。そ、そうですよね! 先生に頼んでみます」
にぱっと素直に笑ってくれるので、僕も笑みを返す。
そこで、あ、と気付いた。この状態で、この子が先生を引き連れてきたら、梶木は困るな。
……でもまぁ、そこまで彼に気を遣う義理もないし……、とごにょごにょ考えていると、一年生は「ありがとうございます」とお礼を言って、そのまま立ち去ろうとした。
「少し、いいかしら」
そこで、灰桐さんが声を掛ける。
「は、はいっ」
びくっとして、一年生は灰桐さんを見た。その瞬間に、身体が緊張するのがわかる。おどおどしているのは元からのようだが、上級生に呼び止められれば、身構えるのは仕方がない。
どうやらこのときに初めて、彼女は灰桐さんの顔をちゃんと見たらしい。
『わぁ……、綺麗な人だなあ……』
そんな感想でいっぱいになり、呼び止められたことへの不信感がどこかに飛んでいく。
灰桐さんは一年生に近付くと、淡々と質問を突き付けた。
「あなた、さっき美術部って言っていたわね。ひとつ、訊きたいことがあるのだけど」
「は、はい……。なんでしょう……?」
「火事のあと、美術部員が『美術室で、不良たちはいつも煙草を吸っている』と先生たちに報告したと聞いたわ。あなたもそのひとり?」
「え……」
彼女が胸の前で、手をきゅっと握る。片足が後ろに下がるのが見えた。眉を下げて、不安そうに灰桐さんの目を見る。しかし、じっと見つめ返してくるので、そっと目を逸らした。
『この人、なんでそんなこと訊くの?』
頭の中がそんな声でいっぱいになる。というか、僕じゃなくても顔を見ればわかりそうだ。警戒心をあらわにし、僕たちが何者なのかを見極めようとしている。
隠そうとしているのか、徐々に声もノイズ混じりになった。
この時点で答えは出ている。けれど、一応ちゃんと聞いておきたいし、彼女をこのまま放っておくのもなんだろう。
僕は灰桐さんの後ろから、にこにこと笑いかける。
「部長の梶木くんから、色々と聞いたんだ。僕たちも、あの不良たちには困ってたことがあったからさ。それを先生に報告したくて。ほかの人がどんなふうに報告したのか、ちょっと聞きたいんだ」
理由を適当にでっち上げると、一年生は「そうだったんですね」とあからさまにほっとした。聞こえていたノイズ音もすぐに消え去る。
彼女は頬に指を当て、考え込むようにしながら言葉を並べた。
「そうですね……。といっても、ほとんど部長に言われてやったことなんですけど」
「……と、言うと?」
「部長がね、言ったんです。『彼らは絶対に許すべきじゃない。ここは僕たちがきちんと意見を表明するべきだ。彼らが普段から美術室を占拠し、喫煙していたことを訴えるべきだ』、って。熱心に言うものだから、わたしたちも押し切られてしまって」
想像に容易い。彼が自分に酔った勢いで、気持ちよく演説する姿が目に浮かぶ。
僕は灰桐さんと顔を見合わせた。
どうやら、「後藤たちが普段から喫煙していた」と報告しに行ったのも、梶木が先導を切ったから、らしい。
僕がその事実を飲み込んでいると、灰桐さんがさらに質問を重ねた。
「その、押し切られたっていうのは?」
「ええと。わたしは昼休みに美術室を使ってないので、別に困ってなかったんですよね。もちろん、人伝には聞いていたので、『怖い人たちがいるなぁ』とは思ってましたけど」
何てことはないように、彼女は言う。灰桐さんは少しだけ目を細め、そのおかしな言葉を引っ張り上げた。
「……ということは、あなたは目撃したわけではないの? 直接見たわけではないのに、『喫煙しているのを見た』って先生たちに言ったってこと?」
言葉がキツい。僕はひやりとする。
案の定、一年生は責められていると感じたらしい。焦りと恐怖心が芽生え、慌てて言葉を返した。
「わ、わたしは言ってないですよ。なんというか、人数合わせみたいなものなんです」
どうやら彼女自身も後ろめたく思っているようで、表情が硬い。早口で、言い訳のようなことを並べ立て始めた。
「先生に報告へ行ったのは、それこそ美術部総出だったんです。部長に言われたから。それで、部長が『わたしたちは、彼らが煙草を吸っているのを知ってました。実際に見た人もここにたくさんいます』って言い始めて……」
ごにょごにょと声が小さくなっていく。心の中で、『わたしだって、わざわざ行きたくなかったのに……、部長のせいで……』と文句を言っている。
梶木は嘘は吐いていないものの、微妙なラインではある。誤解を招く言い方だ。目撃者は何人かわからないが、全員が見ているような物言いをしている。梶木はあえてだろうけど、付き合わせられる彼女たちは不本意だろう。
実際、彼女も不満のようだ。
それを振り切るように、彼女は美術室の扉に目を向ける。
「でも部長は、やっぱり困ってたみたいですから。一番被害を受けているのも部長です。不良が集まる前は、よく昼休みも美術室にいたそうですし、今だってコンクールの〆切があるのに、部活停止になっちゃって。文句が言いたくなるのもわかるんです」
僕も同じく、扉に目を向ける。
一年生がこんなふうに言ってくれているが、梶木はルール違反を犯して、自身を正当化しながら作業を進めている。
それどころか、後藤たちに何かをしている可能性がある。
それを知ったら、この一年生はどう思うのだろう……、と心配したが、杞憂だった。
『まぁ、いくら絵が上手くても、わたしはあの人嫌いだけど。偉そうだし、何かと口うるさいし』と考えている。まぁ気持ちはわかる。彼が上に立っているのなら、やたらと口を出されそうだ。
彼女が目と心の中で『もういいですか?』と訴え始めたので、一年生と別れた。
再び、廊下に静寂が戻ってくる。
日も沈み始め、少しだけ肌寒くなる。これからどうするんだろう、と灰桐さんを見ると、足を前に踏み出した。
「どうするの、灰桐さん。帰るの?」
「いえ、見たいものがあるから、探しに行くわ」
「探すって、なにを」
「後藤たちが捨てた吸殻」
「えぇ?」
そんなのを見てどうするんだろう。
そう思いつつも、僕は彼女を追うのをやめない。
わざわざ下駄箱まで戻って靴を履き替え、旧校舎の下まで戻ってくる。
彼女は旧校舎の前を突っ切り、敷地の外を目指してずんずん歩いた。
日が沈みかけているため、外の空気はより冷たい。遠くに聞こえていた運動部の声も、今はほとんどなくなっていた。
夕焼けのわずかな光に、田んぼが照らされている。水路に流れる水が、眩しく陽の光を反射していた。
学校は敷地を二メートル程度のフェンスで囲っているが、灰桐さんは何の躊躇もなく足を掛けた。そのままアクティブによじ登っていく。やっていることは物凄く野蛮なのに、彼女が行うと、なんだかすごく高貴なことに感じる。でも、スカートでフェンスを上るのはやらない方がいいような……。スカートが危うく揺れて、黒いタイツに守られた脚が目に毒だ。だれも見てないよな、と周りを見回してしまう。
軽やかにフェンスから降りると、彼女はこちらをじっと見た。
「どうしたの?」
何で来ないの、という意味らしい。
僕はちょっと躊躇ったものの、灰桐さんと同じようにフェンスをよじ登る。着地すると、靴が雑草に埋もれた。
彼女がきょろきょろと辺りを見回しながら、その場を歩き回る。僕もそれに習った。すると、靴が何かを蹴る。拾い上げると、くしゃくしゃに丸められた紙があった。
スケッチブックを破ったものらしく、特徴的な感触が指を刺激する。
「灰桐さん」
僕はそれを持って、灰桐さんの元に向かう。すると、彼女はおもむろにその場にしゃがみこんだ。彼女も見つけたらしく、その場で丸めた紙を検めている。
どうやら、しゃがんだままチェックするらしい。スカートが汚れないか心配になるが、灰桐さんは気にしていない。仕方なく、僕も隣にしゃがむ。
彼女ががさがさと紙を開くと、やはりそこには煙草の吸殻が入っていた。
形の潰れた吸殻が、何本もある。灰もいっしょに捨てられており、全体的に薄汚れていた。
灰桐さんはもうひとつ紙を拾っていたようで、同じように開く。そして、視線で僕のも開くよう促してきた。
結果は同じだ。
丸めた紙によって吸殻の種類は違うものの、すべて同じ手法だ。ほかにも拾ってみたが、結果は変わらなかった。
僕は校舎を見上げる。美術室の窓が見える。あそこから投げ捨てるのは、難しいことではない。
ここは学校の敷地外。敷地内で吸殻が発見されたら事だが、ここなら大丈夫、ということだろうか。
外からでは、美術室の様子はわからない。まだあそこで、梶木は絵を描いているのだろうか。
「本当に捨ててあったわね」
彼女は興味深そうに、吸殻を手に取ってしげしげと見つめている。後藤たちが口にしたものだし、汚い吸殻だ。あまり触らない方がいいんじゃないか……、と思うものの、言葉にはならない。
灰桐さんは吸殻を紙の中に戻すと、そのまま置き去りにして立ち上がる。一言もなく、そのまま学校へ戻っていった。
当然、ゴミを回収なんて殊勝なことはしない。
「…………」
後藤たちの後始末なんてごめんだが、後ろ髪を引かれるのも事実だ。あとで、あのゴミは捨てておこうかな、と思いつつ、僕も灰桐さんの元に向かった。
再びフェンスをよじ登り、僕たちは学校の敷地内に戻ってきた。
外灯が校舎を照らし始める。もうすっかり暗い。色々とやっているうちに完全下校時間も過ぎたし、もう帰らないと。
灰桐さんにそう伝えようとしたときだった。彼女が予想外の行動に出る。
急に走り始めたのだ。
俊敏なイメージのない灰桐さんだが、ぐんっと地面を蹴り、予想以上の速度で駆け出した。そのまま綺麗なフォームで髪を揺らしていく。
「え、ちょ、は、灰桐さんっ?」
僕は仰天しつつも、彼女を追いかける。
泡を食って追いかけたが、それほど慌てる必要はなかった。彼女は「先生っ」と声を発してから、すぐに減速したからだ。
先生?
灰桐さんの視線の先を見ると、ひとりの男性が立っていた。
佐野先生だ。確か佐野先生はラグビー部の顧問だったから、部活から職員室に戻るところかもしれない。
彼は意外そうにしながら、僕たちふたりを見た。
「あー、なんだお前ら。早く帰れよ。下校時間過ぎてんぞ」
よく通る声で言いつつ、心の中でこっそり呟く。
『このふたりがいっしょにいるなんて、意外な取り合わせだな』
こう思われるのも慣れた。実際、僕もそう思う。
まぁ灰桐さんの場合は、だれといても不思議な気はするけど。
『こいつらも変なところから来るなぁ。あっちに何かあるのかね』
同時に、僕たちがやってきた方向を一瞥する。物珍しそうにしていた。
それもそのはずで、あの場所には何もない。フェンスと田んぼが広がるばかりだ。煙草を拾う、という目的がなければ、僕だって卒業まで縁がなかったと思う。
「先生、訊きたいことがあるんですが」
灰桐さんがマイペースに問いかける。佐野先生は腰に手を当てて、「なんだ?」と返事をしつつも、心ではうんざりとした声を上げていた。
『こいつらも火事の件か? どいつもこいつも、面白がりやがって……』
どうやら、先生は昨日から質問攻めに合っているようだ。
彼は火元を消した張本人に加え、生徒指導の担当でもある。後藤たちのことも含め、色々と訊かれているらしい。態度にはそれほど出さないものの、明らかに僕たちを鬱陶しがっていた。
しかし当然、灰桐さんは考慮しない。直球で尋ねる。
「先生、昨日のことで聞きたいことがあります。先生はなぜ、現場に駆け付けることができたんですか」
ほら見ろ、と言った表情をした佐野先生だったが、続く言葉に気を取られた。『なんだその質問は』という疑問に吸い込まれる。適当にあしらうつもりだったのに、その疑問に意識が傾いてしまい、頭に浮かんだ考えを質問の答えとして返していた。
「なぜって……、呼ばれたからだよ。火事が起きているから、来てくださいって。あぁそうだ、ちょうどこの辺りで言われて」
佐野先生はこの場を指差した。その言葉に、灰桐さんの目が細められる。後半はほとんど独り言だったが、灰桐さんはそれを捕まえた。
そして、僕が予想にしなかったことを口にする。
「ここで、梶木に言われたんですね。火事が起きてますって。先生は……、部活の帰りだったんでしょう?」
梶木に?
なぜ、ここで彼の名前が出てくる? それに、部活の帰りとは?
僕は困惑していたが、佐野先生は『あぁ、梶木から聞いていたのか』とすんなり納得した。事情を把握していると判断したのか、出てくる言葉も流れるようだ。
「あぁ、そうだよ。あのときは、急に言われたもんだからな、焦ったよ。最初は何かの冗談かと思ったが、あいつは血相を変えていたからな。実際に見て、俺もびっくりした」
力の抜けた笑みを浮かべている。笑うと、優しい顔つきになる人だった。
僕はとにかく頭を回転させる。
灰桐さんは、佐野先生から情報を引き出そうとしている。普通に聞いても教えてはくれないだろうから、カマをかけてでも。
それなら、僕もわからないなりに手助けしたい。心の声は変わらず聞こえるのだから、情報を引き出したい……、と考えていると、ある疑問にぶつかった。
特に意図があったわけではなく、ごくごく普通に尋ねてしまう。
「え、先生は梶木くんに言われて、美術室に行ったんですか? でも、先生はひとりで来たような」
昨日の記憶と差異がある。
あのとき、僕たちが野次馬をしている中に梶木が入ってきた。佐野先生がやってきたのは、そのあとだ。わざわざ別れて来る必要が感じられない。
すると、先生は何てことはないように答えた。
「一階で消火器を探していたからな。梶木が先に行って、俺があとから追いかけたんだよ」
なるほど、と思っていると、佐野先生ははっとした表情を浮かべた。校舎の時計を眺めて、慌てて口を開く。
「おっと、時間が……。先生はもう行くぞ。お前らも今すぐ帰れよ。もう暗いんだから」
そう言い残して、佐野先生は駆け足で職員室に向かった。
ふたり取り残された僕たちは、その場に佇む。既に辺りは真っ暗で、夜の空気が漂っている。こんな時間まで学校に残ることは、なかなかない。学校からはすっかり熱が失せており、明かりが点いている部屋もごくわずかだ。
「灰桐さ――」
灰桐さんに、さっきのやりとりは何だったのか、と尋ねようとした。彼女には明確な考えがあって、佐野先生に話を聞いていたように見える。
しかし、黙り込む彼女の横顔に、何も言えなくなった。
表情には何も感情は写さず、どこまでも深い瞳が前を向いている。頬に手を当てて、視線は一点に集中していた。しかし、そこには何もない。何もない場所を見ている。ぴたりと動きを止めているが、時折、ぎこちなく指が髪を巻いた。
彼女は集中している。
その横顔に目を奪われても、彼女からは何も聞こえてこない。
静けさを保ったまま、風の音が耳に響くばかり。暗くて何もない場所に、ふたりしてただ突っ立っている。だれかに見られたら不気味がられるだろうに、それでも僕は「もう行こう」とはとても言えなかった。
どれくらい経っただろう。
彼女の表情に熱が戻り始めて、血が通い出す。物言わぬ人形が、人に戻る。ゆっくりと動き出した。
そして、言うのだ。
「――思ったよりも、退屈しのぎにならなかったわね」
僕ははっとする。思わず、彼女に詰め寄った。
「灰桐さん、もしかして、全部わかったの……!?」
灰桐さんの物言いは、謎をすべて解明したかのように聞こえる。予想に違わぬようで、彼女はつまらなそうに頷いた。
僕は自分がにわかに興奮するのを感じつつも、このまま答えを聞くわけにはいかない、と思い直す。
軽く息を吐きながら、まずは先ほどの出来事を振り返った。
「灰桐さん。まず、さっきのやりとりの詳細を訊きたいんだけど。佐野先生にした話、あれは一体何だったの?」
僕と灰桐さんは、見ているものは同じだ。何なら心が読める分、僕の方がよっぽど情報量が多い。
けれど、佐野先生と灰桐さんのやりとりは不可解なものが多かった。
なぜそんな質問が出てくるのか、なぜそんな返答が出てくるのか。
その答えを、彼女は淡々と語った。
「昨日の火事、わたしは間近で見ていたのだけれど。少し不思議だったの。わたしは昨日の昼休み、旧校舎で食事をとったあと、美術室の前を通りかかったわ。そのとき、何人かの生徒が、遠巻きに美術室の中を見ていた。彼女たちは、次の授業が美術だったんでしょうね」
そこは僕も同じ光景を見ている。ただ、僕が通るより少し前なんだろう。僕が見たときには、だいぶ大騒ぎになっていた。
「昼休みが終わりそう、ということもあって、人はどんどん増えていき、火の勢いは強くなった。だけどだれも、わざわざアクションを起こそうとはしなかった。『先生に言った方がよくない?』なんて言いつつも、ここから離れるのを惜しむばかりで。せいぜい、火災報知機をおふざけのように押すくらい」
火災報知器を押したのは、あの場にいるだれかだったらしい。おふざけのように、と言うのもあながち大げさではなさそうだ。仲間内ではしゃぎながら、含み笑いをして押す姿が想像できる。
そこから先は、僕が見た光景と同じだろう。野次馬たちは危機感を覚えつつも、あの場から目を逸らせずにいた。だれか言った方がいいよ、と思いつつも、そのだれかに自分は含まれていない。面白そうな現場に目を奪われ、視線を外すことを嫌がっていた。
「そのすぐあとで、梶木、佐野先生が現れた。佐野先生はしっかりと消火器を抱えながら。……あまりにも迅速だと思わなかった? 火災報知器は鳴っていたけれど、火事がどこで起こっているか、本当に火災が起きているかはわからないでしょう?」
「それは、梶木が先生に言ったからでしょ? 火事が起きている、って」
だから、佐野先生はすぐに駆けつけることができた。そうさっき話していたではないか……、と考えて、あっ、と思う。
灰桐さんがその情報を得たのは、先生にカマかけをしたからであって、周知の事実ではない。灰桐さんはおかしいと疑っていて、それを確認したのだ。
彼女は前を見据えたまま、そっと続ける。
「わたしは元々、佐野先生はだれかに言われて美術室に来たんじゃないか、と仮説を立てていた。その相手が梶木かもしれない、と思い当たったのは、本当についさっき。わたしたちと佐野先生が、ちょうどこの場でぶつかったから」
「……?」
その意味がよく理解できず、首を傾げる。
けれど、灰桐さんはそのまま話を進めてしまった。
「わたしは昼休み、佐野先生がここを通りかかったんじゃないかと思ったの。さっきと同じよう、部活からの帰り道で。グラウンドから職員室に向かうためには、この旧校舎の前を通らなくちゃいけないから。結果は案の定だった」
実際に、灰桐さんは佐野先生からその言葉を引き出していた。
質問に答え終えたからか、彼女は黙り込む。
灰桐さんには、既にこの事件の仮説があった。それを確認するため、佐野先生から情報を引き出していたようだ。
そして、その仮説はこの事件の真実なんだろう。
「灰桐さん。僕にも教えてほしい。なんで、今回のようなことが起こったのか」
灰桐さんは答えず、空を見上げた。雲の合間に星が瞬き、月が存在を主張している。
それを見ながら、彼女は小さく息を吐いた。
「いえ、今日は帰りましょう。早く帰れ、って言われてしまったし。完全下校時間、過ぎてるのよ」
そんな、と声を上げそうになる。
ここまで来て、答え合わせはおあずけだなんて、あんまりじゃないか。
僕の気持ちなんて関係なしに、灰桐さんはすたすたと歩いていく。ぐっと、要求の言葉を飲み込んだ。
彼女が話したくないのなら、これ以上聞き出すことはできない。してはいけない。
灰桐さんとの付き合い方のコツは、決してしつこくしないこと。
彼女はもう、話す気はないのだ。なら、食い下がってはいけない。
心配なのは、これが今日だけの話じゃなく、ずっと話す気がなかったらどうしよう、という点だ。彼女が僕にわざわざ説明する義理なんてないのだし、面倒だったら教えてくれないかもしれない。
それでは本当に生殺しだ。しかし、僕ひとりで真実にたどり着けるとは思えない。
ひとり悶々としていると、彼女は足を止めて救いの言葉を投げかけてくれた。
「明日、答え合わせをしに行くわ。佐々木くんも、来る?」
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