……………9-(3)

 大体の大筋が出来上がると、ヨハンとなつめは床に座り込んだ。あとは時間が許す限りより深めるだけだ。エルナンは途中から、床で転がって眠ってしまっている。静流と渚は端のほうで眺めている。部屋の隅には、ピアノが置いてあり、先程までエルナンとちなつが遊んでいた為、そのままになっている。

ちなつは鍵盤に触れながら、施設で教えてもらったらしいキラキラ星を弾いている。殆ど間違えていて、皆して笑った。

「ちなつ、面白いものになってるぞ」

「……むぅ」

 ちなつのむくれた顔に、なつめはしまったと口を押えた。ちなつの泣きそうな気配に、まずいと思った瞬間、

「なに、キラキラ星が弾きたいの?」

 渚が困った顔で、ちなつのご機嫌取りに向かった。なつめの拝んでいる姿勢に、しょうがないって感じで、一緒に椅子に座る。ヨハンも苦笑しながら、その様子を見ていた。

「うん。一番上手って褒めて貰ったんだもん!」

 渚は優しく頭を撫でると、

「一緒に弾こうか…」

「うん!」

 ちなつと渚が一緒に弾き始める。何度か、弾いているうちに、ちなつの間違えはなくなり、二人で楽しく弾いている。気持ちいい音の響きに、渚は幸せそうに笑みを浮かべた。

「………」

 その様子に、なつめは何かを言い掛けたがやめた。

「…じゃあ、ちなつはそのまま弾いて…」

「うん…」

 無意識のように、目を閉じた渚の指が鍵盤を弾いた。渚がちなつに合わせて、少しずつ連弾を始める。

「……っ!」

 ヨハンは驚いたように振り返った。なつめは既に渚を凝視している。エルナンは驚いたように飛び起きると、静流と視線を合わせた。ちなつは一生懸命教えてもらった事を繰り返し弾いている。渚の連弾はどんどん複雑になり、渚は我を忘れたように弾いていた。

 ちなつが止めると、渚の手も止まった。

「………っ」

 急に現実に戻った渚は、見上げるちなつを見て、呆然としている周りをみて、自分の両手を見た。

「僕は…」

「なんか凄いものを見た感じ…」

 静流の感想に、エルナンはそっと渚の側に寄ると、

「もうさ、自分を押し殺さなくてもいいじゃない? あんなに怖いって言ってたピアノも、実際弾いてみたら、気持ちも違うでしょ」

「エルナン…」

 渚は拳を握り締めると、何かと必死に戦っているようだった。なつめが起き上がろうとすると、ヨハンが止めて、首を横に振った。

「何かがすれ違ってる気がする。君の友達は一体、君の何を望んでいたのかな」

「エルナン…」

 静流が眉間に皺を寄せて止める。

「静流は黙ってて…。今だから、思い出さないといけない。彼らは君に何を言ったのか…」

「───」

 交通事故の瞬間は、理解する前に叫ぶ声と激しく引っ張られて突き飛ばされたことしか覚えていない。遠い意識のなか、聞こえてきた呻き声とざわめく人々の叫ぶ声、救急車のサイレンの音。周りの声は妙に遠く聞こえ霞んで見えた。でも、渚の上に覆いかぶさるように重なった二人の顔だけははっきりと見えた。何も言葉は発せられないのに、

「…渚、良かった。無事ね…」

「…お前は生きろっ! 俺たちの分も、お前のそのピアノで人々を幸せにしろ!」

「もう一度、渚のピアノ聞きたかったなぁ…」

「おい、待てよ! 嫌だ、大輝だいき三智みち…」

 いつも元気で渚を庇ってくれた姉御肌の三智、三智と喧嘩ばかりしていたが、頼りない優等生の大輝。二人に掴まれている手の力がなくなり、意識が薄れていくと同時に温もりが離れて行った───。

 渚の視界が大きく歪んだ。目頭が熱くなり、頬を涙が流れる。

「あぁ、あぁ、ああ…」

「秋穂っ!」

 ヨハンは駆け寄ると、その体を抱き締めた。

 失った悲しみに耐えられなくて、全てから逃げた。逃げたままなら良かった。どんな巡り合わせなのか、ポスターを見てなつめの存在を知り、その演技を見て、じっとしていられなくて、以前から交流のあったユーゴに連絡を取った。スタッフに参加させてもらい、側にいるとどんどん刺激を受けて、ピアノの側に立ったこともあった。震える指を握り締め、大輝と三智の声が耳の奥深くで聞こえた。

『お前のそのピアノで人々を幸せにしろ』

 その言葉を今思い出した。渚はヨハンの腕を強く掴むと、

「ヨハン、僕は…」

「無理はするな…」

「僕はピアノが弾きたい…」

「秋穂…」

「弾いてみたいんだ。なつめ君、いいかな…」

 震える声で、それでも真っ直ぐに見つめる真剣な目に、なつめは笑みを浮かべた。

「…この舞台は、俺も自分との戦いだと思ってる。秋穂くんの思うようにやっていいよ。一緒に公演出来るなら、俺も嬉しいし」

 ホッした様子の渚に、なつめは冷たくなった渚の両手を強く握り締めた。渚は大きく頷くと、

「僕も今の自分と向き合ってみたい。今ならそれが出来る気がするんだ」

 かつての大切な兄弟と、まだ短い時間だが、仲間だと思える人がこんなにも沢山いる。

 ヨハンはなつめと渚の肩を叩くと、抱き寄せた。

「よし! なら、曲の編成も変更だ。ユーゴを呼んで来い!」

「あぁ…? さっきからいるっての」

 ドアの影から、ユーゴが楽しそうに歩いてくる。ユーゴは渚の側に寄ると肩を叩き、何も言わず笑った。防音になっているこの部屋から聞こえるはずのない、ピアノが聞こえてきて、ユーゴは先程からドアを少し開けて聞いていた。

 輪のなかに座ったユーゴは、ヨハンが床に広げたタイムカットを見つめた。

「で、どう変更する?」

「まずは、ここを変える。登場の楽曲はやはりこっちの曲にしよう。ライトの演出で派手に始める。これは礼央奈から提案を受けて保留にしていた例の件だ。

『パイレーツ オブ カリビアン Theme song』

この四分間はなつめの演技だ」

「…分かった」

 なつめは大きく頷くと、ヨハンと視線を合わせる。

「曲調が変わるこのタイミングで、エルナンの登場だ」

「オッケー」

「…俺の衣装の見せ場のタイミングは…?」

 ユーゴの真剣な眼差しに、ヨハンは腕を組んだ。

「あの曲の流れだと、ここが一番の見せ場だ」

「…だな。なつめ、エルナン、最高のショーを期待している」

「任せてよ!」

「………はい」

 軽い返事のエルナンに対して、なつめはユーゴに睨まれ、顔を引き攣らせた。ユーゴが何か言い掛けたのを、ヨハンが遮る。

「秋穂、君はなにを弾きたい?」

 渚は考える事もなく、ただ重い口を開いた。

「…モーツアルトの『キラキラ星変奏曲』と…」

「『Davy Jones』だろう?」

「…うん。可能なら、この曲は、なつめ君と一対一でやってみたい」

「………」

 なつめは驚いて、渚を凝視した。

「あのオルゴールのヤツだよね…」

「あれ? なつめ、ヨハンが弾いていた時、踊っていたよね。もう出来てるんでしょ?」

 エルナンの鋭い突っ込みに、なつめは唇を噛み締めた。静流はまた余計な事をとエルナンの頭を叩いた。

「なんで、怒るんだよ!」

「うるさいっ!」

 静流とエルナンが言い合っているのを横目で見て、

「あれは…、宗司が作ったバリエーションで…」

 ユーゴとヨハンは何も言わず、なつめの言葉を待った。なつめは拳を握り締めると、言い掛けた言葉を飲み込んだ。背中を汗が流れる。そっと視線を渚に向けると、穏やかになつめの言葉を待っている。

「…っ……」

 答えられないなつめに、ヨハンはその頭を優しく撫でた。

「次の問題は、『キラキラ星』をどこに入れるかだな」

 ヨハンの考えて組んでいる腕を小さな手が触れる。ヨハンの目の前に、自分の顔を指差したちなつがいた。

「えっ? ちなつ?」

 ヨハンは渚に視線を向けると、渚は吹き出すようにして笑った。

「そうだね。ちなつと一緒にさせてもらうよ。指慣らしにはちょうどいい」

「やった!」

 楽しそうにスキップしているちなつに、ユーゴはがっくりと肩を落とした。

「お前の衣装まで作らないといけないじゃないか」

 話はついたとばかりに、ヨハンは渚の顔を見る。

「そのまま『Davy Jones』を演奏できるか?」

「あぁ、問題ない」

「………」

 まだ答えられないなつめに、項垂れていたユーゴは横目で見た。

「なつめ…」

「ユーゴさん」

「衣装なら出来てる…」

「えっ?」

「あの時は無理でも、今は踊れるんじゃないか? いつか踊れると思って作ってある。だから、衣装はもう出来てる」

「…っ…!」

 なつめは拳を握り締めると、渚を見つめた。

「僕も不安で一杯だよ。どれだけ高められるか分からないけど、君となら越えられるんじゃないかって思ってる…」

 なつめは皆の顔を見ると大きく頷いた。

「…分かった。あれは、以前宗司が俺のために考えてくれた振付なんだ。あの時は、一人で踊る自身がなかったから、無理だって言ったんだけど、今はやってみたいって思う…」

 ヨハンは大きく頷くと、

「OK! チャレンジだ。出来の良し悪しではなく、可能性を広げよう」

 ユーゴは大体の流れを把握すると、

「…大体は決まったな。ライトの演出の段取りは、礼央奈に伝えておく。なつめは宗司にすぐに連絡して、完成させろ!」

「……うん」

 携帯を出すと、最近、教室に籠っている深沢と話を始めた。ユーゴは礼央奈に連絡すると、打ち合わせをしながら、渚の顔を見た。

「いい顔付になったな…」

 会話の途中で囁くと、渚はヨハンを見て大きく頷いた。


 お昼を食べた後、最後の打ち合わせをしていた時、なつめは一瞬の気が緩んだ瞬間、膝がカクンと力が抜けた。

「………」

 唇を噛み締め、腕を組んで態勢を変えた。だが、無表情な深沢が側に寄ってきて見下ろす。

「なつめ…」

「………」

「なつめ君…」

 静流までが側に寄って、なつめの腕を掴まえて、首を横に振った。常になつめを近くで見ているこの二人には、なつめの体調は筒抜けだ。

 深沢はジッと見つめ、大きな溜息を吐いた。

「駄目だ。ストップだ…」

 なつめは深沢を見上げて、

「でも、もう終わるから…」

「明後日はもう本番だ。これ以上のレッスンは無意味だ」

「そうだよ…」

 二人に睨まれてなつめは小さく笑うと、力なく深沢の胸に倒れ込む。

「おっと…」

 横抱きにして、その頭を抱き寄せた。ソファに座り、顔を覗き込むと、深沢の胸に凭れて安心したように眠っている。深沢の服を掴んだまま離さない。力の入った指を静流が解いていく。

「もう頑固なんだから…」

「あれ? なつめ、ダウン?」

 エルナンはタオルで汗を拭きながら、覗き込んでくる。

「うん。少し休まさないと…」

 ヨハンと渚はソファに寄ってくると、

「やっとダウンしたか…」

「凄い集中力だよね…」

「諸刃の剣だ…」

 なつめの穏やかな寝顔を見て、ヨハンは深沢の顔を見た。

「あとはこっちの仕上げだけだ。ゆっくり休む時間はやれないが、明日は二人で過ごすといい」

「こっちの練習にまで付き合わせてしまったし、なつめ君ごめんね」

 渚が優しく頭を撫でると、なつめは深い眠りに入ってしまった。深沢は上を見上げると、

「しょうがない。別荘に行くか…」

「分かった。多分、もうすぐ基さんが来るから、乗せて行ってもらおう」

「…悪いな」

 なつめを背中に背負うと立ち上がる。静流はすぐに鷹東に連絡を入れている。ヨハンはなつめの頬に触れると、

「君にしか出来ない事だが…」

「……?」

 深沢が振り返ると、

「なつめの心を本番までに、幸せで一杯にできるか?」

 ヨハンの意図した思惑を感じると、深沢は笑みを浮かべた。

「任せておけ。それなら得意だ…」

 深沢の勝ち誇った顔に、ヨハンと渚は吹き出して笑った。今の全てを出し切る為に、最善を尽くすのみだ。だが、その中心に存在するのはなつめだ。

 ヨハンと渚は視線を合わせると、大きく頷いた。




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