第10話 深沢 汀子(1)
夜中の静まり返ったリビング、大画面のテレビで、録画された映像を見つめた。映像が終わっても、ブルーの画面を少しの間、眺めていた。
「折角だから、実際に見たかったな…」
画面に映っていた知り合いを思い出して、
「礼一兄さんまでいたな…」
その中には、最後にビデオを録画していた黒縁眼鏡のスレンダーな長身の彼女が、何も言わずに自分を映して笑っていた。とても懐かしい感じがする。きっと間違いないだろう。自分の直感に思わず笑みを浮かべた。
「…彼女とも直接会いたかったな。アフタヌーンティ…」
微かな物音にドアが開く。
「ママ、まだ寝ないの?」
「…もう寝るわ」
テレビの電源を落とすと、心惹かれる思いでリビングを後にした。
目覚まし時計の音が響く。ゴソッと動いて、なつめは足から滑り落ちるようにベッドから降りた。床に座り、ベッドの上で髪をかきあげている深沢を見上げる。
いい男は何をやっても様になる。
「おはよっ…」
「あぁ…」
珍しく眠そうな深沢に、
「どうしたの? 眠れなかった?」
「いや、なんか変な夢を見たような…」
「どんな?」
「思い出さない…」
ただ、胸の奥がもやもやする。心配そうななつめの顔を見て、
「キスしてくれなら、気分爽快なんだけどな」
「え? キスでいいわけ」
「じゃあ…」
「朝から止めろよ…」
そっと側に寄り、深沢の頬に触れ、優しく唇を合わせる。軽く啄みながら、名残惜しそうにゆっくりと離れていく。
「気分爽快になった?」
「もっと…」
「もっと?」
笑って見つめ合っていると、再度アラームが鳴る。二人して大きな溜息を吐くと、椅子に掛けてあったスラックスを手に取り履く。シャツを羽織りながら、ゆっくりドアを開けた。
「今日は何人いるのかな…」
「さあ、いつも通りでいいだろう?」
二人して廊下に出ると、隣の部屋のドアが開いた。なつめは不思議そうに眺めていると、
「うわぁ! びっくりした」
思わず、深沢に抱きつくと、反射的になつめを軽く抱きかかえる。
「ああ、まだ眠い…」
小春が眠そうに伸びをしながら、溜息を吐いた。
「なんで、母さんがいるんだよ!」
「えっ? 昨日は礼央奈と夜通しチェスをしていたのよ」
隣の部屋のなかを覗くと、礼央奈が床でまだ寝ている。呆れた視線を向け、溜息を吐いた。
「もう何やってんだよ、まったく。いつから居たんだよ」
「礼央奈の部屋って寝る所ないのよ。こっちに移動したのは二時過ぎだったかな」
「………」
深沢は会話に加わることなく、リビングのドアを開けて、洗面所へ向かう。なつめは眠そうな小春を睨みつけながら、
「もう! 此処は宗司の部屋なんだからな。勝手に出入りするなよ」
「だって、此処って楽しんだもの…」
「あぁ? 母さんには家があるじゃないか!」
「一人じゃつまらないし…、通うのも面倒だし」
「隣に和真パパがいるじゃないか!」
「和真は遊び相手にはちょっとね…」
失礼な言葉に和真に同情した。既に、顔を洗った深沢はキッチンへと向かい、どんどん朝の準備を始めている。なつめはすぐさま顔を洗うと、急いで手伝いに入る。
晩に予約してあった炊飯器は既に保温になっている。深沢は鮭の切り身をグリルに入るだけ入れ焼いている。なつめは棚から梅干しの瓶を取り出すと、お皿に二〇個ほど移して種を出すと潰し、鰹節と柔らかい小さないりこをだし醤油でからめていく。大きなお皿を三個テーブルに置くと、顔を洗って身支度を整えた小春がカウンターに座る。
「物凄い量を作るのね…」
炊飯器も一升炊きの大きなもので、本当に食堂のようだと感心していた。焼けた鮭をお皿にどんどん放り込んだものを、なつめが小春の目の前に出す。
「えっ? なに?」
「ほぐして…」
無言の睨みに、小春は渋々鮭をほぐしていく。なつめはほぐした鮭のなかに昆布と、だし醤油を入れて混ぜる。先程の梅おかかと一緒に並べると、深沢が両手にご飯を装い、待っている。
二人でせっせとおにぎりを作っている様子を眺めて、
「なんか、新婚みたいね…」
「………っ」
なつめは無言で睨み返した。
「あぁ! もう食べてるし…」
「美味しい…」
出来立てのおにぎりを食べている小春のお皿に、深沢は中身の違うおにぎりを置いた。なつめは冷蔵庫のボードを眺める。
「今日は、みんないるじゃん」
朝と晩に食事をする者は、このボードに名前のついたマグネットを移動させるようにしている。多少多めに作り置きはするようにしているが、あまりにも人数が増え、管理が大変になってきたので、相談した結果がこれである。
「…三個ずつなら、大丈夫だろう」
おにぎりが終わると、お椀のなかに冷凍の固形を入れて、温めていた出し汁を注ぎ、小春の前に差し出した。
「うちは即席しかないので…」
深沢は笑いながら、不貞腐れているなつめの頭を撫でた。
「お茶を出してやれ…」
「……うん」
小春は即席の味噌汁を飲むと、
「え? これって鹿のやの?」
「そうだよ。おかみさんと話してた時に、そんなに大変ならって、わざわざ即席の味噌汁を作ってくれてさ。序に店に出したら、売れ行きいいらしくて、それからずっと作り置きしてくれてるんだよ」
「へぇえ、随分親切じゃない?」
「ハハッ…」
「宗司のファンだからな…」
ユーゴが笑いながら、リビングに入ってくる。ヨハンがシャツにGパンなんてラフな格好で入ってきた。ユーゴの見立てだろうが、かなりスタイル良くてカッコいい。
小春はヨハンに手を振りながら、
「なるほどね…」
エルナンと渚が話しながら入ってくる。
「おはよ…」
「おはよう」
なつめは二人に笑いかけると、ソファのテーブルを指した。既に、キッチンは一杯なので、お盆におにぎりと味噌汁を乗せると、ソファに座って食べ始める。
「あああ、眠いっ…」
礼央奈がリビングに入ってくると、既に朝ご飯を食べ終わった小春に、呆れた視線を向けた。
「もう食べ終わったんですか?」
「若いのに、まだまだね…」
小春は両手を合わせて、ごちそうさまでしたってすると、
「ここのおにぎりの具材はとても美味しいのね。和食に嵌ってしまいそうだわ」
「あぁ、私もだ…」
ヨハンが大きく頷いておにぎりを食べている光景は、少し違和感があるが、なつめは含み笑いをしながら、
「…元々、俺も宗司もあまり料理出来ないし…」
「そんな時間もなかったからな」
「洗い物も増えるから、おにぎりの中に入れた方が簡単だし」
ユーゴは可笑しそうに、
「俺が来た時は、まだそんな感じだったな。鹿のやの女将さんが、このだし醤油を混ぜろとか言い出して、おにぎりがどんどんグレードアップして、今に至るな」
礼央奈がおにぎりを食べながら、
「でも何故か、深沢さんとなつめ君が作るおにぎりが一番美味しいです」
小春はみんなの顔を見て、深沢となつめの顔を見ると、吹き出すように笑った。
「えっ? 笑う所ですか?」
「…いえ、きっと愛情じゃない?」
深沢は笑みを深くし、なつめは照れたようにソッポを向いた。
そこに、檀とまりもとちなつがリビングに入ってくる。
「あぁ、みんな早い。今日はもう出来ている」
「わーい」
早速ソファに移動して、食べ始めているまりもとちなつに、ユーゴからお盆を受け取った檀が、仕事の段取りを話している。小春は小さく笑みを浮かべた。
ショーを見ている時、ふと横に視線を向けると、ユーゴは自分の作った衣装が華やかに舞う様子を誇らしげに見ていた。深沢となつめの存在がより輝くように、ただそれだけを思い描きながら、何日も徹夜して作成したはずだ。期待通り、きっとそれ以上の出来に、自然と笑みを浮かべていた。
なつめの癖のような手首から動かす仕種に、その指先まで綺麗に見えるような装飾は、檀が日頃からなつめの日常の動きをみているからこそ、その装飾は決めポーズの時、更に映えて美しい光を放っていた。光輝く装飾を見つめ、檀は幸せそうに頷いて微笑んでいた。
それぞれが持てる力を精一杯注ぎ込んでいる。その陰の力を感じているから、深沢となつめの演技にも熱が入る。
「なに…?」
思い出すように笑っている小春の顔を、なつめは見つめた。
「いえね。あの別荘にこのマンション。深沢さんに、甘やかし過ぎるって言おうと思っていたのよ」
「まあ、そう取られても仕方ないとは思ってます」
苦笑した深沢に、小春は肘をついて含み笑いをする。
「でも、此処も大切な場所なのね」
「そうだよ。打ち合わせも出来るし、大体顔合わせているから、段取りが捗るんだ」
「…うーん。そう言った事じゃないんだけど、この子は。大体、あなたは何もしていないでしょ? 生活費も一切入れてないでしょ?」
「……っ…!」
なつめは思わず、深沢の顔を見ると、
「俺がいいって言ったんですよ」
「ほら、それは甘やかしよ。きちんと話し合いなさい。あなたは一応、男なんだから…」
「一応…? むうっ…」
深沢は怒りの表情で言いかけたなつめの口に、ユーゴから渡されたいちごを入れた。
「あっ、美味しい」
「だろう…?」
ユーゴの満足げな顔に、小春は大きな溜息を吐くと、
「そうだわ。エルナン、あなたはいつまで居る気? 休暇終わってるでしょ?」
いきなり話が飛んできて、飛び上がったエルナンは喉に詰まらせながら、
「えぇ? なんでママがそんな事知ってるんだよ。…体調悪いから、ちょっと伸ばしてもらったんだよ…」
「…そう」
俯いて視線を逸らしたエルナンの横顔を見つめたが、それ以上は聞くのを止めた。ユーゴはコーヒーを飲みながら、
「…で、お前らは…」
「あぁ、これから、なつめと出てくる」
「ふーん」
ユーゴは肘をついて押し黙った。なつめは感情を読み取られないように、ゆっくりと立ち上がった。キッチンに立ち、お皿を片付け始める。小春も何かを感じたのか、ユーゴと深沢のやり取りを可笑しそうに眺めている。
「お前は仕事だろう?」
深沢は笑みを浮かべて、詮索の視線から逃げる。そっと立ち上がると、ユーゴも同じように立ち上がった。
「そうだな。あ、まりも…」
まりもはいちごをほおばったまま、ユーゴを見た。
「俺は今日休みだ。事務所にお使いを頼む…」
「……っ!」
深沢は眉間に皺を寄せると、ユーゴを睨んだ。
「なんでだ!」
「あぁ?」
そこへ玄関から音がする。リビングのドアが開くと、静流が顔を覗かせた。なつめは嬉しそうに笑うと、いちごの入れ物を差し出した。
「静流さん、ナイスタイミング!」
「あっ、いちごだ!」
片づけを終えたなつめの側で、いちごをほおばった。
「なつめ君、今日何処か行くでしょ?」
「えっ、なんで分かるの」
「うーん。カンかなぁ…」
静流のその言葉に、深沢は眉間に皺を寄せ、ユーゴは楽しそうに笑みを浮かべた。
「ほらみろっ! あそこにもいるぞ」
深沢は大きな溜息を吐いた。
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