………8-(2)
実家に戻って三日が過ぎた。今更ながら、小春と始めたレッスンは、ブランクをあまり感じないくらい馴染んだ。元々、小春がなつめの誕生日に踊っていたくるみ割り人形は、小春のオリジナルバージョンで、なつめはそれを何度もビデオで観て、ほぼそっくり覚えていた。
「嫌だわ、この子…。私より完璧に覚えているじゃないの」
「当たり前…」
なつめはニヤッと笑った。小春がいなくて寂しい時、朔真が録画したビデオを何度も流して、朔真と何度もレッスンした。それで、二人で寂しさを紛らわせていた。
「………」
このレッスン室は、小春がこの家を建てる時に、地下に作ったものだ。誰にも見られないで、レッスンに集中する為、此処に籠っていることもあった。
なつめにとっては、小春のレッスンをただ陰ながら黙って見ているだけの場所であり、小春を思って朔真とレッスンしていた、心の満たされない場所だ。朔真を思い出して、懐かしさに心が疼く。ふと深沢の事を思い出してしまい、小春に背を向けると、溜息を吐いた。
会いたい。
出会ってから、あまり離れたことがなかったから、余計に切なくなる。携帯で毎日話して報告はしているが、やはり顔が見たいし、あの腕に抱かれたい。
「………」
思い出すと、段々と我慢が出来なくなって、
「…母さん。そういえば、もう鹿のやのお弁当にも飽きてきたから、俺、他の弁当屋さんに買いに行ってくるよ」
小春はあまり料理をしないし、手の込んだ料理は出来ない。どちらかと言えば、朔真のほうが料理は上手かった。なつめの弁当も、いつも朔真が愛情込めて作ってくれていた。
小春は腰に手を当てると、
「ふーん。飽きたねぇ…」
意味深な視線に、なつめはサッと視線を逸らす。何か言われる前に体の向きを変えると、
「待ちなさい…、何処へ買いに行くの?」
「………」
鷹東にお弁当を作って貰って、その間に深沢に会いに行こうと思っていた。
「どこでもいいじゃないか」
「じゃあ、私も行く…」
「えっ…!」
なつめはじりじりと後ろに下がると、
「あなた、自転車で行くんでしょう? 私の自転車で私を後ろに乗せて行って…」
「なんで…!」
「さぁ、行くわよ。連絡入れておきなさいよ。ちょうど、挨拶したいと思って、あなたが行くって言うのを待っていたのよ。皆集合でお願いしたいわ」
「………」
バレバレだったことに、なつめは肩を落とした。
鷹東に連絡してお弁当を頼むと、快く引き受けてくれた。出来たら、挨拶がてらマンションに持って来てくれる事になった。なつめは小春を後ろに乗せて自転車を漕ぐ。
「…風が気持ちいいわ…」
「俺は汗だくだけどね…」
なつめは大きな溜息を吐きながら、先程の電話での会話を思い出していた───。お昼過ぎなんて、微妙な時間に連絡したものだから、深沢の声に緊張が走った。
『なんかあったのか…』
「ううん。…ごめん。あのさ、これからそっちに行ってもいい?」
『あぁ、構わないが…』
「あの、えっと、母さんも一緒なんだけど」
『………』
深沢の妙な間に、なつめは大きな溜息を吐いた。深沢は詰めた息を吐くと苦笑した。
『分かった。遠慮せず来い…』
「……うん」
何となく、憂鬱ななつめの気配が伝わったのか。深沢はクスッと笑うと、
『どんな形でも、お前に会えるのは嬉しい…』
「…っ…!」
なつめは胸のなかが温かくなるのを感じる。思わず笑みを浮かべると、小春が顔を覗き込んでくる。
「嬉しそうね…」
「もう母さんはあっち行っててよ」
「はいはいっ…」
「じゃあ、すぐ行くから」
二十分くらい掛かってマンションに辿り着いた。自転車置き場に止めると、
「あれ、なつめ君?」
まりもと偶然出くわした。
「あ? これから、出掛けるのか?」
「うん。ユーゴさんが出掛けられなくなったから、代わりにおつかい」
「そうか…」
「あら? どこかで見たことがあるわね」
なつめの後ろから現れた小春に、まりもは目を見開いた。
「あっ、あっ、ああ! なつめ君のママ!」
指差された小春は、真剣に誰だったか考え込んでいる。
「母さん、まりもだよ」
「まりもちゃん? そういえば、そう! んっ?」
まりもの後ろから出てきたちなつに、小春はジィと凝視する。
「あ、私の子です。ちなつっていいます」
「ちなつ? まさか…」
小春の眉間に寄った皺に、なつめは呆れた眼差しを送る。
「な訳あるか!」
「…そうよね。あー、びっくりした」
小春は両手を上げて、マンションを見上げる。
「へぇぇ、いいマンションね。さて、敵地へ行くわよ」
「やめてくれ。恥ずかしい…」
心配そうなまりもとちなつに手を振って、マンションのエントランスへと入っていく。まりもはユーゴの険しい表情の理由を理解した。
部屋のドアの前に立つと、深呼吸をする。ドアの上のカメラを見ると、カチッと自動解除の音がする。
「えっ、今、鍵が勝手に開いたわよ」
「うん。顔認証で鍵が開くんだ」
「今の日本はそんな高度なセキュリティがついているの?」
「そんな訳ないだろう?」
「じゃあ、どうしてよ」
「もううるさいなぁ…」
玄関を入り、リビングのドアを開けると、深沢がソファから立ち上がった。なつめは、キッチンにいるユーゴと静流を見ると、二人は大きく頷いた。
深沢はそっと歩み寄ると、小春に頭を下げた。
「初めまして。深沢宗司といいます」
「初めまして。なつめがお世話になっているようで、ご挨拶出来て良かったわ」
その眼光は鋭く、一挙手一投足を観察するかのようだ。一層大きくなった小春のオーラは、威圧感を与える。
「深沢っておっしゃったわね。深沢カンパニーとのご縁は…」
深沢は驚いて一瞬言葉に詰まったが、
「曾祖父の設立した会社です。今は妹が跡を継いでいます」
「そう…。ということは、あなたは自由な生き方を選んだって事ね。妹さんが余程優秀なのかしら」
「………」
部屋の空気が、小春のオーラに飲み込まれていく。深沢は拳を握り締めたが、なつめが何かを言いかけようとすると、それを阻止した。小春の顔を真っ直ぐに見つめ、
「それに関しては、そのとおりなので、耳が痛い限りです」
深沢の潔い引き方に、小春は目を細めた。そこに深沢なりの葛藤を感じた。
「ご両親には一度お会いしたことがあるわ。政治家のパーティだったかしら。ご不運にはお気の毒だったわ」
「……っ」
深沢の俯いた視線に、
「あなたのその目元はお父様似だけど、上品な顔立ちはお母様に良く似ているわ」
「…有難うございます」
久し振りに両親を知った人との会話だったが、昔のような劣等感や反発心はなく、素直に礼をいう事が出来た。もっと蔑むような言い方なら、違ったかも知れないが、小春が見ようとしているものは、深沢の人間性であるように感じた。
小春は、不機嫌そうななつめと視線を合わせると、
「なにその顔…」
「此処は母さんの仕事場じゃないんだ」
「分かっているわ。世間話も駄目なの」
視線を逸らすと静流と目が合った。小春は楽しそうに、
「昔話が出来る子がいるじゃないの」
手招きすると、静流は仕方なく側に寄っていく。
「お久しぶりです」
「本当に。お父様は残念だったわ。私の証明写真を撮る人がいなくなって、寂しく思っていたの。でも、ちゃんと後継者を残してくれているじゃないの」
「…母さん、失礼だよ」
なつめの怒った言い方に、静流は穏やかな視線をなつめに送った。小春を真っ直ぐに見つめ、笑みを浮かべた。
「それは僕に、証明写真を撮れって事?」
「あなた以外にいないでしょう? 久しぶりの証明写真なの。満足出来るものを期待しているわ」
静流の目が全く笑っていないことに、話の内容から、もうすでに小春の攻防戦が始まっていることに、なつめは今更ながら気付いた。
静流はニヤッと笑うと、
「分かった。じゃあ、撮り方は父さんの時と同じで、一対一で。それと、今回の誕生日パーティは専属で撮らせてもらう許可を貰える?」
「いいわ。そう言った事なら、うちのレッスン室を使っているから、家への出入りも好きにして…」
「了解…」
なつめの肩を叩くと、静流はウインクして離れていく。これで静流は、なつめの側に始終入れることになった。静流ならではの戦略だろう。
深沢とユーゴの安堵した様子を見ると、三人のうち誰かがなつめの側にいることが大前提らしい。
そして、小春はユーゴを見ると、
「あなたのお名前は…」
ユーゴはそっと用意した日本茶をテーブルに出した。
「ユーゴ佐伯です」
「あぁ…。あなたがデザインしたコスチュームは、どれも素晴らしいわ。さすが花枝萬三の秘蔵っ子ね」
「……っ!」
「あら意外かしら? 花枝さんとは何度かお会いしたことがあるのよ。イギリスに来た時には、食事にも行ったわ」
小春の交友関係の広さに、さすがのユーゴも舌を巻いた。チラッとなつめを見ると、
「今回の誕生日パーティの衣装ですが、俺に一任して頂けますか?」
「………」
なつめの不安そうな顔を見て、小春はユーゴを見つめる。
「そうね。もうなつめから聞いていると思うけど、今回の誕生日パーティは、私となつめのバレエの共演って言っても、この未熟者とお遊び程度だけど…」
笑っている小春に、なつめは睨みつける。
「お遊びでも、やることは本気よ。一切の妥協はしないわ。そして、この未熟者には課題を与えたわ。自分で考えて結果を出しなさい」
なつめは厳しい顔をしたが、大きく頷いた。小春は深沢に視線を向けると、
「そして、深沢さん。あなたには最後に、なつめとの演技を見せて頂きたい。私が見たいのは、この前のアルゼンチンタンゴ、HIRO、あとあの激しいステップは?」
「ジャイブですか?」
「あぁ、それそれ。その三つ…。でも、それを見るには、この未熟者が最後まで舞台に立ってたらの話だけど…」
「………」
なつめは唇を噛み締めた。
深沢は俯いたなつめの側に寄ると、その頭を撫でた。なつめは耐えられなくなって、その胸に抱きついた。その光景に小春は眉間に皺を寄せた。
「甘やかしは弱くするわ…」
「いえ。俺たちはお互いの弱い部分を補ってきました。あなたの言われる未熟者ですので…。それを二人で乗り越えます」
なつめを庇うように、小春の前に立つ。
「………」
小春は溜息を吐くと、
「分かったわ。ユーゴ佐伯、あなたに衣装の依頼を一任します。打ち合わせ等いろいろあるでしょうから、我が家に…」
なつめはジッと小春を見る。
「なに?」
「宗司と練習も必要だから、此処に残る」
小春は顔を引き攣らせると、
「あなたの場合は甘えたいだけでしょう」
「………」
頬を膨らませ、睨んでいる表情に、
「分かったわ。何処で逃亡されるのか、見張ってないといけないのも困るから。我が家に皆さん招待するわ。それでいいんでしょう?」
「やった!」
両手を上げて喜んでいるなつめに、ユーゴと深沢は詰めた息を吐き出した。そこへ、玄関から話し声が聞こえてくる。
「もういい加減終わっているだろう?」
エルナンの声に、深沢とユーゴは疲れたようにソファに力なく座り込んだ。リビングのドアが開くと、
「やっぱり、ママ! 遅かったじゃないか」
「エルナン、あなたがどうして此処にいるの」
エルナンは隣に立つ渚を見た。
「えぇ…、だって、此処は面白いんだよ」
小春は、エルナンの側に立つ渚に目を見開いた。
「あなたは…」
「…こんにちは」
エルナンと小春は微妙な視線のやり取りをしながら、それ以上を誰も何も言わなかった。その後ろから、礼央奈と檀がやってくる。
「いや、礼央奈はチェスが強すぎる…」
「ハハハッ…。私は負け知らずよ。いえ、正直には一度、負けたことがあるんですよね」
「へぇ、意外…」
能天気な礼央奈と檀は周りを気にすることもなく、リビングに入るなり、冷蔵庫の中身を物色しながら、コーヒーを入れている。
「どんな人…」
「名前はね、確か…。なんとかのプリマ…」
「孤島のプリマでしょう?」
「ああ…、そうそれそれ…!」
「………!」
リビングの中央にいる小春を見て、礼央奈はヒッと悲鳴をあげた。小春は面白いものでも見るように、
「まあ、随分昔の話だけど。そう、あなたがあの鬼才ハッカーのアフタヌーンティーね。此処の異常なセキュリティの理由が分かったわ」
「………」
礼央奈は大きな体を、檀で隠す。小春は部屋の中を見回すと、大きな溜息を吐いた。
「まぁ、此処はどうなっているの。溢れた才能の集まりね。どうやったら、こんなに集まったのか不思議なくらいだけど。迷い子もいるようだけど、びっくりしたわ」
その中に自分の息子もいる。ここ数年で、格段に人間的にも成長した訳が分かった。
花枝が言った言葉を思い出した。
「才能は才能を呼ぶかぁ…。導かれたのか、惹かれてきたのか」
驚いたユーゴは小春を見つめた。
「それで、なんでみんな此処にくるの」
「食堂だから…」
「………」
みんなが一斉に言った言葉に、深沢となつめは深い溜息を吐いた。小春は吹き出して笑うと、
「なにそれ。おかしいわ」
こんな大人数の賑やかな所にいたら、家で小春と二人なのは、さぞ寂しかったのだろう。
すると、また玄関から音がする。部屋に人が溢れているのに、まだ誰が来るのか、小春は楽しそうにドアを見つめた。
「静流くん、ドア開けて…」
鷹東の声に、静流が慌ててドアを開ける。鷹東が抱えるほどの大皿を重ねて抱えている。なつめは驚きに飛び上がった。
「オーナー、俺そんなに頼みましたか?」
その後ろから、まりもとちなつが一緒にお皿を運んでいる。
「あっ、いやね。この際、ここでみんなと一緒に食べたらと思って…」
缶詰で息苦しさを感じているんじゃないかって配慮だった。それに少しでも長く、深沢の側に居れるように、
「すみません。有難うございます。全額母が払いますから…」
「えっ! なつめ、財布持って来てないわよ。立て替えといて」
「もう…財布くらい持って来いよ」
なつめと小春が言い合いをしていると、ユーゴと深沢がリビングに机と座布団を用意し始める。
小春はどんどん宴会の準備が始まっているのを横目で見ながら、鷹東に頭を下げる。
「すみません。こんな事になるなんて…」
「いえ、いつもの事ですから…」
「母さん、オーナーはさっき通った喫茶店のオーナーで、このマンションのオーナーでもあるんだ」
「えっ! それは…。失礼ですが、お名前をお聞きしても…?」
「鷹東といいます」
小春は少しの間考えると、
「あの不動産王と呼ばれる資産家の鷹東家ですか? 旧家の橘家とは東遠ですよね」
鷹東のほうが驚いた顔をしている。
「よくご存じですね」
小春はハッと、先程彼が呼んだ名前を思い出した。礼央奈を振り返ると、今度はエルナンの影に隠れている。雛元のHPに、取締役として橘礼央奈の名前があることに、その名前を知ってるものは驚いた。雛元の現在の代表は呑気な養子だと聞いていたが、その写真から窺い知れるのは深沢とよく似た目元。橘礼央奈のバックには、曲者らしい雛元とこの鷹東がいる。背後で繋がっている深い絆に、ここはなんて恵まれた場所だろうかと内心驚きの声を上げた。
「………」
小春は深い笑みを浮かべると口を閉じた。踏み込んでいいラインがある。これ以上の詮索は止めておいた方がよさそうだ。
なつめが手招きして呼んでいる。そこに黙って座ると、
「じゃあ、なつめのママの帰国祝いってことで…」
勝手に仕切ったエルナンに、
「そうなの?」
小春も訝しげに聞いた。
「なんでもいいんだよ…」
「乾杯!」
時間を見れば、もう五時を過ぎていた。なつめがお皿に持っているのを貰い、賑やかな周りを見ながら食べ始める。
「美味しい!」
「だろう!」
少し静か過ぎるが、皆が笑っている食卓。小春はちょっと昔を思い出して、大勢の食事を堪能した。食事が終わると隣に座っているエルナンが、
「そういえば、ママ。ジレ男爵はくるの?」
その言葉に、渚の肩が反応したが、小春は見ない振りで、
「ええ、来るわ。約束を果たすそうよ」
「やっぱりここは面白いな。あの闇の男爵が来るのか…」
エルナンは渚の俯いた顔を見る。
「ジレ男爵って?」
なつめは不思議そうに小春を見た。小春は眉間に皺を寄せた。
「やだ、この子。忘れているの? 来るまでに思い出しなさいよ」
「えっ、何を……?」
それには誰も答えてくれなかった。
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