……………9-(6)

 なつめとエルナンが舞台の中央で礼をすると、ピンク色のドレスを着たちなつがゆっくりと歩いてくる。スクリーンには、ゲストとしてちなつの名前が現れた。なつめを見上げて笑う顔が緊張しており、その頭を撫でてやる。

「…がんばれ」

 ちなつは大きく頷くと、大きなグラウンドピアノの前に座る。

「ちなつ、頑張れ!」

 立ち上がって叫ぶまりもの声援に大きく頷いた。震える指先を何度か解し、緊張した面持ちで、『キラキラ星』を弾き始また。その澄んだ音に、誰もが眩しそうにちなつを見つめた。

 その横に渚が現れ、優雅に深く一礼して、ちなつの頭を撫でると隣に座った。小春は楽しそうに呟いた。

「さて、眠っていた虎が目覚めるわ…」

 ちなつの弾いてる側から、鍵盤に触れる。安心したようなちなつの顔に笑みが浮かんでくると、渚はちなつに合わせて連弾を始める。ちなつが楽しそうに弾いてる様子に、皆して笑みを浮かべて見守った。

「そっか。ちなつちゃんの為の曲なのね」

 渚はちなつが楽しめるように、オリジナルの編曲をしていた。その微笑ましい光景に、小春は笑みを浮かべた。舞台袖には、既に衣装替えをしたなつめが心配そうに立っていた。連弾が終わると、ちなつが礼をして、渚を残して去っていく。

「………」

 一気に高まる緊張に、渚は一息大きな息を吐き出した。目を閉じると、渚のストレートの長い前髪が揺れる。緩やかに流れ始めたピアノの音は、繊細な澄んだ音色に会場中が静まり返った。

 曲は『パイレーツ オブ カリビアン Davy Jones』

 なつめがゆっくりと舞台に出てくる。上半身は鮮やかなサファイヤブルーのシフォンが優しく揺れている。幾重にも重なったシフォンの布が、なつめの動き一つ一つに沿って、流れるように優雅にたなびいた。下半身は白のスパッツに金の模様が、高く振り上げた足捌きの度に見え隠れする。シフォンの布がプリーツのように優雅に流れ、なつめは舞うように踊っていく。柔らかく振り上げた腕のライン、なつめの体の美しさをより引き立てた斜めのポーズ。大きな弧を描くような足捌きから、片足立ちからの高速回転。体の捻りだけによる体の向きの方向転換。ルンバではリードで、体の向きを瞬時に変更出来るが、なつめは柔軟性と筋力でラインを決め、踊り続けている。なつめの体のラインの美しさを追求したものであり、深沢の思い描いた以上の演技だった。

「……っ」

 なつめは笑みを浮かべてはいるが、柔軟性を最大に生かした動きに、奥歯を噛み締めて、天井を見上げた。渚のピアノの音が心のなかで深く響いていく。

 辛いって思っていた時、朔真の顔が浮かぶ。

『こけてもいい。俺が側にいるんだ。安心しろ』

 今でもその声が聞こえる。そして今は、なつめはチラッと深沢を見る。深沢は腕を組んで、なつめを眩しそうに見ている。

『大丈夫だ。俺がいつも側にいる』

 なつめは両手を広げて、朔真と深沢へと伸ばし、大切そうに抱き締めた。

「………」

 なつめの心の高まりに反応して、渚はゆっくりと目を開いた。眩しいほどの光に目を細めたが、隣で笑うような声にそっと視線を向けた。

「……っ!」

 グラウンドピアノに二人の子供が笑って寄り添っていた。

「やっぱり…」

 小さく呟くと、二人を見つめた。幼い頃、まだジレ男爵と出会う前、保護施設でピアノを弾いていた渚の側には、同じ年の兄弟のような存在だった大輝と三智がいた。

『渚のピアノ、大好きだよ』

『渚のピアノは人を幸せにするよ。だから、きっといつか大きな舞台で聴かせてくれ』

 閉じた渚の目から涙が流れた。こんなふうに、昔を思い出すことが怖かった。会いたいって思っても、今の自分を認めたくなくて、会えないって思った。

 本当は気付いていた。自分のベッドヘッドには指跡が残る程ピアノを弾いたあとが残っていた。物入れの奥にしまい込んでいたヴァイオリンが、朝机の上に置いてあることもあった。逃げていても、無意識に触れていることはあった。

 なつめの心に共鳴した時、二人に会える気がした。今はもう大丈夫。

「だから…」

 後悔のないように、今の全部で表現したい。そう思った瞬間、白い羽根が激しく舞った。やっと二人と抱き合って笑えた。

「……っ!」

 心配そうに見ていたヨハンが敏感に察した。音が変わった事に、小春と深沢達も渚を凝視した。一つ一つの音が美しく、心の深い所で澄んだ湖に木霊すように響いた。

 見るものと聞くものの心に寄り添い、冷えた心の部分に暖かな火が灯る。最後の音までも数秒木霊した。その余韻に、誰も息をすることも忘れて、舞台を見つめた。

 なつめは息を細く吐き、ゆっくりと振り返ると、渚の側に寄った。

「秋穂くん、ありがとう」

 差し出された手に、詰めた息を吐いた渚は、

「こちらこそ。なつめ君、ありがとう」

 抱き合って笑みを浮かべた。礼をすると、途端に大きな拍手が会場中を響いた。呆然と立ち尽くす二人に、ヨハンが駆け寄り、二人を抱き締める。

「最高だよ、君たちは…」

 深沢も客席から舞台へと上がり、なつめの側に駆け寄った。

「素晴らしかった。最高だ!」

「宗司…っ」

 解けた緊張に、破顔すると涙を浮かべ、その胸に抱きついた。その様子を見つめ、小春は大きな溜息を吐いた。

「小春、感想は?」

 和真が隣から笑いながら聞くと、小春も笑みを浮かべた。

「途中までのダンスは、予想通りのあの子らしいものだったわ。ああいった曲を弾かせたら、ヨハンのヴァイオリンは最高だもの。そして、さすがというか。深沢さんらしい、なつめの長所を良く理解した美しい舞だったわ。渚との共演だからこそ、悔しいほど良かったわ」

 正直にいった小春に、和真は朔真の写真をみた。

「ちゃんと成長しているよ。良かったな」

 興奮した舞台を見上げると、小春はパンパンと手を叩いた。

「さあ、まだ公演は終わってないのよ。続けるわよ」

 なつめは驚いたように小春を見た。

「それって…」

 深沢を見上げると、

「最後までやり通すぞ!」

「うん!」

 小春が礼央奈に向かって手を上げると、

「では次に、特別演目で、深沢宗司と新藤小春によりますウインナーワルツです」

「えぇ! 聞いてない」

 なつめの驚いた顔に、深沢は苦笑いをした。

「内緒で頼まれてね…」

「もう、母さん! 宗司の貸し出しなんて聞いてないよ」

「あら、許可がいるの」

 小春は楽しそうに、衣装替えに行ってしまった。なつめは不服そうに深沢を見上げると、

「少し休んで見ていろ」

「…うん」

 深沢も衣装を変えるため、舞台袖へと行ってしまう。むくれたまま、朔真の写真を抱えると、大人しく座るなつめに、和真が宥める。

「まあ、少し休憩出来ていいじゃないか」

「………」

 隣に座ったエルナンが笑いながら、

「駄目駄目、深センの事となると、目を吊り上げるんだから」

「吊り上げてないじゃないか!」

「タンゴの時だって…」

 エルナンと言い合いしているなつめを見て、和真は吹き出した。

「随分と惚れ込んだもんだ」

「もう、和真パパまで…」

「でも…、深沢君もいい大人に成長したな。彼に会ったのは、確か中学生の時だったかな…」

「そんなに前なんだ…」

 和真は思い出して笑うと、

「朔真がさ、彼の純粋な目を見てな。うーん、彼になら、俺の大切な息子を嫁にやってもいいかなって呟いてたなって…」

 なつめは真っ赤になると、

「えぇっ、父さんそんな事言ってたの?」

「あぁ…。小春に殺されるぞって言ったら、笑ってたけどな」

 なつめは朔真の写真を見つめると、笑みを浮かべた。

「おい、出てきたぞ…」

 オールバックにした深沢が、黒の燕尾服を着ているのを見て、なつめは思わず立ち上がった。深沢はなつめに視線を送ると、二階の会場から、

「深沢先生、カッコいい」

「素敵っ!」

 黄色声援に、深沢が手を上げて応えている。そこへ、真っ白のバレエのチュチュを着た小春が立つ。小春の気まぐれの為、衣装が全く間に合わず、自分の衣装を持参していた。

「…カッコいい…」

「もうメロメロじゃないか…」

 呆れたようなエルナンの視線に、その隣にいるユーゴが大きく頷いている。

「宗司は最高にカッコいいんだ! やっぱり燕尾服はいいな…」

 満足げなユーゴに、なつめも大きく頷いている。

 優雅な音楽が鳴り始まると、小春と深沢は向かい合って一礼をすると、踊り始める。社交ダンスのウインナーワルツよりは、どちらかといえば、ニューイヤーに行われるバレエのウインナーワルツだ。小春が優雅に舞っては、深沢を支えにして独壇場になっている。その舞台を見つめ、

「でも、やっぱり…。宗司がほかの人と踊るのを見るのは、悔しいな…」

「えっ? 嫉妬?」

 エルナンを睨みつけると、和真が隣で吹き出した。

「結構、独占欲が強いんだな」

「むう…、違う。なんか物凄く自分がまだまだ未熟な気がして、もっと宗司に追いつかないと、もっともっと成長しないとって焦るんだ…」

 エルナンは目を見開くと、そっと視線を舞台に戻した。なつめは、自分の可能性を最大限まで広げる努力を常にしている。エルナンは携帯のアドレスを見つめ、ずっと何年も見つめ続けている名前を見た。

 なつめはふと反対側の舞台袖の下に座る、もう一人の客人に気が付いた。夢中になって、小春の舞台を特等席で見ている百々と執事に、笑みを浮かべた。ユーゴから招待したって話は聞いていたが、どこにいるのか全く分からなかった。後で小春に会わせようと思っているうちに、演技が終わってしまった。慌てて、舞台袖から深沢の側に走り寄ると、

「滅多に見れないから、よく見ておこう」

「あぁ? お前が踊ればいいんだよ!」

 ユーゴの厳しい言葉に、難しい顔をした。深沢はなつめの抱えている朔真の写真を見ると、

「朔真さんもきっと楽しんで見ているだろうな」

「……うん」

 深沢を見上げて頷くと、

「さて、体も温まったし、最後の仕上げといくか」

「よし!」

 気合を入れたなつめを舞台袖で眺めていた小春は、可笑しそうな笑みを浮かべて、手を差し出した。なつめは朔真の写真を渡すと、小春は何も言わず、舞台を降りていく。

 衣装室のカーテンを開くと、なつめと深沢はそれぞれの衣装を手にして、

「おい、ユーゴ。また、デザイン変わってないか?」

 カーテンの向こう側の椅子に座っているユーゴは、

「いや、いろいろ試してみたかったんだ」

「毎回、変わってるじゃないか」

 深沢は着替え終わると、なつめの複雑な衣装を着るのを手伝っている。

「おい、お前が着せろよ!」

 ユーゴは舌打ちすると、カーテンの中に入った。微調整の糸を引っ張りながら、

「きつくないか?」

「ここは大丈夫。こっちがきついかな…」

「やっぱりな」

 全体を見ながら、ユーゴは何本かの糸を抜いた。

「これでよしっと」

「ありがと。ユーゴさん」

「俺のドレスを輝かせろよ」

「うん!」

 笑ったなつめに満足したのか、ユーゴは眩しそうに目を細めた。なつめは袖から舞台が整うのを見ながら、パイプ椅子に座った。

 深沢はなつめの肩に触れると、

「疲れたか?」

「うん。少しね…」

 ゆっくりとなつめの前に膝をつき、その顔を見つめた。

「目を閉じて…」

 優しく抱き締め、耳元に口を寄せると囁いた。

「新藤なつめの時間は終わりだ。ここからは、深沢宗司のパートナーのなつめの出番だ。心の準備は出来たか? 俺だけを見て、俺だけを感じて、俺だけに愛される覚悟は出来たか?」

 心のなかに沁み込むように言葉が入ってくる。深沢宗司のパートナーとして、誰にも負けない存在になる。心のなかを熱風が駆け巡る。ゆっくり目を開くと、深沢の腕の中から顔をあげる。

「勿論」

 今までの疲れた表情が、凛とした生気を蘇らせ、輝いた笑みを浮かべる。溢れる程の眩しいオーラに、深沢はそっと唇を撫でた。

「宗司、キスはダメ…」

「なんで…」

「化粧が崩れる…」

 渚が真面目な顔で呟く。憮然とした様子で、渚と入れ替わると、軽くパフで汗を拭われ、衣装に合わせたアイラインを引かれる。渚は何度もなつめの顔を動かして確認すると、

「よし! これで大丈夫」

「こんなに化粧映えするとは思わなかったな」

 ユーゴの感心した言い方に、

「この表情を引き出したのは、深沢さんだよ。化粧じゃない」

 舞台袖に立つ深沢となつめの後姿を見つめ、渚とユーゴは笑いながら、舞台から降りて客席についた。


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