第9話 ヨハン シミット ジレ男爵(1)

 最近、幼い頃の楽しかった夢を見ることが多くなった。

 あれは確か小春がレッスン中に舞台から落ちて、右腕を骨折した時だった。頭も打ったかもしれないという事で、絶対安静という連絡を受けた時、まだ会社勤めをしていた朔真さくまは、我慢出来なくて、会社に長期休暇を取って、なつめを連れてすぐさまイギリスに飛行機で飛び立った。

 だが、長時間のフライトは体の弱い朔真にはきつかったらしく、途中から具合が悪くなり、偶然側にいた医者が付き添ってくれる事になった。イギリスに到着すると、そのまま小春の病院に運ばれた。朔真は一週間くらいで、普通の生活まで復活すると、少しずつ観光にも行けるようになった。

 初めての外国で、なつめは見るもの全てが驚きばかりだった。大きな公園で、朔真が先程から電話ばかりしている事に飽きてしまい、芝生の上を転がっていた。そのままコロコロと転がっていると、どこかでヴァイオリンの音が聞こえた気がして、その方向を見つめた。綺麗な池を挟んだ木の向こうから聞こえる。なつめは笑みを浮かべると、走って向かった。

「………」

 川のほとりを歩いていると、ベンチの後ろから話し声が聞こえてくる。

「…男爵はまだ帰って来ないのか?」

「知り合いと会うって言っていたから、長引いているんじゃないか?」

 聞こえてきた日本語に、なつめはそっとベンチの後ろを覗いた。大きな黒の入れ物をそれぞれが側に置き、四人が向かい合っていた。その内の一人と目が合うと、

「わあっ、び、びっくりした!」

「…なんだ。その声に私のほうが驚いた」

 なつめは苦笑いを浮かべながら、

「へへへ、ごめんね。日本語が聞こえてきたから…」

「えっ、日本人?」

 なつめはそっと側に寄ると同じように芝生に座った。楽しそうに四人の顔を見た。

「日本語が話せるのは、私と秋穂だけだ」

 そういった少年は、色素の薄い茶色の髪に、色白で目鼻立ちのはっきりとした美少年だった。笑った顔が可愛くて、

「…可愛い…」

「もうすっかりヨハンの虜じゃないか」

 秋穂が拗ねたようにいうと、ヨハンは当然という顔で笑っている。少し話をしていると、

「…そうか。なつめはお母さんがこっちにいるのか」

「うん…。怪我したから、心配になって…。父さんと一週間前に来たばかりなんだ」

「で、それは…」

 秋穂が不思議そうに、なつめの右手に巻かれた包帯を指差した。

「俺も来る前に、転んで捻挫したから…」

「そっか…。なら、なつめの為に…」

 ヨハンは仲間にウインクすると、皆は大きな黒い箱の中から、ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラを取り出した。ヨハンと秋穂がヴァイオリンをそれぞれ自由に弾き始まると、急に一瞬静止した。視線を合わせたと思ったら、一斉に弾き始める。それは合わせてるというより、それぞれを感じているというような音色に、始めはその音楽に聞き入っていた。

「………」

 急に、なつめは踊ってみたくなって、ゆっくりと立ち上がる。緩やかな曲に合わせて、優雅な手付きを振り上げ、踊り始めた。それに驚いたのが四人だった。バレエのような優雅な手付き、柔軟なポーズ、一つ一つの仕種の美しさ。真っ直ぐな視線に首を傾げ、笑みを浮かべた表情に息を飲んだ。心が惹きつけられるような存在に、四人は笑みを浮かべた。その曲に引き寄せられたように、人がどんどん集まって来る。人々はその演奏と踊り手に、曲が終わると盛大な拍手が送った。

「……っ!」

「あ、あれ? しまった…思わず…」

 なつめが照れていると、四人は側に駆け寄った。

「凄いじゃないか!」

「楽しかったよ…、また一緒にやろう!」

 なつめは嬉しそうに笑みを浮かべた。

「これはこれは…、こんな所にも恵まれた人材が…」

 背筋のピンと伸びた中年の紳士が、驚いたようになつめを見下ろした。なつめは言葉が分からなくて、頭を傾げると、ヨハンがそっとなつめの手を握った。

「君が一流の踊り手になったら、絶対に共演しよう。私たちも負けないように頑張るから…」

「うん!」

 なつめは大きく頷いた。

 なつめを探して回っていた朔真は、その微笑ましい様子を見て、笑みを浮かべた。

「いい友達ができたみたいだね…」

「父さんっ!」

 朔真の側に駆け寄ると抱きつき、見上げて笑った。

 シルクハットに黒の丈の長いジャケットを着た先程の紳士はそっと朔真の側に寄ると、

「失礼ですが、お名前をお聞きしてもいいでしょうか?」

 クセのある英語に、朔真は一瞬戸惑ったが、紳士の真剣な眼差しに、なつめの頭を撫でながら、

「俺は新藤朔真です。この子はなつめ」

 朔真が英語で答えると、紳士は先程病院に見舞いに行ったプリマを思い出す。

「新藤…、では、新藤小春は?」

「………」

 朔真は驚いたように目を見開くと、小春が言っていた知り合いの事を思い出した。

「妻ですが…。もしかして、小春が言っていたお世話になった知り合いの方ですか?」

 紳士は、小春の家族に会えた事を純粋に喜んだ。それから数回一緒に食事をした。なつめは、ヨハン達の練習を見たり、演奏会を観に行ったり、観光して遊んだりと、あっという間の二週間だった。それは自分を認めてくれた初めて友達で、楽しい思い出だった。イギリスには、一か月の滞在で帰国し、その後、ヨハンたちと会うことはなかった。


 なつめはレッスン室で深沢と両手を繋いで、床に座って目を閉じていた。高熱で三日も寝込んでしまったため、誕生日まであと十日しかなくなってしまった。

 深沢とのダンスは全く不安がないが、まだ一人で踊る曲も、ダンスも決まらない。そう深沢に相談したら、イメージトレーニングに付き合ってくれる事になった。

「ほら、少し右に傾いてるぞ…」

「ほんとだ…」

 お互いに集中しながら、音のない世界で踊ってみる。

「うーん、意外と難しいんだね…」

「イメージってものは自然と湧いてくるもんだからな。それにまだ、全開で踊らない方がいい。無理はするな」

 そっと目を開けると、深沢の心配そうな顔を見つめる。

「うん…」

 そっと腕に触れ、その胸に顔を埋める。

「あぁ、甘えてる」

 静流の笑ってる声に、静流がいる事をすっかり忘れていた事に赤くなる。

「もう静流さん、地下は嫌だって言ってたのに」

「だって面白いんだもん」

 がっくりと項垂れると、深沢はおかしそうに笑っている。上の階が賑やかになった事に、なつめ達は不思議そうにドアを見つめた。ゆっくりとドアが開くと、椎葉が顔を覗かせた。

「あっ、椎葉さん!」

「深沢、なつめ君、大丈夫?」

「お前、休暇は…」

 眉間に皺を寄せて、椎葉を睨んでいる。

「休暇は十分させて貰ったよ。家族旅行にも行ってきたしね。礼央奈が口を滑らせてくれて助かったよ」

 何か気になって、雛元に連絡したら、潤子が電話に出なかった。それが余計に気になって、礼央奈に連絡したら、事の顛末を話してくれた。二人が大変な時に、呑気に休暇していたかと思うと、

「小春先生が帰国しているなんて、それこそ教えてくれよ」

 皆の気遣いは嬉しいが、自分はこの中で小春となつめを一番よく知っている。

 だから、深沢はあえて言わなかった。椎葉が板挟みに合うと思ったからた。

「…俺はお前たちのマネージャーだ。これからはどんな事でも、お前たちと一緒に戦わせてくれ」

「分かった。なら、宜しくな」

「任せておけ…」

 深沢と椎葉が笑って拳を交わしていると、そこへ小春が顔を覗かした。

「なつめ、ちょっといらっしゃい」

 側に寄ってきた静流と顔を見合わせると、小春の背中を追い掛ける。その小春が振り向くと、

「あっ、そうだわ。椎葉、私のマネージャーも宜しくね」

「……っ、ええっ!」

 なつめと静流が避けると、椎葉が小春の後を追い掛ける。

「小春先生、ちょっと待ってくださいよ!」

 そんな二人の背中を見ながら、なつめは深沢を振り返り、深い溜息を吐いた。

 リビングに向かうと、妙に賑やかなドアを開けた。また宴会でも始まるのかと、グルッと部屋のなかを見回すと驚いたように視線と止めた。ソファに座っているスーツ姿の外国人の男性に、なつめは首を傾げ、小春を見る。

「もう、まだ思い出さないみたいよ」

「意外と薄情なんだな」

 流暢な日本語を話して笑う顔は、精悍な中にあどけなさがあり、胸のなかに何か沸き上がるものがある。色素の薄い茶色の髪を掻き上げ、グリーンのその目はなつめを真っ直ぐに見ている。ジッと凝視しているなつめに、彼は側に置いた黒のバッグの中から、ヴァイオリンを取り出した。

「……っ!」

 なつめは驚いたように側に寄り、そのヴァイオリンを持つ手を止めた。

「もしかして、ヨハン?」

「当たりだ」

「えぇっ! こんなに男前だった? 色白なのは変わらないけど、もっと可愛い感じで、身長だって俺と変わらなかったじゃないか」

「いつの話をしている」

「えぇ、それにしても…」

 驚いて声が出ない。でも、その顔を見ているだけで懐かしさが込み上げてくる。

「もういいや。会えて嬉しいよ…」

 一七〇くらいの身長、目鼻立ちのはっきりしたハンサム。スーツが良く似合っていて、貫禄さえある。そっと背中を抱き締めると、ヨハンは目を閉じて再会を喜んだ。

「私も会えて嬉しい」

「…で、なに観光?」

「な訳ないでしょ!」

 小春の突っ込みに、なつめは頬を膨らませた。ヨハンは可笑しそうに笑みを浮かべ、

「私は君に約束しただろう。君が有名なダンサーになったら、共演しようって。…だから、約束を果たしに来たんだ」

「え? 有名なダンサー?」

 なつめは眉間に皺を寄せると、

「誰が…?」

「君に決まっているだろう…」

「………」

 それに一番に吹き出したのは、静流だった。

「本人にその自覚は全くないからね…」

 周りにいる有名なダンサーである小春と深沢を見て、なつめは手を振った。

「俺はまだまだ…」

「でも、私はネットで見て心を動かされた。だから此処に来たんだ。君と共演するためだけに…」

「凄い事なんだよ…」

 エルナンはなつめの側に寄ると、深く優雅にヨハンに頭を下げた。

「なつめにとっては、昔知り合った友達だろうけど。彼は今、ヨハン シミット ジレ男爵なんだよ」

「…男爵?」

 ヨハンはソファに優雅に座ると、肩肘に頬を乗せて笑った。

「なつめと会った時に、中年のおじさんがいただろう? 彼がジレ男爵なんだ。私は彼の養子になって、その地位を継いだだけだ」

「へぇ、凄いんだね…」

 既に思考を停止して、なつめは考える事をやめている。それを感じて、小春と深沢は溜息を吐いた。

 エルナンはソファに座ると、

「彼のヴァイオリンはとても有名で、彼主催のパーティでしか聴けない超プレミアだよ。彼の存在が闇に包まれているって事で、ついたあだ名が闇の男爵」

「君はよく知っているね…」

「そのパーティチケットも、高額だと聞いていますよ。その男爵のヴァイオリンをタダで聞けるなんて…」

 静流はエルナンの頭を叩いて黙らせた。

「私は、見世物でヴァイオリンを弾きたくはなかったものでね。高額にして、パーティも付き合いの数回のみにした。すると、今聞いた噂になってしまったということだ」

 ヨハンの逸らした視線に、悲しみを感じて、なつめはヨハンの隣のソファに大人しく座った。ユーゴがコーヒーを入れてくれ、それを渚が配っている。打ち合わせなどで、皆がそれぞれ話始める。渚がなつめとヨハンの前にコーヒーを置くと、ヨハンがその手を掴まえ、小さく呟いた。

「やっと見つけた!」

「………」

 渚は詰めた息を吐き出すと俯く。長い前髪から表情は伺えられない。

「これはピアニストの指だ。鍛え上げられた手の甲の筋肉。ラフマニノフ筋だと言って笑った事があった」

 ヨハンはなつめを見て話している振りをしながら、その手を捕まえたまま、

「急がなくていい。君と会えただけで今は幸せだ。いつでもいい。私が帰る前には、会いに来てくれ」

「………」

 渚は何も言えず、小さく頷くと、リビングから出て行った。二人の意味深な会話に、なつめは心配そうに渚の背中を見つめた。エルナンがなつめの肩を叩くと、渚を追い掛けていく。

 そっと視線をヨハンに戻すと、ヨハンは楽しそうになつめを見ていた。

「えっ? なに?」

「そういった所は変わらないなって思ってね。じゃあ、再会も果たしたし、共演の話をしようか」

 ヨハンのあっさりした物言いに、

「本当なんだ」

「これでも忙しいんだ。冗談言うために態々来ないよ」

「うーん」

 なつめの歯切れの悪い言葉に、ヨハンは可笑しそうに笑った。

「分かった。君が納得するまで付き合おう。なつめを借りてもいいかい?」

 問い掛けは、近くに来た深沢に向けたものだった。深沢はそっとなつめを不安そうに見る。

「浮気なんてしないよ…」

 ニュアンスが届いたのか、なつめが頬を膨らませて言う。深沢がそれに可笑しそうに笑うと、

「一曲弾いて貰えませんか?」

 深沢のリクエストに、ヨハンは仕方がないって感じで立ち上がった。

「貸し出し料を取られるとは…」

 文句を言いながらも口許は笑っている。ヴァイオリンを取り出すと、顎で挟み、弓を振り上げた。一呼吸置いて、弾き始めた曲は、『カプリソース第二四番/パガニーニ』一瞬でその場に緊張感を強いる音色に、

「……っ!」

 キッチンにいたユーゴ達までも、驚いたようにやってきた。透き通ったような高い美しい音色、繊細で早い指使い、低音の力強い響き、圧倒されたパフォーマンスに誰もが言葉を失った。呆然と鳥肌が立つような緊張に身震いした。曲が終わっても、誰もが拍手さえ忘れていた。ヨハンは一息吐くと、呆けているなつめの頭を軽く叩いた。

「拍手は…」

 同時に我に返ったみんなが拍手をする。

「凄いっ…!」

「思わず、聞き惚れちゃったよ…」

 それぞれの感想に、気を良くしたヨハンは、ソファに座り込むと、

「…腹が減った。あまり食に拘りはないんだが、此処はいい匂いがするんだな」

 ユーゴは可笑しそうに笑うと、

「少し待ってくれ。今日は盛大なパーティをする予定なんだ」

 なつめは思わず静流を振り返った。

「そうなの?」

「あと一時間くらいしたら、みんな集まるよ」

 またもや、ここでパーティが始まるのかと、なつめは深沢を見ると、諦めた溜息を吐いた。

 ヨハンはヴァイオリンをケースに戻し、スーツの上着を脱いだ。手を差し出して受け取ったユーゴが、

「そんな恰好では肩が凝るだろう。これで良かったら着てくれ」

 薄いミントグリーンのシャツを渡している。ヨハンは珍しそうに、それを掴み、その場で着替えている。

「これは、着心地いいな」

「それ一枚でも涼しいだろう? 生地が意外と通気性がいいんだ…」

「へぇ…」

 なつめはそのデザインを眺めて、

「ユーゴさん、それ新作?」

「あぁ…」

 ソッポを向いて行ってしまった。新作が出来ると、気に入った人に着せるのはいつもの事だが、

「………」

 なつめは深沢の顔を見ると、微妙な顔をしていた。

 恒例の如く、皆が集まり、鷹東が来るとユーゴも手伝いに入り、豪勢な料理をどんどん並べていく。気合の入りまくった料理に、ヨハンと小春はもう既に楽しそうに食べていた。

「あぁ、母さん! もう食べてる」

「…待てなかったの。美味しい。和真と優美も呼んでおいたから、席用意しておいてね」

「もう…。この前の代金、宗司が払ったんだから、今回は母さん払ってよ」

「分かっているわよ。誕生日会までの食事代は、全て私が払います。こんな美味しい食事なら、いくらでも払うわよ」

「えっ、まさか…」

「ん? ユーゴと鷹東さんが交互で、皆のご飯作ってくれるって事だから」

「えぇ!」

 思わず叫んだなつめに、遠くからユーゴが叫ぶ。

「問題なし!」

 問題あるよって、深沢とまた溜息を吐いた。


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