…………10-(3)
渚とヨハンはその光景を眺めながら、お互いに軽くウインクをすると、表情を切り替えた。渚は瞳を閉じ、ゆっくりと鍵盤を撫でた。『パイレーツ オブ カリビアン Duvy Jones』を弾き始める。
「………」
ざわざわとしていたホールが一瞬にして静まり返る。澄んだ音がホールに響き、木漏れ日のなか、ピアノを弾く渚の姿を見つめた。俯き加減でサラッとした髪が緩やかに揺れる。皆の視線を一身に受けても、目を閉じて、自分の世界に入り込んでいた。一音一音が沁み渡り、心を洗い流してくれるかのようだった。
その音に寄り添うように、ヨハンのヴァイオリンの音色が重なる。その繊細な音色に、誰もが食い入るように見ている。ヨハンの浮かべた笑みに、女性社員は魂を抜かれたように立ち竦んでいる。
穏やかな曲から、ヨハンの表情に緊張が走ると、次の瞬間、雰囲気がガラッと変わった。二人の音の絡みによって、鳥肌が立つほど引き込まれる。ヨハンの遊びと悪戯に、渚は笑みを浮かべながら崩されることなく、自分のペースに引き戻す。三曲ほどを一気に演奏し終わると、ヨハンが弓を下した。
「うわああ!」
大歓声に二人は肩を竦めて笑みを浮かべた。その満足そうな顔に、小春は可笑しそうに笑った。
「あの二人は完全に楽しんでいるわね」
「本当についていけないな」
「まったく」
ユーゴと檀の溜息に、汀子は詰めた息を吐き出した。
「凄いわね…、彼らは?」
「あぁ? うちのメンバーだが…」
ユーゴの言葉に、深沢はいつの間に? と問い掛けの視線を送った。汀子は腕を組んで何かを考えていた。
「兄さん…」
深沢は嫌な予感を感じて眉間に皺を寄せた。
「なんだ…」
「二週間後、うちの記念イベントをするのよ。お願いするわ」
「えっ!」
汀子の一言に、周囲がざわついた。深沢はチラッとなつめを見ると、飛び上がって目を見開いた。ユーゴと視線を合わせると、すでに笑っている。
「いいじゃねえか。そう言った事なら、椎葉と潤子に連絡だな」
「…そうだな。じゃあ…」
検討しておくと伝えようとしたが、既に汀子は礼央奈と話し込んでいる。
「あいつ…」
「相変わらずの女王様っぷりだな」
ユーゴが吹き出して笑っている。
「なら、配置や演出の段取りもしないとね。あのステージは邪魔だわ」
「えっ、なに!」
いきなり仕切りだした小春に、なつめはその腕を引っ張った。
「なに? 舞台監督がいるでしょ」
「どうして、母さんなんだよ」
「適任でしょ? あなたたちは自分の事に専念できるし、舞台は私と礼央奈で仕切れるわ」
「………」
確かに、総まとめ役が出来る者がいればいいと、ユーゴと深沢は話し合っていた。棚からぼた餅だが、小春と礼央奈の最強コンビに全てを任せていいのか不安が正直ある。
「文句のあるものは?」
「…いません」
深沢とユーゴは白旗をあげた。
なつめは大きな溜息を吐くと、そっと視線を横に向けた。
「……っ!」
静流がエルナンの肩を叩いている。その俯いた頬に、涙の後を見て、そっと側に寄ろうとすると、小春に腕を取られた。
「今はそっとしておきなさい…」
深沢とユーゴも腕を組んで、複雑な顔をしている。最近、体調が悪いとか、元気のない様子は気になっていた。心引かれる思いで、遠くからただ見ていた。
食事が終わると、打ち合わせに入り、深沢の部屋は今まで以上に人が多かった。椎葉と小春が話し込む側で、ユーゴと礼央奈がパソコンを見ながら話している。
その時、小春の携帯の着信音が響いた。
「あら珍しい…」
小春は電話に出ると、英語で話している。眉を上げると、何かを考えるような仕種をする。電話を切ると、大きな溜息を吐いた。
「これは思っていた以上に、抉れたわね」
「なにが…」
「エルナンを呼んできて」
すぐさま、ユーゴが立ち上がった。
「悪いけど、ちょっと込み入った話をするから、部屋を開けてくれる?」
椎葉と礼央奈は頷くと部屋を出て行く。なつめは自分を指さすと、
「あなたはあっち…」
深沢とリビングのソファに移動する。滅多に閉めない折り畳みのドアを閉めていると、ユーゴの後ろから、エルナンと静流、ヨハンと渚が一緒にやってきた。
静流は心配そうにエルナンの肩を叩くと、側を離れようとしたが、エルナンが手を離さなかった。
ユーゴとヨハンと渚は、ソファにやってきて座る。折り畳みのドアを閉めても、話は丸聞こえだ。
キッチンで向かい合って座っている小春と、エルナンと静流は重い緊張のなか、誰もが口を開かなった。小春は大きな溜息を吐くと、
「先程、あなたのオーナーから連絡がきたわ」
エルナンはビクッと動いた。
「契約を解除したいそうね」
「………」
エルナンは何も言わない。どこか不安定を感じる様子に、小春は視線を外に向けた。
「私は、あなたの事も自分の息子のように思っている。出会った時は、まだ一〇歳くらいだったわよね。一流のダンサーになるんだって息巻いて頃が懐かしいわ」
エルナンはふと力を抜くと、笑みを浮かべた。
「僕にとっても、あなたは本当のママだよ」
何不自由なく裕福な生活のなかで、唯一の楽しみがダンスだった。幼馴染みと一緒に踊ったショーで、優勝した時は嬉しかった。でも、エルナンの家族は、誰も喜んではくれなかった。興味なさげな視線は今も記憶に残っている。だから、ダンスの道を選んで、家を飛び出した。
ダンスを始めた頃から、機会があれば、小春の舞台を観に行っていた。その目立つ容姿と楽屋にこっそり忍び込んでくる性格に、小春も憎めなくて、いろんな相談に乗ってきた。
「だから、はっきりと言うわ。此処にあなたの場所はない」
「………」
エルナンは苦笑いを浮かべると、
「はっきり言うな…」
小春はエルナンの手を掴むと、真っ直ぐに見つめる。
「自分でも分かってるはずよ」
「……うん」
「何があなたを此処に留めているの?」
エルナンは、小春の手を強く握り締めると、
「僕だって、ここでずっと一緒に踊りたいって思ってる訳じゃなくて…」
「そうね。同じ強い光を持った者同士は、ぶつかることはあっても、交わることはないわ。あなたにはあなたが輝く場所がある。そうよね?」
エルナンは唇を噛み締めると、
「分かってるよ。だから、此処にいるとどんどん自分が惨めになっていく。僕には手に出来ない物を沢山持っている、なつめが羨ましくて仕方がない」
胸に詰まった蟠りが一気に膨れ上がり、悔しさに俯いた。
「なぜ、そんな思いまでして此処に拘るの。以前のあなたなら、それをバネにしてのし上がって行ったはずよ」
「……っ…」
エルナンの頬を涙が流れた。
「…好きだからだよ。此処が好きだから」
小春は眉間に皺を寄せると、
「好きな人がいるのね…」
エルナンは押し黙った。
「あなたの破天荒で陽気な俺さまオーラが、すっかりなくなってしまって、随分丸くなったと思ったら…」
「随分、酷くない?」
「…あんたの恋愛遍歴は全て把握してるのよ」
エルナンは涙を拭うと赤くなって、ソッポを向いた。
「そう言えば、隣の彼は初恋だったわね」
「……っ!」
「どうしてばらすのさ!」
静流は驚いたように、エルナンの顔を覗いた。静流は可笑しそうに、
「それでか。あまりにも泣いて縋るから、そんなになつかれたのかって思ってたけど」
「酷いよ。帰り際に好きな人が待ってるから、さっさと帰るって…」
「あぁ…」
静流は思い出したように、手で口を覆った。
「泣くわ喚くわ。大変だったのよ」
小春は静流を睨むと、静流は明後日のほうを向いた。静流はふと思い出した。
「あれ? あいつは?」
「………」
「今のグループに入る前、確か長い間組んでいたパートナーがいたよね?」
エルナンは怒りの表情で静流を睨む。
「どうして、今思い出すんだよ!」
「そうだわ! いきなりグループに入ったから可笑しいとは思ったのよ。あの彼はどうしたの? この際、全て吐いてしまいなさい」
「…っ…!」
隣で聞いてる深沢たちは、大きな溜息を吐いた。今更、部屋を出て行くことも出来ない。とはいえ、話を聞かないわけにもいかず、揃って溜息を吐いた。
エルナンは項垂れるように、
「あいつは、遊び人だったから。手を付けた女が身籠ったから、結婚した」
「あら、そう。それはご愁傷様。でもなんで、コンビ解消しないといけないの」
「………」
「…もう。そういうことか」
小春は大きな溜息を吐くと、
「なつめ、お茶を入れて…」
「…っ…!」
驚いたなつめは、皆の顔を見た。あの状況の中へ入って行けって? 泣きそうななつめに、ユーゴが立ち上がった。無表情のユーゴがキッチンに立ち、お茶をテーブルに並べた。あと人数分のお茶やコーヒーをお盆に乗せ、ソファのあるリビングに戻ってきた。
「あなたはどうしたいの?」
エルナンは返事が出来なかった。ただ、テーブルを見つめて、唇を噛み締めた。
「分かったわ。…その人とちゃんと逃げずに相談しなさい。向き合って話さないといけない事もあるわ。自分のなかでぐるぐるしてるから、八方塞がりになるのよ」
「………」
「でも、いい恋をしているじゃないの。その気持ちも大切よ。頑張りなさい」
小春はお茶を飲み終わると、そっと部屋から出て行った。静流はエルナンの肩を叩くと、
「僕はいつでも君の味方だよ」
「…ありがと。静流」
静流もそっと離れて部屋を出て行く。ユーゴとヨハンと渚は立ち上がると、キッチンへ向かい、コップを流しにおいて行った。深沢となつめはコップを持って、リビングのドアを閉めようとした時、ただ一人部屋から出て行かなかった渚が、エルナンの側に寄り、後ろからゆっくり抱き締めた。
「……っ…」
エルナンはピクッと指先を震わせると、その腕を強く掴んだ。
「…ごめん」
渚の小さな声が響いた。
「君をそんなに追い詰めていたなんて、気付かなかった」
「…違う。秋穂の側にもう少しいたかった…」
「そんなふうに思ってくれることが嬉しいよ。この数か月がとても楽しくてね。調子に乗り過ぎていたな…」
誕生日会のイベントが終わった後───。なつめの家のピアノで、まりもとちなつに頼まれてピアノのレッスンを終えた時、ドアの外で座り込んでいるエルナンの姿に笑みを浮かべた。
「いつまで聞いてるつもりだい? エルナン…」
エルナンはバレたかと苦笑し、部屋のなかへ入っていった。ピアノをゆっくり弾いている渚の側に寄り、その横顔を見つめた。いつからこんなふうに見つめるようになったんだろうか。見ているだけなのに目が離せなくなる。
「…なんかさ、いつも僕は片思いばかりだ」
恋だと思ったら、もう失恋なんて…。
渚は驚いたように、エルナンを見た。
「そうなの?」
「初恋は一瞬で玉砕して…。幼馴染みは腹ませて結婚しちゃった。…今もなんか、叶いそうにない…」
出て行ったまりもとちなつの顔を思い出して、大きな溜息を吐いた。
「まりもちゃんとちなつは、好きな人に真っ直ぐだよね。僕もなつめ君は大好きだから、その気持ちはよく分かるよ」
「えっ? なつめ? だって…さっき…」
エルナンは思わず口を押えると、渚は笑みを浮かべた。
「なんか、秋穂って、時々意地悪だよ」
「それは僕も臆病だからね。いろいろ頑張ってみないと叶わないこともある」
「ほんと…?」
訝しげな目に渚は笑った。
「じゃあさ、ヨハンは…」
「ヨハンは大切な家族だよ。それに、あの策士の相手は僕には無理だね。疲れるよ」
サラッと揺れる髪に思わず触れてみる。
「あ、ごめん…」
離れようとすると、強い力で腕を掴まれる。真っ直ぐに見つめられる黒い瞳に、エルナンは動けなかった。
「君から近寄ってきたんだからね。離さないよ…」
「…ずるくない」
「全然…」
そっと唇を奪われる。体中の熱を持っていかれる程、その腕のなかは安心できた。
「───」
エルナンは体の向きを変えると、渚の顔を真っ直ぐに見た。
「…僕はなつめと深センの演技を見ていると、羨ましくて仕方がない」
なつめはドアを持つ手が震えた。深沢はそっとなつめを腕のなかに抱き寄せた。
渚は少しの間考えると、
「そうだね。愛する人とパートナーを組めるって事は難しい。それを共有出来ることもね。そういった意味では、完成された二人を見ているからより感じると思う。でも、それは奇跡のような確率だよ」
パートナーで長年悩んでいた深沢は、その気持ちがよく分かった。だから、今のなつめの存在を感謝しているほどだ。
「僕は君と踊ってはあげられない。エルナン、君にとってベストはなんだい?」
「今のグループに戻って、幼馴染のテオを呼ぶこと」
「それが、君がこれからの可能性を最大限に引き出せると思ってることだね」
「……うん」
渚は何度も頷くと、深い息を吐き出した。
「分かった。なら、さよならだ…」
「……っ!」
エルナンの頬を涙が流れる。
「どうして、そんな酷い事が言えるんだよ」
「君を愛してるからだよ」
「……っ」
エルナンを強く抱き締め、辛そうに目を閉じた。
「僕だって辛いよ。君が望むなら、このままでもいいかも知れないって思っていた。でもそれでは、いつかきっと僕たちはダメになる。深沢さんとなつめ君を見ていると思う。お互いを高め合う関係にならないといけない気がするんだ」
曇っていた景色が一瞬して、目が覚めたように晴れ渡った。
「君は、君の最高の人生を歩むんだ」
「秋穂…」
目が泳いだエルナンに、
「僕を見くびらないでくれ。短い時間でも、そんな愛し方をした覚えはない。君がどこに居ても、会いたいときは飛んで行くよ」
「……うん」
その言葉が心のなかで深く響いた。エルナンは渚の目を真っ直ぐに見た。
「決めた。僕は、絶対にさよならは言わない…」
「……っ!」
強く輝きが増した目に、渚は目を細める。それでもエルナンの頬を涙が流れた。
「でも、アブラッソして。今はそれだけでいいから…」
渚はその体を優しく抱き締めた。エルナンは幸せそうに笑った。深沢となつめは笑みを浮かべながら、ベッドルームに入った。
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