…………10-(4) 

 翌朝、早めにやってきた渚に、深沢となつめは朝食の準備をしながら、エルナンが旅立った事を伝えた。渚は大きな溜息を吐くと、辛そうに押し黙った。気になったのかユーゴとヨハンも早くにやってきた。

「そうか、もう旅立ったのか」

 ユーゴは少し寂しそうに溜息を吐いた。

 早朝───。珍しく部屋のドアを叩く音に、深沢となつめは驚いて飛び起きた。ドアを開けると、そこにはすでに用意を整えたエルナンが立っていた。なつめは驚いて駆け寄った。

「えっ、エルナン? その恰好もう行くの?」

「…早くに悪いね。皆の顔を見ると、決心が鈍るから…」

 笑っているエルナンの腕を掴んだなつめの表情に、深沢はなつめの肩を叩いた。

「なんだが、すっきりした顔だな」

「…うん。僕は僕の場所に行くよ」

 エルナンは渚の部屋の方角を見ると、まだ眠っているだろう渚を思い出して、唇を噛み締めた。

「エルナン!」

 なつめが強く抱き締めると、エルナンもその背中を優しく抱き締めた。

「これは別れじゃない。かなり休んだから、休みはいつ貰えるか分からないけど、僕は此処に帰って来るよ。此処には大切な人と仲間がいる。それは変わらない」

 涙を浮かべたなつめは、エルナンのなかに大きな輝きを感じ、その眩しい笑みに吊られるように笑みを浮かべた。

「アスタ ラ ビスタ!」

 また会おう。そう言って背を向けて去っていくエルナンを見送った。きっともっと大きくなって帰ってくる。深沢は慌てて一階まで追い掛けて行くと、エントランスホールには、鷹東と静流が待っていた。空港までは送ってくれるらしく、深沢は安心して任せた───。

「同じ舞台でまた踊れるといいな…」

 俯き加減のなつめの頭を撫でると、驚いたように深沢の顔を見た。

「そうだね。…うん」

 皆の視線は、押し黙ったままの渚に向けられた。ただ目を閉じて何かを考えている渚に、コーヒーカップに入った日本茶を飲み終えたヨハンは、そっと渚の腕を掴んだ。

「………」

 渚は隣に座るヨハンを見て、その温かな眼差しに、苦笑いを浮かべた。

「そんなに寂しいなら、添い寝してあげようか?」

「………」

 渚はピクッと眉を寄せると、口許に笑みを浮かべた。

「ヨハン、君が?」

「あぁ…」

 大真面目な顔で大きく頷くから、余計に遊ばれている感が増してくる。渚は目を細めて、

「やめておくよ。蹴られそうだ」

「そのほうが刺激的でいいじゃないか!」

「…朝から、下ネタかい?」

 うんざりとした視線を向けられ、ヨハンは視線をなつめに向ける。向けられたなつめは、思わず逸らした。

「でも、心配じゃないか? 元鞘ってのもあり得る」

「君は、いつからそんなに日本語が堪能になったんだい?」

 渚の反撃に、ヨハンは視線を逸らした。

「どうして、君はいつも話をややこしくするのかな…」

 渚の鬱憤の矛先がヨハンに向くと、皆して安心したように溜息を吐いた。結構な下ネタの言い合いに、なつめが顔を赤くしていると、

「やっぱり寂しいんじゃないか」

 ヨハンの楽しそうな笑みに、渚はクッと可笑しそうに笑った。

「あのね。離れてるほうが、会った時、萌えるんだよ!」

「………」

 反論出来なかったヨハンは眉間に皺を寄せ、

「君のほうが、よっぽど下ネタだ」

「………」

 やっと黙った二人に、なつめは大きな溜息を吐いた。

 リビングのドアが開くと、小春が礼央奈と一緒に入ってきた。

「エルナンは行ったみたいね。さっき連絡があったわ」

 妙な雰囲気の部屋の様子に、

「なに? いい男が揃いも揃って、何してるの?」

「………」

 今までの下ネタの話に、皆が押し黙った。なつめは食べ忘れていたプチトマトを見つけて、慌てて口を開けて食べようとしたが、口には入らず、テーブルの上を転がっていく。その様子を皆で眺めた。

「何をしているの?」

 小春が眉間に皺を寄せると、礼央奈が呆れた視線を向ける。

「男が揃って話す会話なんて、下ネタ以外に何があるんですか」

「………」

 小春は呆れた溜息を吐き出すと、

「深沢カンパニーのイベントまで日がないのよ。遊んでないで、さっさと仕事をしなさい!」

「…はい」

 小春に叱られ、それぞれが立ち上がった。


 深沢カンパニーの記念日には、いろんな取引先を招いて、重役が接待するこの会社独特の昔ながらのやり方があった。意外にも、好評で各階に立食形式で食事も出来るようにしている。社員は家族を連れてきて、食事だけして帰るのも自由だった。古い付き合いの取引先からは、ホールでの演奏会はしないのかというリクエストも多かった。最近は接待がメインとなり、音楽を聴きに来るって感じではなかったため、演奏会はずっと出来ないでいた。

 汀子はいつものスーツ姿ではなく、珍しくドレスアップした装いで重役と話していた。誰から聞いたのか、深沢と会ったその日の晩───。家に帰ると、澤生さわおが玄関に走ってやってきた。

「お兄さんが、会社に来たんだって!」

「澤生、走らないで。転ぶから…」

 すぐ後ろから同じように走ってきた息子の塔矢とうやが案の定転んだ。泣きそうな顔をじっと見つめると、思わず泣き止んだ。

「………」

 汀子はカバンを澤生に渡すと、

「あぁ、今度の記念日に、お願いしといたわ」

「何を…?」

「知らないわ」

「えぇ! じゃあ、記念日なら、僕も塔矢も行っていいんだよな。行くよ!」

「来るなって言っても来るんでしょ?」

「当たり前じゃないか…」

「………」

 なら聞かなきゃいいのにって、眉間に皺を寄せると、塔矢がじっと見ている。顔は兄にそっくりだが、深沢はこんなふうだっただろうかと、思わず見つめてしまった。

 幼い頃、忙しい両親の後ろ姿を黙って見つめていた。寂しいなんて言えなかった。汀子は会社の隅でひとり宿題をしていたのを思い出した。

 深沢はと言えば、ずっと迎えが来るまで待っていた。ユーゴや乳母と一緒に居られることを羨ましく思っていたことはあったが…。今思えば、兄が会社に寄りつかなかった理由が少しだけ分かった気がした。もしかしたら、汀子自身も同じ事をしているのだろうかと、塔矢を見つめる。

「………」

 言葉が出てこない。汀子は自分がはっきり言い過ぎる癖をよく分かっている。だから、余計に息子に対して、言葉を躊躇してしまう。そんな二人を不思議そうに眺めていた澤生は笑みを浮かべると、

「汀子さん、おかえり」

「あぁ、ただいま」

「おかえり」

 塔矢が呟いて、リビングに戻ってしまった。澤生は汀子の腕を引っ張ると、

「今日は塔矢とカレーを作ったんだ」

「あぁ、そう」

 昼に食べたと言いたかったが、いつもそれを言ったら、塔矢が号泣するのでもう言わなくなった。

 記念日の朝。いつも掛けているスーツがなくなっており、ドレスアップした服がかけてあった。これを着て行けという強制だが、抵抗するのも時間の無駄と判断した汀子は仕方なくそれを着た。

「やっぱり、それ似合うな」

 澤生は嬉しそうに何度も頷いた。ハーフかってよく聞かれる茶色の髪と大きな目。普通にしていれば整った顔立ちは、それなりにいいのだが…。クルクルと愛くるしい程豊かな表情が汀子は苦手だった。小学校からの付き合いだが、全く変わらないその容姿に感心さえする。朝ご飯を食べていた塔矢は、汀子の姿に、驚いたようにすぐ側までやってくると、

「ママ、綺麗っ!」

「あぁ、ありがとう」

 褒めてもらったので、思わず笑みを浮かべたらしい。それから塔矢は、汀子の手を繋いだまま離さなかった───。

 重役たちは珍しい光景に笑みを浮かべ、社員は驚いていた。鋼鉄の女社長というイメージが出来上がっている事は自分でも知っている。

 その後ろを楽しそうに歩いている澤生に、皆が話しかけている。元々、人懐こくてもの動じない性格は、意外にも内輪にも、外周りにも受けは良かった。仕事は並でも、そういった所で乗り切っている所が抜け目ない。

 前日に、SONAイベントスタッフが玄関ホールを見事なまでの演奏ホールに変化させた。深沢となつめのダンスも披露してもらえるみたいで、十分な広さと、一階と二階ホールに客席まで用意してくれている。ふと視線をホールの外へ向けると、沢山の社員や知らない人がいる。

「平日なのに、こんなに賑やかな記念日はないわね」

 澤生は可笑しそうに見ると、

「それ程、お兄さんたちの人気が高いってことだろう。うちのイメージアップになって、結果オーライ」

「………」

 澤生の果てしない深沢愛に、汀子は溜息を吐いた。

 お昼の食事も終わり、そろそろ深沢達がやってくるだろうと、ロビーに降りると人はもっと増えていた。

「…なんか凄い事になってない?」

「…あ、礼央奈がいるわ」

 汀子は一つ頭が飛びぬけた礼央奈に向かっていくと、気が付いた礼央奈が振り返った。

「汀子、御機嫌よう」

「ねぇ、凄い事になってるけど、これどうするの?」

「あぁ、いつもの事です。さっさと片付けますので、ちょっとお待ち下さい」

 受付嬢が歩いてくると、汀子に頭を下げて、

「社長、社員もかなり来ていますので、社員は各階に上がって貰っていいですか?」

「でも、これを聴きにっていうか、観に来ているのよね?」

「はい。予想される混雑らしく、既に各階とホールの外側にも、大型のテレビとスピーカーを用意して下さっています」

「凄い対応だわ…。分かったわ」

 笑っている礼央奈に、

「兄さんたちは?」

「外のバスのなかで待機しています。曲毎に着替えが必要なので場所がなかったんです」

「凄いのね…」

「えぇ、楽しんで下さい」

 人々が移動して、一階と二階の客席に、重役と取引先のお客が座り談笑していると、バスから渚とヨハンが下りてくる。

 ヨハンは派手な紫色にシルバーの模様の入った燕尾服、優雅な足取りでヴァイオリンを抱えている。渚の長いサラッとした前髪に切れ長の黒い目、落ち着いた光沢のあるシルバーの燕尾服に、青のスカーフは清潔感があり、二人の存在感が人の視線を奪っていく。

 ヨハンと渚はピアノの側に立ち、真正面の客席に座っている汀子に視線を向け、優雅に頭を下げた。汀子が頭を下げると、全てのテレビに電源が入り、ステージの映像が流れる。汀子は受付を陣取り、笑みを浮かべている礼央奈を見つめた。

「うちにスカウトしたいくらいだわ…」

 ヨハンが弓を構え、その場に緊張感が漂うと、

「………」

 二人の演奏が始まった。二人の代名詞にもなりそうな『パイレーツ オブ カリビアン』の曲目は、HP上でも再生回数が多い、人気楽曲となっている。二人でより高度な編曲にしており、観客の心を鷲掴みにする手口は、ヨハンのヴァイオリンがより際立っているからだ。そのヨハンのヴァイオリンに、重なるように澄んだ渚のピアノの音が心に響く。切なくて、瞳を閉じている人もいる。ヨハンの表現とその音色を誰よりも理解している渚だからこそ成せる業であり、その音は共鳴するように複雑な響きを奏でる。ホール全体がその音色に心を奪われた。

「………」

 演奏が終わると、盛大な拍手に二人は優雅に礼をした。

 バスのドアが開き、外の会場がざわついた。深沢が歩いてきているのが見える。オープンにしている玄関を入ると、観客が振り向いて見ている。ひと際目立つその容姿とオーラに、汀子は口許に笑みを浮かべた。

「お兄さんだよ! カッコいい!」

 澤生の能天気な呟きに、汀子は隣に座る塔矢を見た。深沢は汀子を見つけると、真っ直ぐにやってくる。澤生が嬉しそうに立ち上がった。

「お兄さん! お久しぶりです!」

「おおっ…」

 どう反応しようか、困ったような視線を汀子に向けたが、あっさりと無視した。そっと深沢の後ろから現れたなつめを見て、ビクッと目を見開いた。

「………!」

 深沢のシャツと同じピーコックブルーに孔雀の羽根をつけた美しい衣装に、綺麗に化粧したなつめの顔を凝視した。どちらかといえば、この前会った普段の彼のほうがもっと中性的だった。凛とした美しさが伺え、深沢の纏うオーラとは違い、太陽のような眩しさだった。それは深沢よりも強く輝いている。

「…前言撤回するわ」

「えっ? なにが?」

 なつめは目を丸くすると首を傾げた。笑っている汀子の側の塔矢に視線を向けると、

「うわぁ! 可愛いっ!」

 なつめは衣装を掴むと膝をついて、塔矢と視線を合わせる。確かに深沢そっくりだった。塔矢は不思議そうに深沢を見上げ、なつめに視線を向けるとピタッと抱きついた。

「あれ?」

 抱きつかれたなつめは動けずに、汀子を見上げる。

「綺麗な人を見ると、抱きつく癖があるのよ。手が早い所もそっくりでしょう?」

「おいっ…」

 深沢が眉間に皺を寄せると、小春がちなつを連れてやってくる。

「あら? ちょうどいい子がいるじゃないの」

 ちなつを振り返り、なつめに抱きついている塔矢を見た。

「深沢さん、お子さんをお借りしても?」

「はい、どうぞ」

 即答した汀子に、人見知りのある塔矢は飛び上がって驚いた。

「ちなつ、教えてあげてね」

「…分かった。じゃあ、行こう」

 強引になつめから引き剥がすと、舞台袖に連れて行ってしまう。

「さすが、女の子…」

 澤生が感心していると、深沢はなつめの肩を抱くと、ホールの側に向かった。一瞬にして切り替えると、二人は真剣な表情でヨハンと渚を見る。小春とちなつと塔矢がタンバリンを叩き始めた。ちなつに合わせて、塔矢が必死に叩いている。

 

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