…………10-(2)
結局、皆揃っていく羽目になり、深沢は潤子に連絡して車を借りた。礼央奈の車と二台で深沢カンパニーに向かった。都内の交通のいい場所だが、この一角だけとても緑が多く感じる。敷地に入ると、真正面に三階建てのビルが見えてくる。来客用のスペースに車を停め、ぞろぞろと向かう。
チラッと視界に入ったヨハンと渚の抱えている道具に、深沢は頭を抱えたが、あえてもう何も言わなかった。
「私も伺うのは初めてだけど、受付のホールが見事なんでしょ?」
小春のウキウキした様子に、深沢は笑みを浮かべた。
「そうですね。祖父が音楽好きで、有名な演奏者を呼んでは、小さなコンサートを開いていたらしいです。だから、受付のホールは吹き抜けになっていて、三階まではホール側の窓を開けたら、演奏を聴けるようになってます」
「それは凄いわね」
深沢は懐かしそうに辺りを見回した。ガラスの自動ドアが開き、受付に向かっていく。深沢の顔を見た受付嬢はスッと立ち上がり頭を下げた。
「ようこそ、社長から伺っております。どうぞお入り下さい」
「ありがとう。こんな大人数で来る予定ではなかったんだが…」
「あぁ、宗司。俺らには構うな」
「そうそう、これは凄いな!」
深沢となつめを残して、みんなホールに興味津々だ。丸い楕円系のステージ、その側にあるグラウンドピアノ。側に寄った渚は、深沢に振り返る。
「もしかして、弾くつもりなのか」
受付嬢はクスクス笑いながら、
「…構いませんが。弾かれる方が居られないので、調律もしてないんですよ」
「自分で調律するだろう…」
深沢は渚に手を上げると、なつめを連れて、奥のエレベーターに向かった。すれ違う人誰もが、驚いて振り返っている。それ程、深沢の雰囲気は前社長によく似ていた。
エレベーターで一つだけ違うボタンを押した。
「それなに?」
「これは重役だけが押す直通だ。途中の階で止まらない」
直ぐに三階に着くと、ドアが静かに開く。柔らかい絨毯の上を歩いていく。重圧なドアが三つ伺えるが、深沢は手前のドアをノックした。ドアをゆっくりと開くと、十人は座れそうなソファ、その向こう側にはアンティークな広いデスクに、ショートカットの女性がこっちを見据えて座っていた。
真っ直ぐに見つめられる視線、なつめはその視線の鋭さに動けなかった。白のパンツスーツに、濃紺のレースのインナーが全く隙を与えなかった。深沢と何処か似た感じはあるが、視線のきつさになつめは唇を噛み締めた。
「……っ…」
歓迎されていない。それは深沢に対してなのか、自分に対してなのか。しょんぼりと項垂れたなつめの様子に、深沢は溜息を吐いた。
「お前、その態度、相変わらずだな」
「なに? 久しぶりに会った妹に対して、第一声がそれ?」
眉間に皺を寄せて睨んだ。
その表情になつめは目を見開くと、
「……くっ!」
思わず吹き出した笑いを、両手で塞いだ。笑ったなつめを不思議そうに見つめたが、すぐさま深沢を睨みつけた。
「初対面で笑われたじゃないの!」
「笑うとこあったか?」
不思議そうに見る深沢を見上げ、
「うん。そっくり…」
「………」
兄妹揃って複雑な顔で押し黙った。深沢は妹が苦手だと言っていたが、こうやって実際に会うと、なぜ苦手なのか理解できる。きっと性格も考え方もそっくりなんだろう。
なつめは肩の力を抜くと、
「初めまして、新藤なつめです」
深く頭を下げると、汀子はゆっくりと椅子から立ち上がり、なつめの前にやってきた。なつめよりも背が高く、側で見ると何処か目元は優しかった。
「初めまして、
「お前な…」
「いえ、お世話になってるのは俺のほうで…」
またもや、兄妹喧嘩になりそうで慌てて、深沢の腕を引っ張る。そんな深沢となつめのやり取りを見ていて、
「なんか…」
「えっ?」
「普通…」
「………」
汀子の素直な感想に、なつめは驚いて深沢を見上げた。深沢は眉間に皺を寄せると、
「お前こそ、失礼だろう…」
「そうね…」
腕組をして思わず、失言を認めたが、もう一度なつめを見て、
「いえ、兄さんの周りはアクの強いのが多いっていうか、パートナーの人も見た目は綺麗だけど、性格悪そうな人ばかりだったじゃない」
「なんで、そんな事をお前が知ってるんだ」
「まあ、いろいろとね。そういえば、ユーゴさんはお元気?」
「あぁ、下にいる」
「………」
汀子は固まると、眉間に皺を寄せた。
「何処?」
「下のホールにいます…」
なつめの言葉に、汀子は部屋を横切ると、カーテンを思いっきり開けた。窓を開け、転落防止フェンスの隙間から、一階のホールを凝視している。ピアノの音がポーンポーンと響いている。
「何事…?」
「ああ、勝手に悪いな。ピアニストがあのピアノを弾きたいらしくて、調律を始めるみたいだ」
「それは構わないけど…」
汀子は目を凝らしてホールを見ると、確かにユーゴがピアノの側に立っている。気付いたユーゴが手を上げて振っている。思わず手を振り返すと、
「えっ! ちょっと、なんで新藤小春がいるのよ」
一緒にホールを眺めていた深沢となつめは複雑な溜息を吐いた。
「すみません、勝手についてきてしまって…」
汀子はなつめを見ると、
「あぁ、そうよね」
再度ホールに視線を向けると、礼央奈が見上げていた。ゆっくりと手を上げている。汀子は笑みを浮かべると手を上げた。
「お前、礼央奈と面識あったか…」
「いいえ、お会いするのは初めてよ。でも、友人としての付き合いは結構長いのよ」
礼央奈のネットワークを考えると、あながち納得出来るものがあった。
「そうだわ。今回の誕生日会行けなくて、ごめんなさい。息子が急に熱を出してね。礼央奈が映像を送ってくれたから、拝見させてもらったわ」
汀子は窓に凭れ腕を組むと、ホールには少しずつ人塊が出来つつある。
「これは、ホールは大変な事になるわね。まあいいわ。折角弾いてくれるなら…」
デスクに戻ると、受話器を取った。
「ピアノの事は聞いたわ。調律にはまだ時間が掛かるでしょ? 始める前に連絡をちょうだい。そして、各階窓をオープンにしてあげて、たまにはいいでしょう」
汀子は備え付けのコーヒーメーカーにフィルターカップを取り付ける。
「兄さんはコーヒーでいいでしょ? あなたは何がいい? 緑茶、紅茶、ウーロン茶、ココアが出来るわ」
「では、ココアで…」
飲み物をお盆に乗せ、ソファへ促した。大理石の広いテーブルに飲み物を置き、ソファに座ると汀子は腕を組んだ。コーヒーを一口飲むと、
「…まさか、兄さんとこんなふうにこの部屋で話が出来るとは思わなかったわ」
「そうだな。勘当された身としては敷居が高かったが…」
「………」
汀子の呆れた視線に、
「なんだ…?」
「そう思ってるのは、兄さんだけ」
「あぁ? 出て行けって言われたんだぞ」
「言葉通りよ…」
深沢は押し黙った。汀子は飾り棚にある両親の写真を見ると、
「父さんと母さんが言っていたわ。期待し過ぎていたって…」
「だから、出て行ったじゃないか」
「…やりたいことがあるなら、出て行けって言ったのよ」
「……っ!」
深沢は目を見開いた。
「あの時は父さんも母さんもかなりショックだった。兄さんも子供だった。でも、今なら少しは分かるでしょう。実際、母さんはこっそり兄さんの競技会を、何度か観に行っていたわ」
「………」
汀子は思い出すように笑いながら、
「母さん、あの子はなんであんな女性ばかりを選ぶのかしら。もっとスレンダーな、そう新藤小春のようなダンサーなら、きっと似合うでしょうに…」
「……っ!」
なつめは汀子の顔を驚いたように見た。汀子は口許に笑みを浮かべると、
「母さんは、一度政治家のパーティで、彼女と話してから、ファンになったって、日本での公演は必ず観に行っていたわ。彼女の生き方に感銘を受けたって…。大切なご主人と息子さんを日本に残して、海外で成功するまでには、並大抵の努力や精神力では出来ないだろうって」
なつめは小春の舞台を何度も観たが、決まってその視線は真正面に座る、自分達だけに向けられていた。観客は朔真となつめだけだもの。それが小春の口癖だった。
「…俺は昔、学校で母さんの事を言われたことがあった。泣きながら帰って、父さんに酷い事を言ったことがあるんだ。母さんは、バレエと家族のどちらを選ぶんだろうって」
なつめは窓から見える青い空を見ながら、
「父さんは一瞬悲しそうな顔をしたけど、間髪入れず、家族に決まっているだろう。俺やなつめに何かあったら、小春は飛んで帰ってくる。いいか、どちらかを天秤に掛けるんじゃなくて、全てを受け入れられるような心の広い人間になれって言われた」
「朔真さんらしいな…」
「いいお父様ね…」
「はい…」
汀子は苦笑いを浮かべると、
「私も、この会社が一時期倒れそうになった時、兄さんに頼ろうか悩んだ時があったわ」
「俺には何も出来ない…」
「そう、その言葉も予想通り…」
重役には、兄さんを連れ戻して再建を考える者もいた。けれど、なんとか踏ん張り続けた。
「まさか、あの雛元財閥から手が差し伸べられるとは思ってもみなかったわ」
「偶然再会して、何度か話をする機会があったんだ。駄目もとで頼んでみたら、『お前たち兄妹は、一族のなかで何も期待されない爪弾きの私を、兄さんと慕ってくれた身内だ。何か会った時は遠慮なく頼ればいい。出来ることはしよう』そう言ってくれた」
「一度此処にも、わざわざ来てくれたのよ。同じことを言われたわ」
「そうか…」
深沢は安心したように笑みを浮かべた。ふと思い出したように、
「お前が結婚するとは思わなかったが…」
汀子は眉間に皺を寄せると、
「あっ、思い出した。会社に祝儀を送りつけずに、自分で持って来なさいよ」
「いや、人伝てに聞いたからな。逆切れされそうで…」
「なんですって…!」
睨み合っている二人に、結局は仲がいい事に気付き、なつめは棚に飾られている深沢の両親の写真を眺めていた。
「…私も、結婚する気はまるでなかったのよ」
「あ…? じゃあ、なんでしたんだよ」
「なし崩し?」
「お前が…?」
「………」
深沢は何か思い当たる節があり、汀子と視線を絡める。
「まさか、相手って…」
「そうあれよ」
汀子は諦めの深い溜息を吐いた。
「私もうっかり承諾してしまったというか…、彼のペースになってしまっていたというか」
「………」
深沢も大きな溜息を吐くと、
「まあ、頑張れよ」
「私以上に、深沢愛が強いから、複雑だわ」
会社が傾いてどうにもならなくて諦めかけた時、一従業員だった彼が、社長室に乗り込んできて、汀子に詰め寄った。
『簡単に諦めるなよ。これだけ続いたこの会社を諦めるな。僕が出来る事は君の代わりに何でもする。君を陰ながら、支えることだって出来る。だから、君が出来る事を精一杯やれよ』
その言葉に、一瞬心が動いた。
まだ、やれることがあるかもしれない。そう思った時、雛元財閥から連絡がきた。
「タイミングが良かったのか、悪かったのか」
それから、事態は大きく好転した。
汀子は複雑な顔で、
「彼は、君のためなら何でもするって言って、婚姻届を持ってきたのよ。彼の言葉と考えがズレているのはいつもの事だわ。彼のペースにならないように、少し考えさせて言ったのに、次の日には勝手に役所に出しに行ったのよ。びっくりしたわ」
その光景が目に浮かぶようで、深沢は頭を抱えた。
「さわお、だったかな…」
「それはあだ名。
深沢は言葉もなく、黙って冷めたコーヒーを飲んでいる。
「で、彼はうちの重役か?」
「…そんな訳ないでしょう。彼は私の支えになるって、家にまで転がり込んできたのよ。だから、そのままなし崩しになってしまって、家で家政夫してる」
「あ? まじか…」
「そう…。彼に普通は通用しないわ。私は子供を産んだだけ、家事から子供の世話まで全部彼がしている。でも、子供は側にもいない私にはなつかないんだけど、病気の時だけは離れないのよ」
「あぁ、それでか…」
だから、病気の時は普段素直に甘えらない分、極度に甘えてくるのが分かっているから、ずっと側にいてやっている。
汀子は思い出したように笑うと、
「見たら、びっくりするわよ。深沢の血が濃くてね。私よりも兄さんにそっくりよ。彼の遺伝子は全く入ってないじゃないかってくらい…」
それになつめが興味津々に、目を輝かせた。
深沢は笑みを浮かべると、
「そうか。自宅に帰るのも久しぶりだし、また機会を見て伺うよ」
「そうね。序に、部屋を片付けてよ。そのままだから…」
深沢は面倒臭そうに顔を顰めた。
「…それから、奥野を覚えている?」
「あぁ、よく可愛がってもらったな」
「兄さんを最後まで後継者にって、頑張っていたのよ。数年前に退職したけど、もういい年だから、会えるうちに会って詫びときなさいよ」
「お前、身も蓋もない」
丁度、ピアノの調律が終わったのか、渚がゆっくりと曲を弾き始めた。内線の電話が鳴り響く。
「はい。そう…分かったわ」
汀子は窓からロビーを見下ろすと、沢山のギャラリーが集まっていた。
「うわぁ…、結構人が集まったのね」
全階の窓をオープンにした為、ピアノの音に引かれて、どんどん人が集まったようだ。
「あいつら、何やるつもりだ」
「じゃ、私たちもおりましょう」
サッサッとドアを開けて出て行く汀子に、深沢は諦めの溜息を吐き、なつめと部屋を後にした。エレベーターで降りると、すでに人で溢れていた。
「あ、社長? あれ?」
隣の深沢を見て、社員の不思議そうな顔に笑みを浮かべて、何も言わず歩いていく。ホールの中央に立っている集団に近寄っていくと、一斉に振り返った。
「もう終わったのか…、汀子、久しぶり…」
「お久しぶり、ユーゴさん」
汀子は小春の前に立つと、
「初めまして、深沢汀子です。母から、小春さんのお話は何度か伺っています」
小春は妙な顔をしているなつめをチラッと見て、
「初めまして。ご両親はとても残念だったわ。でも、あなたはいい顔をしているわ。大変だったでしょうけど、この会社は立派だわ。これからも頑張って…」
小春の言葉に、汀子は大きく頷いた。
「…で、うちの息子はどうかしら? 反対してもいいわよ」
小春の面白そうな顔に、汀子は含み笑いをした。
「いいえ。きっとうちの母も反対しないでしょう。小春さんの息子さんですから…」
「………」
小春は深沢の顔を見上げると、可笑しそうに笑った。
「…なら、感謝しなさい。私のお陰ってことみたいよ」
なつめの頭を抱き寄せると、
「うわあ、痛い。母さん!」
「この未熟者! もっと心も成長しなさい。理由なんてどうでもいい事なのよ。あなたはあなたらしくいなさい。あなたがどんな選択をしても、あなたの幸せが一番。それを守って助けてあげることが、私が唯一出来ることだから。間違ったら、一緒に引き戻して、一から頑張ればいい。あなたは、私と朔真のたった一人の息子なの。それは一生変わらないわ」
深沢はなつめの頭を撫でると、
「俺は、お前だから選んだ。他に理由はない。この想いも一生変わらない…」
「………」
深沢と小春に挟まれて、小さな声で呟かれた言葉に、なつめは目を見開くと、涙を浮かべて大きく頷いた。
「………」
汀子は自分が失言した事に、申し訳ない溜息を吐いた。ユーゴと静流は苦笑いしながら、側で温かく見守っていた。
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