第7話

 春が来た。僕は3年生になっていた。


 ただの感覚だが、中三は偉い気がする。小学校の6年生とはまた違う。小学生より中学生の方が縦社会が形成されているので、そう感じるのかもしれない。3年になってから見る新入生は幼く見える。中学という共同体にまだ慣れず、不安や怯え、好奇心に満ちているのだ。幼く見えるのは当たり前だろう、なにしろつい1か月前までランドセルを背負っていたのだから。


 塾の方では、僕は念願のÅクラス入りを果たしていた。まさかこんなに早く成績が上がるとは自分でも驚きだ。国語と社会は前から悪くなかったが、塾に通い始めて数学や理科の成績が上がり、一番良くなったのは涼ちゃんが受け持っている英語だった。英語は80点台が平均となり、場合によっては90点台も取るようになった。


 母さんは、僕の学力が上がったのを手放しで喜んでいた。すぐに塾に通わせ始めた自分の手柄だと、何度も僕に言い聞かせた。


「ほら私の言った通りでしょ。中二が一番大事なのよ。いっそのことサッカーも辞めちゃったら?」


 母さんに言われるまで考えなかったけれど、本当に辞めてしまうのも悪くない気がした。同じポジションに1個下で上手い奴が居て、レギュラー争いでやや押されている。それに、ウチのサッカー部は決して強くない。悠人がたまに選抜に選ばれているが、チーム自体は県大会にも出られないくらいの実力なのだ。


 その中で僕は補欠で、つまり何がなんでも最後までやり切る理由がない。それならば早く引退してしまった方が受験で有利になるというものだ。


 その上悠人の虐めは続いている。最近ではサッカー部の面々も悠人に加担するようになり、部での居心地が悪い。プレー中に激しくタックルされたり、反対にボールが全然回って来なかったりする。僕が使っているベンチに汚れた雑巾が大量に押し込められていたことがあった。他には会話に参加させて貰えなかったり。


 ただ部活を辞めるのには1つ問題があった。それは辞める理由だ。途中で部活を辞めることに対して、中学生は信じられないくらい敏感である。「厳しい練習が嫌になったから」などの芳しくない理由が辞めた日には、次の日から同部員から無視され、同級生に悪質な噂を流される。「意気地なし」・「情けない」・「元から不必要な奴だった」、など。


 普段は絆など誰も感じていないのに、辞めるのだけは断固として認めないのが中学の部活だ。それはきっと「今まで一緒にやって来たから」というポジティブな理由じゃなく、自分達が見捨てられた・嫌になったと感じる気持ちの方が勝ってしまうからだ。


 僕はその時将吾を思い出した。人はいつだってネガティブな側面に捉えられてしまう。相手が本当はどう考えているかなど、あまり意味が無いのだ。


 僕は部を辞める口実を探し始めた。すると、思い掛けずその理由が舞い降りてきた。新入部員が入ってきて、ゴールデンウィークに突入する直前のことだった。ゴールデンウィークには複数の中学との練習試合が組まれていて、夏に向けての試金石となる期間だった。


 僕はその日も部活に行こうとしていて、昼休みに廊下ですれ違った顧問の岡崎に持ち掛けられたのだ。「淳史、今日練習に行く前に職員室に寄ってくれ。話がある」、と。


 僕は気が気じゃなかった。何故その場で話さないのか。時間の無駄だと思っていた。


「失礼します」


 職員室の中に入る。職員室はいつ来ても慌ただしい。先生がひっきりなしに動き回り、勉強や受験の相談をしに来た生徒が神妙な面持ちで話している。


 岡崎のデスクは4列に睨んだ島の、右から2番目の中央辺りだった。「岡崎先生」と呼び掛けると、こちらを向いた。「おう、こっちへ来い」と気怠そうに自分の方に手招きした。


「悪いな、練習の前に」


 岡崎は少しも悪くなさそうに言う。


「いえ。……で話って何ですか」


 余談するのも面倒なので直球で聞く。職員室は何年になっても長居したくない場所だ。此処の居心地は卒業してからでないと良くならないだろう。


「ああ。部活の話なんだが……」


 岡崎は何だかもったいぶっていた。そもそも呼び出された時点でサッカーの話だとは分かっている。岡崎は僕の学年の授業を受け持っていないのんだ。早く本題に入って欲しかった。


「淳史、お前マネージャーに転向しないか」


「え」


 僕は驚いた。


「いやな、3年の女子マネージャーが卒業しただろ。で、今は1年のマネージャーが1人だけだ。もう1人居ないと部が回らないと思ってな」


 全くの予想外だった。僕はプレーの話をするものだとばかり思っていた。確かにマネージャーは少なくなった。去年までは1つ上の女子マネージャが2人居て、バランスが良かった。


「あの、えっと話は分かるんですけど。どうして僕が……」


 岡崎は芝居掛かった様子で俯く。


「うむ……。実は少し前にチームの中心メンバーと話し合ってな。キャプテンの中森や岸、悠人達だ。そこでマネージャーの話が出たんだ、『ウチのチームが強くなるにはもう1人マネージャーが必要です。強いチームはしっかりチームが管理されています』ってな。そう言うんだよアイツらが」


 僕の顔は歪んでいたことだろう。


「そ、それで、何で僕なんですか。他にも候補は沢山、」


「お前の言いたいことは分かる」


 岡崎は僕の話を遮った。


「それもアイツらが言うんだよ、お前が適任だって」


「は?」


「お前は3年で部員を全員知っているし、献身的だ。マネージャーを任せられるのはお前しか居ないんだと。アイツらはお前を高く評価しているんだよ」


 この男は悠人達の言葉をそのまま信じたのか?


「それに2年の高井が育ってきてるから、安心してポジションを明け渡せるんじゃないか?

 勿論あれだぞ、現時点では俺はお前がレギュラーだと思っている。でもアイツはまだ2年だからな、そこの所の伸びしろも踏まえた上でだ。……どうだ?」


 僕の顔は重力に負け、自然と地面に向いていた。


 惨めだった。苛ついていた。悠人達が僕をマネージャーに推薦したのは明確な悪意だ。悠人は、最近僕が虐めに慣れてきていることに気付いていた。次なる嫌がらせを考えていたのだ。


 それにこの岡崎。岡崎は現時点でお前がレギュラーだと思っていると言った。


 馬鹿馬鹿しい。口から出まかせも大概にしろ。お前は試合で高井を使い、練習でもアイツに付きっ切りじゃないか。岡崎が高井を育てようとしているのは明らかだった。


 吐き気がしていた。


 大人はそれを社交辞令や気遣いと言うのかもしれないが、今の僕には気味が悪かった。そんな見え透いた嘘を言われるくらいなら、「高井を優先する」とハッキリ言われた方がマシだった。そんな嘘で誰が納得するというのか?


 岡崎が「現時点ではお前がレギュラー」と言ったのは、優しさでもなんでもなく、自分が悪者になるのを避けたかっただけだ。そもそもコイツは、悠人達の悪意に気付いているのだろうか。僕を陥れようとしている彼らの悪意を。


 僕は今すぐ岡崎のデスクの上を無茶苦茶にし、怒鳴り散らかしたい気分だった。


「……嫌だ、と言ったらどうなりますか」


 岡崎は嘆息した。


「当然お前にはその権利がある。断る権利がな。ただ俺の方針を先に伝えておくと、お前が部に残ってもレギュラーにはなれない。そう思っておいてくれ」


 どういうことだ? 現時点では僕の方が上なのに、今後レギュラーとしては使わないと明言された。意味不明だった。使わない可能性が高い、ならまだしも、ハッキリとコイツは言った。ならば僕が部に残るならマネージャーになるしかないではないか。コイツは暗にそう言っているのだ。


 気持ち悪い。


 そこで、堪忍袋の緒が切れた。


「分かりました」


「おお、分かってくれたか。淳史、ありがとう」


「いえ。部を辞めます」


 そう言って僕は岡崎に背を向けた。


「お、おいっ。淳史、待てっ。淳史っ」


 岡崎の呼ぶ声がした。が、僕は立ち止まらなかった。何が何でも止まりたく無かった。僕を止めたいならお前が追って来い、と思っていた。


 入口の扉を、思い切り閉める。職員室が小さく揺れ、中の人が動きを止めるのが分かった。廊下を歩いていた2人の女子は、出て来た僕を見て身を竦ませていた。


 いつも周囲の目を気にして、廊下の端を歩く僕だが、その時は何も気にしなかった。「何見てんだよ、俺の何が悪いんだよ」という黒い感情が僕を支配していた。


「先輩、ちっす!」


 途中で2年の高井とすれ違ったが、何も言い返さなかった。そのまま、校舎を後にした。

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