………8-(3)

 なつめの実家に、拠点を変更し、移動することになった。深沢とユーゴは相談の結果、客間に泊まり、そこからそれぞれの仕事へと向かう事にした。必然的に数人が用事を兼ねて、なつめ宅に食事の作り置きを回収にくる。結局は、皆が集まってくる事に変わりはなかった。恐ろしい軌道修正だと、深沢は溜息を吐いた。

 深沢とユーゴが心配したとおり、なつめの不安定さが少しずつ露われ始めた。夜寝静まった客室で、ユーゴと深沢は目を閉じたまま、微かに聞こえる音に耳を傾けた。

「………」

 目を開けるまでもなく、そのまま動かない。コトッとドアが静かに開くと、ゆっくりと歩く足音。深沢の布団の足元からゴソゴソと何かが入ってくる。深沢はそっと潜り込むと、抱き抱えて布団から顔を出す。

「またか…」

 ユーゴはなつめの眠っている顔を見つめた。始めの頃は、ユーゴと深沢も笑っていた。だが、無意識に潜り込んできている事に笑えなくなった。また、ドアのほうから音がすると、小春が腕を組んで黙って見ていた。

「…まったく。気になって眠れないじゃない」

 小春は仕方ない様に、深い溜息を吐くと、

「これでは、周りが寝不足になるわ。深沢さん、なつめの部屋に移動して」

「…分かりました」

 深沢はなつめを抱き上げると、ユーゴに目配せして客間から出て行く。なつめの部屋に入り、ベッドに寝かせると、机に飾ってある朔真の写真を暫く見つめた。

「…朔真さん、二人を止められるのは貴方しかいないんじゃないですか?」

 優しそうに笑っている朔真を見て溜息を吐いた。

 次の日、深沢の腕のなかで目が覚めたなつめは驚いたが、なんとなく覚えてもいるらしく、恥ずかしそうに笑った。通ってきている静流には大笑いされたが、なつめの不安定なメンタルは少し落ち着いてみえた。

 地下のレッスン室で、なつめは一人自分と戦っていた。一人で踊る事の不安が拭いきれない。深沢と踊るときは心が躍るのに、今は心に渦巻いている不安に押し潰されそうだった。伸ばした指先が震えている。

「……っ…」

 なつめは大きく息を吐き出すと、項垂れるように床を見つめた。

 小春とのレッスンは、問題なく終わった。元々、小春もそんなに力を入れている訳ではなかったので、早々に開放してくれた。深沢とのレッスンも問題ない。

 ただ…。首筋を嫌な汗が流れる。ドアが開く音に、そっと視線を向けると、静流が変な顔をして立っていた。

「静流さん…」

「もう、自分がどんな顔してるのか、分かってる?」

「……?」

 静流はツカツカと颯爽と歩み寄ると、首を傾げたなつめの腕を掴んだ。

「ちょっと来て!」

「えっ、静流さんっ!」

 強引に外まで連れ出すと、庭の芝生の上に一緒に座った。以前は花壇があって、春には綺麗な花が満開に咲いていた。朔真と小春の笑っている声が聞こえた気がした。今は手入れもしていないため、芝生だけになっている。殺風景な景色が自分の心のようで、冷たい風が吹き抜けた。

 静流は雲の多い空を見上げている。そっと同じように空を見上げた。

「あの地下室は、人の気持ちを閉じ込めてしまう…」

「気持ち…?」

「この家もそうだけど、思い出が解消されていないっていうか。なつめ君、しんどそうだよ」

「………」

 なつめは空を見上げて、

「宗司と出会う前は、これが日常だったんだ」

 起ち上げた劇団を軌道に乗せるために、小春がまたイギリス通いを始めたのは、ここ数年のことだ。そのタイミングで深沢と出会った為、寂しさを感じる暇もなかった。

 時々、空気通しのため、この家に帰ってくると、妙な虚無感を感じた。それが今は日に日に大きくなってきている。今まで感じないようにしていた何かが一気に押し寄せてきた。

「…この家での思い出がさ。楽しい事も一杯あるのに、なぜか悲しい事しか思い出さないんだ」

 静流はそっとなつめの頭を撫でると、

「…心がさ、泣いてるよ…」

「静流さん…」

「きっとママもね…」

「えっ?」

 静流の真面目な視線を受け止めると、なんだか涙が溢れそうになって、そっと視線を落とした。

「静流さん、母さんの証明写真終わったの?」

「もう終わって、了解貰ったよ」

「凄いっ!」

 静流は苦笑いを浮かべると、小春の部屋で写真を撮った日の事を思い出した───。重圧のあるデクスに座わり、どこか表情にベールを覆い包んだような小春を、一対一でカメラ越しに見つめた。

「此処にいるのは、辛いですか?」

 小春の顔が少し動いた。深い溜息を吐き、横目で睨む。

「あなたたち親子は、カメラ越しに一体何が見えるのかしら?」

 静流は笑みを浮かべると、

「魂の色かな…?」

「怖い事をいうわね」

 笑いながらレンズ越しに、小春の表情を見つめる。

「あの時、父さんは二枚の写真を渡したはずだ。一枚はあなたが選んだものと、もう一枚は、あなたの本当の心が写ったもの…」

 小春は目を閉じると、

「あなたも父親譲りね。人の心のなかにスッと入ってくる。それも何重にもガードしている所に…」

 あの時、カメラから離れた一命は、穏やかな笑みを浮かべ、小春の肩を叩いた。

『今は誰も見ていません。ちょっと肩の力を抜いてみませんか。そして、あなたの愛しい人の事を考えてください』

 あの時を思い出した。この家の中を見回し、穏やかな笑みを浮かべた。震える唇を噛み締め、そっと溢れた涙を拭った。少しの間、静かな時間が過ぎ、静流は部屋を後にした。

 翌日、出来た写真を見せると、小春は暫く言葉もなく見つめ、その後呟いた。

『ありがとう…』

 その言葉が、静流の心に深く響いた───。

 静流はなつめの耳元に口を寄せると、

「エッチしてる?」

「……っ!」

 なつめは真っ赤になると、思わず離れたが、沈んだように首を横に振った。静流は苦笑いを浮かべ、

「一緒に寝てるんでしょ?」

「…うん…」

「そのまま寝てしまって…、気付くといつも朝なんだ」

「先生も耐えるね…。というか、相変わらず、真面目なんだから。ここが駄目ならちょっと別荘に行って、すっきりしてくれば…」

「……っ!」

 むくれているなつめに静流は笑った。きっとそれが出来てれば、こんな事にはなってないんだろうが。

「ぶつからないといいけどね…」

 空が曇ってきて、静流は顔を顰めた。


 朝から空がどんよりとしていて、気持ちがすっきりしないというか、大きな蟠りが形となって現れてきた。地下のレッスン室で、小春となつめが睨み合っている。

「───」

 深沢は朝起きると、具合の悪そうななつめに顔を顰めた。

「今日は休んだほうがいいんじゃないか」

「ううん。まだまだ、何も出来ていないんだ」

「だが…」

 少し痩せた体を優しく抱き締めた。

「お前が苦しんでいるのに、何も出来ないのが辛い」

「宗司……」

 この腕の温かさがあれば、きっと乗り越えて行ける。

「…俺は、必ず母さんに認めてもらう」

「だが、無理はするな」

 心配そうな深沢の顔を見つめ、そっとその唇を塞いだ。何度も深く舌を絡め、笑みを浮かべて離れる。

 絶対に負けない。

 なつめの強い意志の前に、諦めの溜息を吐いた。

「…分かった。いつでも、此処から連れ出してもいいんだぞ」

「………」

 なつめは苦笑いを浮かべて、首を横に振った。ユーゴから強制的に軽い食事をさせられ、レッスン室で天井を見上げた。深沢は心配げに壁に持たれて、様子を見ている。ユーゴも難しい表情で、仕事場へは行かず、キッチンで食事を作っていた。静流は何かを感じたかのような朝早くから来て、なつめの側を離れなかった。

「………」

 ユーゴからお使いを頼まれたまりもは、ちなつを連れていたが、家のなかの異様な空気に顔を顰めた。なつめの顔色を見て、何かを言いかけたが、ユーゴがそれを制した。

 居たたまれない空間の中、小春がレッスン室を覗いて、なつめのダンスを見ると顔を顰めた。

「なにそれ。今のあなたの心が駄々洩れね。話にならないわ」

「………」

 いつもなら文句をいいながらも、前向きに捉えるなつめだが、この日は違った。具合悪さも重なって、感情的にカッと小春を睨みつけた。

「なんで、そんな言い方するんだよ!」

 その言葉に、いち早く反応した深沢と静流が側に駆け寄ろうとしたが、それを怒り顔の小春が二人を止めた。

「未熟者! 周りがいつも助けてくれるって甘えがあるから、あなたは弱いままなのよ」

「俺は、母さんみたいに強くない!」

「なつめ君、具合悪いんだから、この辺で…」

 静流が冷静に止めに入ると、小春は赤くなったなつめの顔に、眉間に皺を寄せた。

「具合が悪いなら、さっさと寝なさい!」

「……っ!」

 背を向けた小春に、床に座ったなつめは荒い息のまま、低い声で呟いた。

「母さんに、俺と父さんの気持ちなんか分からない」

「……っ!」

 振り向いた小春は無表情だった。

「じゃあ、あなたは私の気持ちが分かるっていうの」

 部屋のなかが凍ったような寒気がする。ちなつがまりもにしがみついた。

「なんかいつもと違うよ…」

 なつめはそろりっと起き上がり、踊ろうと一歩歩いたが、踊る気力もなかった。そんななつめに、まりもは皆の顔を見渡したが、誰も何も言えないでいる。

「みんな変だよ! こんな状態のなつめ君ほおっておいて! こんな苦しそうに辛そうに踊っているなつめ君が可哀想だよ!」

「部外者は黙ってなさい」

 小春は苛立ったように顔を背けた。

 まりもはなつめの側に寄り、その冷たい手を握った。

「なつめ君、どうしてそんなに無理するの」

「まりも…」

「皆心配してるよ…」

「大丈夫だって…」

「ほおっておきなさい!」

 小春がきつく言うと、まりもは服の端を握り締めた。

「嫌です。なつめ君は私が辛い時、いつも側で励ましてくれた。なつめ君が辛い時、今度は私が何か手助けしたい」

「……っ!」

 小春の目の前には、小さな両手を広げたちなつが立っていた。小春の脳裏に同じ光景が蘇る。朔真と一度だけ喧嘩をしたことがあった。感情的に激怒した小春に、辛そうな朔真が押し黙った時、小さななつめが涙を流しながら、両手を広げて小春を守った。

『駄目っ!』

 それは朔真が、どんな時でも小春を守るんだって言ったからだ。その光景を思い出し、小春は大きな溜息を吐いた。

「何不自由なく、育てたつもりよ。ずっと側に居てやれなかった事は謝るわ。それでも、私は私で精一杯…」

 朔真と出会って、早くになつめを授かった。両親や周りの反対を押し切って、結婚してなつめを産んだ。プリマとしての周りの期待が大きかった分、酷いバッシングにもあった。それでも、三年後再度イギリス留学の話が上がり、朔真が背中を押す形で留学した。朔真となつめの為にも、結果を残さないといけない。そして、少しの休みが出来ると直ぐに飛んで帰ってきた。

 なつめは、ゆっくり立ち上がると、まりもの頭を撫で、ちなつの側に寄り、その小さな体を抱き締めた。

「ちなつ、ありがとう」

 泣きそうなちなつをまりもに渡した。小春の前に立つと、

「母さんが、いつもイギリスに行く時、父さんと空港の屋上で見送っていた…。俺と父さんが笑っていたと思う? 泣いてる俺の手を繋いで、父さんもいつも泣いていた。寂しいなって…。それでも、母さんも今頃号泣しているだろうから───」

『なつめと父さんの約束。母さんは一生懸命頑張ってる。だから、泣いたら駄目だ。母さんが帰ってきたら、おかえり、よく頑張ったねって言ってやろう。俺たちの場所に戻ってくるんだから、待っててやろうな』

 小春は目を見開くと、涙が頬を流れる。

「なぜ、今そんな事をいうのよ!」

「───そんな大きな声で、どうしたっていうんだ?」

 ドアの側で、青い顔をした優美と、その隣に立つ姿に、小春となつめは息を飲んだ。

「…その亡霊を見るような顔は…。珍しいね、君たちが俺と朔真を間違えるなんて。いや、君たちは決して、間違えないようにしていたんだろうけど、一卵性の双子だよ。絶対に間違えない君たちに、関心していたほどだけど」

 ハッと我に返ったなつめと小春は、視線を合わせない。その態度に、

「優美が、小春となつめが喧嘩しているっていうから来てみれば、どうしたんだ?」

「和真には関係ないわ…」

 小春のソッポ向いた態度に、

「君たちがそんな顔をしている時は、朔真の事だろう?」

 和真は大きな溜息を吐くと、部屋のなかに入ってくる。なつめの苦しそうな横顔を見つめ、

「今だろうな。…君たちに、朔真から頼まれていたプレゼントがある」

「……っ!」

 小春となつめは驚いたように、和真を見つめた。その真剣な瞳に、冗談を言っているようには思えない。

「あの二人はよく似ているから、将来俺の事で、二人が悲しむ事があったら、代わりに抱き締めてやってくれないかってね」

「………!」

 なつめの目から涙が溢れ出る。この家に居れば居るほど、朔真の存在の空白に、心が弱っていくのを感じていた。拳を握り締めても、溢れる涙が止まらなくて、

「父さん、父さっ…、父さん、わああぁ!」

 堰を切ったように、なつめは叫びながら、和真にしがみついた。和真は苦しそうになつめを抱き締めると、

「どうして、こんなになるまで我慢したんだ」

『…泣いたら駄目だ。小春が泣いてしまうから、笑って迎えよう』

 朔真の声が耳元で聞こえてくる。

「父さん…」

「なつめも小春も、頑張り過ぎるんだ」

 なつめの涙が止まると、笑いながら和真は周りを見回した。深沢と目が合うと、深沢は深く頭を下げた。

「うわぁ、ホームページよりいい男だな。朔真なら、反対し…うーん、あれ?」

 深沢は側に寄ると、和真を懐かしそうに見た。

「君は、会った事あるよね?」

「はい…───」

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