第8話

「そっか、辞めちゃったんだサッカー」


「うん。まあサッカーなんて遊びだったし良いんだよ。それより受験の方が人生にとって大事でしょ」


「淳史君は現実的なんだね」


「いつまでも夢見てられないからさ。サッカーでプロを目指してるならまだしも、ウチの学校で本気でプロになろうなんて思ってる奴なんて居ないんだ。だったらちゃんと将来を考えた方が良いからさ。先生もそう思うでしょ?」


 塾にて。


 3年になっても僕は居残り勉強を続けていた。母さんからは「他の教科を頑張れば良いのに」と言われた。英語は高得点を取っていて、理科や数学はまだ平均70点くらいだったからだ。だが、居残る理由があるからこの日に残っているのだ。他の教科で居残るくらいなら、家で勉強した方がマシだった。


「でも淳史君のサッカーしてる姿見てみたかったなあ。上手だったんでしょ」


「そこそこね」


 僕は涼ちゃんに、サッカーを辞めた理由を偽っていた。マネージャー云々、悠人達云々が言わず、受験の為だと報告していた。更にはサッカー部でレギュラーだった、中心メンバーだったと言っている。どうせバレないと、高を括ったのだ。


 それを涼ちゃんに言った時、胸の裡でもやっとした感情が蠢いた。けれど前言を撤回することはなかった。別に「人にやられて嫌なことじゃないし」、誰にも迷惑を掛けない。


 どうせ皆自分を正当化して生きているのだ。親だって、先生だって、誰だって。


 僕が言った嘘なんて可愛いもんだろう。


「じゃあいつか見せてね。受験が終わったら」


 涼ちゃんが僕の顔を覗き込んでくる。その仕草に僕はまだ照れてしまう。けれど、赤面はもうしなかった。


 僕は、涼ちゃんのもっと他の一面を見たいと思うようになっていた。涼ちゃんの声、微笑、話し方、仕草、服装。全てが僕を誘惑しているように感じてしまう。例えばこんな時――。


 僕は消しゴムを落とす。


「あっ。淳史君ってさ、よく物落とすよね。周りをちゃんと見てないと駄目だよ」


 涼ちゃんが椅子から降りて消しゴムを拾う。僕はその姿を目で追う。涼ちゃんは今日はミドル丈の薄紫のスカートを履いている。


 涼ちゃんが屈んだ。スカートの内側、白い太腿が見え、更にその奥。サテン素材のシルバーのパンツが見えた。僕の眼はその部分に釘付けになった。


「淳史君」


 その声で僕は涼ちゃんのパンツから視線を外す。涼ちゃんを見た。


 涼ちゃんは僕を見上げている。それから、目を細めて笑った。


「はい。もう落としちゃ駄目よ」


 涼ちゃんの薄い唇が光る。


 やっぱり涼ちゃんは僕を誘っているとしか思えない。



 梅雨が過ぎていき、夏休み。


 僕の学力は順調に上がっていて、塾に入った頃と比べて見違える程だった。


 中の下くらいの高校しか受からないと言われていたが、今では県内で3番目の高校に手が届くと言われている。特に英語の成績は抜群で、僕は真剣に英語を生かせる仕事に就こうかとまで考えるようになっていた。英語の教師か、通訳か、それともグローバルに活躍する企業か。


 兎に角これには母さんは大喜びで、「今はグローバルな時代だから。母さん応援するわよ」と興奮していた。


 塾に通わせられると聞いた時は憤ったが、今となっては感謝している。勉強の成績は上がり、涼ちゃんとも知り合えた。涼ちゃんとは今の所ただの先生と生徒という関係であるが、あまり深く考えないようにしている。直接聞いたわけじゃないが、涼ちゃんには彼氏が居なさそうだし、何より僕自身涼ちゃんとどんな関係になれば良いか分からない。僕はまだ女子と付き合ったことが無かった。


 中三にもなると、校内で付き合い出す奴が増えてくる。中一で付き合うのは学年で一番目立っている奴だけで、二年で付き合うのはその取り巻き達、三年でやっと一般の生徒達にその門戸が開かれるのだ。何となくそういった風潮があった。目立っていない奴が中二とかで付き合い始めると、馬鹿にされてしまう場合がある。現に科学部で体重が100キロある4組の田西と図書委員で三つ編み・銀縁眼鏡の今村が付き合った時、同級生達はこぞって彼らをいじった。


「アイツらが付き合うとかマジ笑い種じゃね?」


「超ウける。デートとか何してんの?」


「何でお互い好きになったんだよ。相手の何処が良いんだよ」


「でもまあある意味お似合いか。俺なら今村と手も繋がないけど」


 初めの内同級生らは彼らを何かといじっていたが、1か月もすると皆止めた。1軍の女子達が2人を祝福する雰囲気になり、それからは寧ろ彼らは校内で公認のカップルとなった。中には彼らに恋愛相談をする者達が出て来たくらいだ。今でも彼らは付き合いを続けていて、お昼の弁当を中庭のベンチで仲良く食べるのを僕は数日前に目撃していた。


 彼らをいじっていた者達に残ったのは、「アイツらでさえ付き合い出したのだから自分も」という焦りだけだった。同級生達は、彼らを馬鹿にすることで先を越された動揺を隠そうとしていただけだった。


 喉から手が出る程待ち詫びていた夏休みだ。僕は例年になく夏休みを楽しみにしていた。僕が引退したサッカー部は市の予選で3回戦で敗れ(県大会上位を目指していた。去年は準決勝まで行っていた)、僕は内心ほくそ笑んでいた。ざまあみろ。僕をゾンザイに扱った罰だ。いい気味だった。


 それに悠人達の嫌がらせからも逃れられる。僕に対する虐めはマンネリしつつも続いている。学校にさえ行かなければ、虐めから離れられる。そのまま虐めのことなんて忘れて、来学期には何も無かったようになっていれば最高だ。


 なにより僕が夏休みを待ち望んでいた理由は、塾の夏期講習だ。週5で塾に通い、朝から夕方までみっちり勉強する。それだけ涼ちゃんと長い時間居られるので、僕は嫌じゃ無かった。勉強が嫌じゃないなんて生まれて初めてだ、こんな日が来るなんて思ってもみなかった。


 海の日が終わって夏休み一週目。海なんて行ってないし今後も行く予定は無いけど、僕の心は炭酸ジュースみたいに弾けていた。太陽は眩し過ぎて見えず、空はペンキで塗ったみたいな青で、雲には砂糖の味がしそうな光沢がある。


 歩いていると、すぐに汗が出てきた。アスファルトは火傷していて、時折道端に蜃気楼が現れる。僕は駆け足で塾に飛び込んだ。早く涼ちゃんに会いたかったし、冷房の効いた場所に行きたかった。


「こんにちは」


 塾の講師達に挨拶し、Åクラスに向かう。同じ内装の筈だけどÅクラスは高潔な気がしている。窓や机の備品も綺麗に見え、それはクラスの生徒達も同じだった。選ばれし者達みたいな雰囲気が出ている。


 Åクラスに居るのは進学校の生徒か、私立の生徒、あるいは効率で成績上位の子達ばかり。そのÅクラスに居る僕もやはり選ばれし者であり、僕はこの塾の中ではカーストの上位に位置しているのだ。当然ながら塾内に虐めなんてものはない。虐めなんてのは教養の無い者がやるのだと、僕は塾に通い始めて知った。


 エレベーターを降りて廊下に出る。Åクラスの入り口が見えてきた。中からは誰かの話し声がしている。この塾では僕は皆と同等で、多くの話し相手が居る。向野中のトモキだろうか、と中に入ろうとした時だった。


「淳史っ!」


 僕は振り返った。


「よう、やっぱり此処に居たんだな」


 悠人が、何故か立っている。


「え、な、何で悠人が此処に……」


 頭が真っ白になった。何故悠人が此処に居るのか。迷い込んで来たのか。それとも僕を追って来たのか。まさか悠人は。


「今日から俺もこの塾に通うことになったから。宜しくな」

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