……………9-(2)

 食事も終わり、縁側に座って月を眺めていた。深沢が今日はマンションに帰って、着替えやいろいろ準備してくるって事になった。寂しそうに見送ると、深沢は心惹かれるように、何度も振り返っていた。

「恋人と離れるのは、寂しい?」

 玄関先のイチャイチャを遠目で見ていたヨハンだが、心あらずななつめの側に座ると、可笑しそうに笑った。

「なんだろう。離れると、心にぽっかり穴が開いちゃって…」

「随分と惚れ込んだな」

「元々さ、父さんがいなくなった後の穴を埋めてくれたのが、宗司だから…」

 ヨハンは仏壇に飾ってある写真を振り返って見つめ、

「あぁ、彼は早くに旅立ってしまったのだな」

「うん…」

 なつめの肩を優しく抱きながら、

「まあ…。私から見ても、彼はいい男だよ。目を引く花があるというか、それなのに、純粋な目をしている。きっとダンスにしても君に対しても、誠実に向き合っているのだろう」

 なつめはヨハンの顔を見ると、

「最近は物事が物凄い速さで進むっていうか。どんどん人が集まってきて、仲間が増えて、廻るましいって感じなんだ…」

「それはそういった時期が、転換期のようなものだな。波に乗れるか、もしくは波に攫われるか…」

 ヨハンは月を見上げると、

「こんなふうに、穏やかに月を見ることはなかった。君との再会は、私にとってとても重要だ。私自身と向き合う事と、出来れば…」

 言いかけた言葉を飲み込むと苦笑した。

「時間は早い。あの時、公園で知り合った君と私たちが、またこうして同じ時間を共有することに深い意味がある」

「ヨハン…」

 悲しそうな笑みを浮かべたが、スッと表情を消した。

「明日から…。君と私は、自分との闘いだ。お互いに頑張ろう」

「…う、うん」

 なつめは複雑な心境のまま、ヨハンの背中を見つめた。


「…さて。曲さえも決まっていなかったのか…」

 早朝からレッスン室に向かったヨハンは、既にレッスン室にいたなつめをドア越しに見つめていた。その苦悩した姿に、少しの間躊躇したが、拳を握り締め、ドアを開けた。

 驚いて言葉もなかったなつめだが、無表情なヨハンはなつめの視線を無視して、指慣らしを始めた。

「………」

 なつめの視線に耐えられなくなったヨハンは、キッと睨んだ。

「邪魔をするな」

 不機嫌な表情と台詞が昔と一緒で、なつめは吹き出すように笑った。笑われた事に眉間に皺を寄せたが、作った無表情が崩れてしまい、ヨハンも吹き出して笑いながら床に座った。昔の楽しかった記憶が蘇る。

 なつめは床に寝転んで、ストレッチをしながら愚痴る。

「どうして、俺の誕生日なのに、こんなに苦労しないといけないんだよ」

「ハハッ…。それはどんなに成長したのか、見たいのではないか?」

「そういえば、授業参観も母さんは一度も行かれなかったって、呟いてたな」

「愚痴っても仕方がない。どんな状況でも結果が全てだ」

 なつめはクスッと笑うと、

「そんなところは変わらないね」

「そうか?」

「現実主義っていうか…」

 ヨハンは笑みを浮かべ腕を組むと、

「…で、イメージはどんな感じ?」

「ハードロックなクラシック?」

「また、とんでもなく、ハードルを高くしたな」

「だって、母さんのクラシックだと変わり映えしないし。でも、宗司といろんなダンスを踊り始めて、バラードは妙に表現するのに、しっくりくるんだ。だから、どうせならその路線で新たなイメージをずっと探しているって感じ」

「君は呑気だな。公演は一週間後だ」

「………」

 なつめの不貞腐れた顔に、ヨハンは吹き出した。

「あぁ! 笑ったな、ヨハン!」

「君もそんなところは変わらない」

 なつめの急にシュンとして項垂れた様子に、ドアの入り口に座り込んでいる背中を見つめた。口許に笑みを浮かべると、

「…彼を呼んでおいで」

「彼?」

 ヨハンが指差すと、いつの間にか静流が入り口のドアの側で、背中を向けてカメラの掃除をしていた。

「静流さんっ!」

「彼はなつめの何?」

「親友だよ!」

 なつめは嬉しそうにドアを力一杯開けた。予想しなかった静流は後ろ向きに、

「えっ、うわあぁあ…」

 部屋の中に転がり込んできた。

「…あ、ごめん」

「なつめ君、もう…びっくりした」

 静流はなつめに手を引かれて、ヨハンの前に来ると、

「なに?」

 ヨハンはジッと静流の顔を眺め、

「君は父親にはあまり似ていないんだな」

「え!」

 思わず、口をへの字にすると、

「訂正だ。その癖はとても似ている」

「……っ!」

 静流はジッとヨハンを見上げると、

「父さんを知ってる?」

「あぁ、我が家に突然現れて、腹が減ったから何か食わせてくれって、何度か」

「……っ!」

 ありえそうなので、静流が思わず項垂れた。

「その時に、私のヴァイオリンに合わせて、何処かの民族舞踊を披露してくれた。うちの息子のほうが上手いのだがって話を聞いた。飯代の代わりに踊って見せてくれ」

「あのバカトト、なんてことしてくれてんだよ」

 静流は大きな溜息を吐くと、

「仕方ない。でも、一度だけだ。いいな」

「勿論…」

 なつめは目を輝かせて、静流を見る。なつめに大切なカメラを渡すと、

「リズムはこの手拍子だ。結構早いよ」

 ヨハンはヴァイオリンで、リズムを合わせていく。そこに独特のメロディーを乗せて、曲を作り上げている。大体のリズムが出来上がると、

「さて、ほいっと…」

 軽くジャンプすると、軽快な足捌きで、複雑なステップを踏んでいく。なつめは思わず、そのステップを凝視した。静流は軽快にジャンプしているが、見た目以上に激しいステップに釘付けになった。中腰の姿勢で繰り出すステップは、足腰の丈夫な静流だから踊れるのであって、普通なら既に足が攣りそうだ。なつめはそのステップを脳裏に焼き付け、軽くステップを踏んでいる。

「うわあ、もう無理…」

 静流が床に転がった。

「前はこんなの夜通し踊ってても平気だったのに…」

「………」

 なつめの脳裏に何かが掠めた。静流の踊った素早いステップを何度も踏みながら、何かのイメージを掴み掛けた。何度も頭のなかで、今のイメージを作り上げている。何かが形になりつつある事を感じたヨハンは口許を上げた。

「これによく似た楽曲を思い出した」

「…なに?」

 ヨハンはリズムを取りながら、優雅に弓を構え、低音の力強い音色から、激しく弾き始める。その曲に、なつめは目を見開いた。イメージが沸き上がってくる。

「……っ!」

 なつめは静流にカメラを渡すと、部屋の中央に立った。

 ヨハンのヴァイオリンに合わせて踊り始める。激しさを併せ持つ曲調には、力強いステップと高速回転から切れのある動き、陽気なアップテンポな曲調には先程の静流のジャンプステップとアルゼンチンタンゴの足捌きを組み合わせる。優しいメロディーには、クラッシックバレエと柔軟なポーズで繊細な優雅さを表現した。なつめの体が優雅に舞う。

「………」

 ヨハンはその様子を目で追いながら、心が動かされる。その踊りには冷え切った心の奥に、暖かな炎を灯した。胸に沸き上がる情熱に、ヨハンは目を閉じるとヴァイオリンに寄り添った。

「……っ…」

 昔の記憶が蘇る。四人で演奏していた頃の楽しさが込み上げてくる。それを見て、幸せそうに頷いているジレ男爵が笑いかけた。

「……っ!」

 ヨハンの音色が変わった。陽気なアップテンポな曲調になった時、なつめの踊りにも熱が入り、そこへなつめの影のように動きに同調するものが突然現れた。

「………」

 自分と場所を入れ替わり、その者と視線を合わせる。本気のエルナンの視線に、二人の動きは同調している。静流は写真を撮るのも忘れて見ていた。

「凄いっ!」

 踊り疲れたなつめとエルナンは、肩で息をしながら床に転がった。

「うわぁ、きつい」

「はぁ、はぁ、はぁ…」

 ヨハンは言葉にならない二人を見つめ、

「君たちはいいコンビだな…」

「さっきから見ていたけど、此処はさ。二人の方が合うと思うんだよね。ねぇ、僕も出たいよ」

 エルナンの呟きに、なつめは静流の顔を見た。静流は両手を上にして頭を傾げる。なつめは腕を組むと、

「まあ、俺の誕生日パーティだし、客もいないんだから、いいんじゃないかな」

「静流も一緒に踊ろうよ…」

「な、なんで、僕が!」

 エルナンの頭を叩いて、縋ってくる手を叩いている。先程から何処か心あらずなヨハンの腕に触れると、

「ヨハン、この曲ってさ…」

「あぁ…」

「『パイレーツ オブ カリビアン He’s a pirate』だよね!」

 エルナンが楽しそうに言う。

「でも、どうせなら、ヴァイオリンとピアノの独奏も聞きたいな」

 ヨハンは笑みを浮かべただけで、何も言わなかった。

「…それは、なつめの衣装替えもあるから、可能だろう?」

 ユーゴがお盆一杯のドリンクを乗せて入り口に立っていた。

「朝から籠り続けてるから、一体どんなレッスンしてるのかと思ったら…。お前らまで一緒になって面白い事しているな」

 無理をさせないように、深沢から見張りを頼まれていたが、ユーゴはなつめの頭を撫でた。

「いい感じに出来上がってきたな…」

「…うん」

「…俺も混ぜろよ」

 なつめと静流は吹き出して笑っている。

「ヨハン、お前の衣装も俺が用意していいか…」

「あぁ、構わないが…」

 ヨハンはなつめを見ると、

「ユーゴさんはデザイナーだよ」

「それでか」

 納得したように、ヨハンはOKサインを出した。

「なら、フルスタッフで行くか」

 ユーゴは携帯を出すと、全員集合の合図を送った。


 疲れているのに、楽しさが上回って、笑いが込み上げてくる。なつめは自分の部屋で、携帯で深沢と先程まで話をしていた。終わっても、今日の事を思い出してしまい眠れそうになかった。

 部屋のドアをノックする音に、

「はーい。開いてるよ」

 ベッドに転がったまま、振り返った。ゆっくりと開いたドアから顔を覗かせたのはヨハンだった。

「日本は平和な国だ…。こんな開放的なところはない」

 なつめは笑いながら、椅子を進めた。

「君たちの結束力が凄いな」

「いい仲間だよ」

「私も、昔を何度か思い出したよ…」

 ヨハンの悲しそうな顔に、なつめは起き上がると、

「ヨハン、あの時の他の人たちの事を聞いてもいい?」

「あぁ、そうだな。一人は不幸な出来事があって、帰って来られなくなった。一人は、元々の悪い癖が治らなくて、掏った相手が悪くて殺された。一人は流行り病であっけなく。残ったのは私だけだった」

「そうなんだ」

 ヨハンの辛そうな表情に、なつめは黙った。

「世間は不幸のカルテットって、揶揄した者もいた。それにジレ男爵は、いつ頃か自分を責めるようになった」

 彼らの運命を変えてしまったのは、自分ではないだろうか。

 そう責めるジレ男爵を側で支え続けた。

「その男爵が急に変わって、私を責め始めた。それはどんどんエスカレートして…」

 どうせ何かに奪われるくらいなら、私がお前のすべてを奪ってやる。ヨハンにとって、施設から拾って貰った恩がある。父親のように感じていた時もあった。

「可笑しな関係が何年続いたのか覚えていないが…。ある日、彼のベッドから出ようとした私に、すまないが抱き締めてくれないかって言うんだ。可笑しいだろう? 私は笑って、その場を後にしたんだ」

 今更、何を抱き締めろっていうんだって、部屋に帰っても、眠れないほどだった。だが、次の日、起きてこない彼に執事と二人で部屋を訪ねると彼は既に死んでいた。あとで、主治医に聞いた話によれば、心臓の薬をここ数日飲んでいなかったらしい。

「分かるかい。昨日まで調子が悪いって言ってはいたが、突然次の日にその存在自体がいなくなった。気持ちの整理もつかず、行き場もないままに、失った者の大きさが、どんなものか思い知らされる気持ちを…」

 ヨハンは涙を流しながら、悔しそうに拳を握り締めた。なつめはヨハンの震える手を両手で触れ強く握った。

「もしかして、ジレ男爵のこと?」

「ああ…。なんであの日、抱き締めなかったんだろうかって悔やんだよ。側に居すぎて分からなかった」

「ヨハン…」

「彼のいなくなった後、私に何が出来るのか、考えたよ」

 彼がよく話していた失踪した娘を探した。せめて、彼の死を伝えてみようと思った。でも、娘も既に他界しており、孫娘が三人の息子を抱え、貧しい生活をしていた。

 ジレ男爵が自分を拾い育ててくれたように、自分にも何かが出来ればと彼女らを屋敷へと連れ帰った。もしも、彼女が望むのなら、結婚して、三人の息子も養子にしてもいいと考えた。

 それが幸せなのか知れないと思った。彼の後悔も少しは報われたんじゃないかって、そう思っていたのはヨハンだけだった。

「ちょうど、彼女たちとの生活も半年を過ぎた頃、突然、君のママからメールがきた。

『お久しぶりね、ヨハン。元気にしていたかしら。私はジレ男爵にはとてもお世話になったから、彼の思いをあなたに伝えるわ〝貴族のお面を付けた道化師さん、もう魔法はとうに解けているわ。さあ、本来の己に戻りなさい〟』

きつい言葉だったよ。ハンマーで頭を殴られたようだった」

「………」

 小春らしい言い方ではあったが、その時のヨハンの気持ちを考えると、あまりにも可哀想だった。

「そのメールには、君たちの演技のビデオが添付されていた。あの頃のまま、澄んだ瞳の君を見た時、押さえていた感情が溢れたよ。今の自分の不甲斐なさに、涙が止まらなかった」

 ヨハンは次の朝、深い眠りから目覚めたような気がした。家のなかで、我が物顔で贅沢三昧をしている孫娘を睨みつけ、そのまま追い出した。

「よく黙って出て行ったね…」

「彼女らの目的は、赤の他人の私の財産ではなく、ジレ男爵の取り分だった。それ相応を渡したら、すぐさま出て行ったよ」

 その時、ジレ男爵の苦悩を初めて理解した気がした。ヨハンは、すぐさま執事に全てを任せて、日本へやってくる準備に取り掛かった。

「………」

 涙を拭ったヨハンは、

「私は新たな人生を求めるために、此処にやってきた。それが、こんな出会いがあるとは…」

 ゆっくりと部屋のドアが開いた。

 そこには悲しそうに俯いた渚の姿だった。

「渚さん、どうし…」

 なつめは言いかけて、言葉を飲み込んだ。いつもかけている眼鏡を外している。髪型も変えて、そこに立っている。それはあのイギリスで出会った時、ヨハンの側にいた。

「あぁっ! 秋穂あきほくん!」

「遅いって気付くのが…」

 渚は苦笑いをしながら、部屋の中に入ってくると、ヨハンの目の前に座った。その手を握り締める。

「ごめん、ヨハン。俺に戻る勇気はなかった…」

 ヨハンは愛おしそうに渚を抱き締めると、

「いや、君が無事だっただけで良かった」

 渚が、日本の施設に一緒にいた友人に会いに、日本に帰った時、運悪く交通事故に巻き込まれた。側にいた友人二人は、渚を庇って亡くなり、渚は左手を骨折しただけだった。怪我が完治しても、ピアノを弾くと心と指が痛む気がして、恐怖でピアノやヴァイオリンから離れた。

「もう、怪我は完治しているのか?」

「うん。ただ、俺を庇って亡くなった二人を思い出して、あれからピアノもヴァイオリンも弾いたことがないんだ」

「そうか…。それでペンディングで化粧の仕事を?」

「うん。なつめ君の化粧を担当してる」

「それでか…。君のピアノは勿体ないが、表現することに変わりはない。頑張れ」

「ありがとう…」

 渚は漸く肩の荷が下りたのか、そのまま崩れ落ちるように、ヨハンの腕のなかで眠ってしまった。

「俺のベッドで寝ていいよ。俺は客間に降りるから、二人でこの部屋使って…」

「あぁ、ありがとう」

 なつめは部屋のドアを閉めた。一階へ降りて客間を覗くと、来客で一杯だった。まさか、皆泊ってるとは思いもしなかった。さて、どうしようかなって窓の外を眺めていたら、隣の窓から和真が手招きしている。窓を開け、身を乗り出した。

「和真パパ、どうしたの?」

「随分、大人数が泊ってるけど、布団は足りてるのか」

「あぁ…。うーん、和真パパ、今日泊めてくれる?」

「あ…? 早く来い!」

 なつめはすぐさま、裏口から出ると垣根を飛び越えて、窓の下に辿り着く。

「全く。あの垣根を飛び越えるなんて…」

 文句言いながら、窓からなつめの体を抱き上げて、部屋に招き入れる。そのまま、和真のベッドに潜り込むと、目を閉じた。

今日は一人で眠りたくなかった。

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