第43話 永訣

 ヘラルドが倒れてから何日かに一度、医者がこの小屋まで往診に来てくれていた。

 今日はちょうどその日。


 いつも通り、なにか痛いところや苦しいところがないかをヘラルドに聞いたり、身体の隅々までを確認したりしていた。診察が終わり、医者は変わったところはないことをわたしたちに告げた。その言葉に安堵して、ひとつ息をつく。よかった。ヘラルドは、まだまだ大丈夫だ。数口だけど、マリトッツォも食べていたし、会話もしっかりできる。


 そう思っていた。……言い聞かせて、信じていた。


「それでは、私はそろそろ、街に戻りますね」

「分かりました。先生、本日もありが――ヘラルドさん?」


 ここから街へ徒歩で戻るのは時間がかかるため、医者が診察の片付けをして帰ろうとしていた。それをクレツィオが見送ろうと椅子から立ち上がったけど、なにかに気が付いて足を止めた。

 医者の方に向いていた視線をヘラルドに動かすと、いつもよりも呼吸が荒い気がした。ついさっきまでは、こんなふうではなかったはず。医者もそれに気が付いて、すぐにベッドへと駆け寄った。


「ヘラルドさん、聞こえますか! ……反応はあるが、これは……。すぐに処置を開始します」

「っお願いします!」

(えっ……え?)


 目の前で行われていることに、頭が追いつかなくて真っ白になる。なんでこんな医療ドラマみたいなことが起きてるの?

 少しの呼吸の荒さだったのが、どんどんと大きくなる。医者は魔法も使って、ヘラルドの異変に処置を施した。

 少しすると、その呼吸も落ち着き、いつものヘラルドに戻った。ように見えていただけだった。


「なんとか持ちこたえましたが、予断を許さない状況です。今夜を超えられるかどうか……」

「そう、ですか……」

「今日はこのまま小屋に残りますね」

「ありがとうございます」


 予断を許さないってなに……? ヘラルドは、今夜どころか、明日も、明後日も、ずっとずっと、わたしと一緒で……。

 そう考えていたら、医者と話し終えたクレツィオがわたしの傍までやってきて、頭に触れてくる。その手はとても冷えていた。


「……ヨリ、覚悟しておこう」

(覚悟、ってなに? だって、さっきまで、普通で、先生も問題ないって言って、なのに……)


 ヘラルドの顔を見る。苦しそうな顔はしていないけど、どこか顔面蒼白といった感じだった。その状態が、医者が大袈裟に言ったわけではないと、わたしに示してきた。


 この辛い状況を見ていたくなくて、小屋から顔を出し森の方を向いた。

 ヘラルドとは毎日顔を合わせていた。だから、それほど気にならなかったのかもしれない。


(もう、あんなに、おじいちゃんだったんだね……っ)


 今のこの現実を改めて思い知らされて、涙がボロボロとこぼれる。

 太陽はもう傾き始めていて、世界がオレンジ色に染まりかけていた。


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 ひとりで泣きじゃくっていたら、辺りはすっかり真っ暗になっていた。

 もう夜だ。だから、きっと、ヘラルドも大丈夫。一時的に身体がびっくりしただけで……。

 そう考えていたら、小屋の中からわたしを呼ぶ声が聞こえた。


「ヨリっ!」


 クレツィオだった。今までに聞いたことのないくらいの大きな声。わたしはすぐに小屋の中へと顔を入れると、ヘラルドが目を覚ましていた。

 その様子を見て、ホッと胸をなで下ろす。なんだ、やっぱり大丈夫だったんだ!


(ヘラルド!)

「ヨ、リ……?」

(っ!)


 ヘラルドは弱弱しくわたしの名前を呼んだ。

 大丈夫、なはずなのに。昨日まで、なんともなかったのに。


「ヨリ……? どこに、いるの……?」

(どこって……)


 わたしが小屋の中に入れるのは、この窓からだけ。なにより、今ヘラルドの目の前にいる。

 なのに、どうして、どこに、なんて聞いてきたのかと、疑問だった。けれど、すぐにハッと気付く。もう、ヘラルドの目は――。


 もしかして、本当にお別れになるの……?


 ようやくその現実に向き合ったことで、嫌だとか、ヘラルドはまだ生きるんだとか、いろいろな思いが脳内を駆け巡る。


「、ヨリ……?」


 ヘラルドは、もう一度わたしの名前を呼びながら、なにもない宙に手を彷徨わせる。わたしは思わず涙がこぼれそうになるのをこらえて、その手に鼻先を軽く擦り付けた。


(っわたしは、ここにいるよっ! すぐ近くに!)


 ベッドの向こう側で、クレツィオと医者がなにかを話しているようだけど、不思議なくらいになにも聞こえてこなかった。ヘラルドの声だけが、鮮明に耳に入る。


「ほんと、だ……ヨリの、こえ、だ……」


 そう言って力なく笑うヘラルドに、また泣きそうになるのを我慢して、何度もうん、うん、と返事をした。


 たとえ、もう見えていないとしても、ヘラルドの目に映る最後のわたしは笑顔であってほしい。きっと変な顔で笑っているはず。それでも、悲しい顔が記憶に残るよりはいいと思うから。

 添えられているだけだったヘラルドの手が、ゆっくりと鼻先を撫でる。撫でるというよりは、なんとか動かしているという方が近かった。


「ヨ、リ……」

(うんっ、なに?)

「……ずっと、ずっと……おれの、そばに……いて、くれて……ありが、とう……」


 そう言い終わったあと、ヘラルドの手がわたしから離れて、ベッドにだらんと垂れた。


(ヘラルド……? っヘラルド、ヘラルド!)



 その手がわたしを撫でてくれることは、もう二度となかった。

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