………6-(3)

 潤子から連絡が入り、一週間後の今日、引っ越しが始まった。まりもの荷物は元々そんなにないので、あっという間に終わった。午後から、檀がタクシー一杯の荷物と共にやってきて、ユーゴが散々文句を言いながら荷物を運んだ。深沢となつめも手伝いながら、大きな溜息を吐いた。

 やっと一息つき、ユーゴがなぜか蕎麦を用意していた。深沢はその様子を見つめ、

「なんで、蕎麦?」

「引っ越しだから…」

「いや、違うだろう? なんで、いつも俺の部屋のキッチンなんだ!」

「あ? 俺が作るからだろうが!」

「お前の部屋で作れよ」

「食材がないだろうが!」

 深沢とユーゴの言い合いに、なつめは諦めの溜息を吐いた。そこに玄関のチャイムが鳴る。なつめは慌てて、玄関に走った。

「はい、どうぞ…」

「レオナさん、連れてきたよ!」

 まりもの元気な様子に、少し心が軽くなった。側に立つレオナは、この前のようなボサボサ頭ではなく、ちゃんと髪を纏めている。黒縁眼鏡の奥の目は不安そうで、強張った緊張した感じだ。淡いブルーの長めのニットに、黒のパンツでスラッとした長身がモデルのようだ。

「どうぞ…」

「………」

 玄関で固まっているレオナに、まりもが背中を押していく。

「はいはいっ、遠慮なく入って…」

「お邪魔します…」

 小さな声に、なつめは笑みを浮かべたが、

「まりも、お前の部屋じゃないだろう」

「えぇ…!」

 頬を膨らませたまりもを見ながら、リビングのドアを開けた。

「ええとね、此処に冷蔵庫があるから…」

「あっ? なんで人の家の冷蔵庫の場所の説明するんだよ!」

 なつめが訝しげにまりもの服を引っ張ると、

「だって…、買い物行かないもん!」

「行けよ!」

 なつめとまりもの睨みあいに、ユーゴが笑いながら、

「ほら見て見ろ。皆一緒じゃねえか」

「………!」

 深沢は大きな溜息を吐いた。側に立つレオナの呆然と立つ様子に、なつめから聞いていたからなのか、その変わらない視線に、思わず仰け反ったが失言はしなかった。

「ようこそ…」

「お邪魔しています…。すみません…」

 大きい体を丸めてしょんぼりしている。というより、一八〇センチの大人が三人もいると、急に部屋が狭く感じる。諦めた深沢は、仕方なくリビングの端に置いてある簡易のテーブルを出した。誰も出ていく気配がないので、ダイニングでの食事は無理だろう。

 なつめもソファーのクッションを並べていく。

「あれ? あと二つ?」

「あぁ、きっと来るだろうから」

 なつめが納得すると、深沢はげっそりとしている。

「此処は食堂か? 別荘を本格的に考えないといけないな。…先が思いやられる」

「そうだね…」

 なつめは深沢と二人になれればいいので、含み笑いをしていると、

「そこ! イチャイチャしない。手伝えよ!」

 ユーゴがお玉で指してくる。結局はワーワー言いながら、蕎麦を食べ終わると、なつめとまりもとレオナが片づけを始めた。

 レオナは拭いたお皿をお盆に乗せていくと、

「なんだがいいですね。こういったのも…」

 深沢とユーゴと檀は、リビングで話をしている。その様子を横目で見ながら、なつめは笑った。

「なんだか、最近は賑やかですよ」

「どんどん仲間が増えてくるもんね」

「仲間ですか…」

 レオナの自嘲した笑いに、なつめはまりもを見た。まりもは洗い物を終えると、手を拭きながらレオナを見上げた。

「欲しいって思うときには全然出来ないのに、自分が少し変わるだけで周りって変わるもんだって、私も初めて知ったよ」

「変われるでしょうか?」

「それが可笑しいことに、変わらなくても変われるんだよ」

「………?」

「分からないでしょう? 私も分からなかったの。でも、私でいいって認めてくれる所だったら、素の自分で居られるから…」

 静流の言葉が今ならよく分かる。

『自分を好きになってみるといいよ。自分から逃げても、何の解決にもならない。自分が変われば、周りもきっと変わって見えるから』

「よく分からないけど、何となくわかる気もします」

 レオナの言葉に、なつめとまりもは笑みを浮かべた。まりもはレオナを見上げ、

「それに敬語は必要ないって言ったじゃない。レオナさんは私の上司なんだし、まりもって呼んで…」

「そうそう、まりもはまりもだし…」

「なつめ君、私の本名覚えてくれた?」

「………」

「森萬里、森萬里、森萬里…」

「うるさい!」

 玄関からチャイムが鳴った。なつめは深沢とユーゴを見た。

「………」

 ユーゴの促す視線に、なつめはゆっくりと玄関に向かう。ドアを開けると、静流が鼻をクンクンさせて、

「えっ! 蕎麦? もうなんで呼んでくれないんだよ」

 静流は文句を言いながら、勝手に上がっていく。玄関に立った鷹東は、玄関にある沢山の靴を眺め、

「これは…、さすがに深沢君の相談に乗らないといけないなぁ。食堂になってるじゃないか」

 なつめは笑ったが、鷹東が一つの靴を見ていることに気が付いた。

「どうやら、間違いないみたいだね」

「オーナー…」

「不安にさせてしまったようだね。少し彼女と話をさせて貰ってもいいかい。多分、間違いなく姪なんだ」

「……はい」

 なつめは静かに呟いた。賑やかに話しているリビングに入ると、キッチンでまりもと楽しそうに話しているレオナを見つめる。その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。

「礼央奈…」

「……っ!」

 飛び上がるように振り返った礼央奈は、鷹東を見て、目を見開いた。言葉もなく、凝視したまま動かない。やっと声に出た時は震えていた。

「…叔父さま」

 礼央奈の溢れた涙に、まりもは持っていたタオルで拭いた。

 鷹東は大きな溜息を吐くと、

「すまないが、少しだけ彼女と話をさせてくれないかい」

「分かりました…」

 深沢は立ち上がると、なつめを連れてリビングを出る。ユーゴと檀も何も言わず出ていく。ダイニングの椅子に座ると、

「礼央奈、座ってくれ…」

「はい…」

 礼央奈はまりもの手を掴んで離さない。レオナの側に立ったまりもはどうしようと焦りながら、

「あの、あの…」

「君はそこにいていいよ。礼央奈もその方が話やすいと思うし、僕もすまないけど、彼も一緒でいいかな…」

「はい……」

 鷹東は久しぶりに見る姪に、成長したものだと喜んだ。

「まずは、君が無事で良かったよ。これでも、ずっと心配をしていたし、探していたんだ」

「すみません…」

 その姿が昔と変わらなくて、鷹東はホッとして笑みを浮かべた。

「まずは、辛い話をしなきゃいけないけど、いいかい?」

 渋々頷いた礼央奈に、

「一〇年前、ちょうど君の誕生日の前だったよね」

 誕生日プレゼントも用意して、その日を待っていた。年に数回しか会わないが、大人しいが心の優しい姪が可愛かった。鷹東の家系は長男が継ぎ、次男は橘に養子に行く事は代々決まっていた。それ程橘の後継者は災難が続き、後継者がいないことが多かった。鷹東の父親の弟が養子に行った先で、礼央奈はたった一人の年の離れた姪だった。

「僕が知ったのは、君があの屋敷を去った後で、あの屋敷もご両親も火事で亡くなったのは…?」

「あとで、何か月も後でニュース記事を読んで知りました」

「…そうか」

 礼央奈は昔を思い出しながら、

「私はそれどころではありませんでした。叔父さまが買ってくれたパソコンだけが、私の生きがいで…。はっきり言えば、お金には困りませんでした。昔からハッカーで稼いでいましたから」

 礼央奈の冷たい視線に、鷹東は目を閉じた。

「でも、橘礼央奈たちばな れおなの名前が付き纏うんです」

 普通に生活しようとしても、その名前を出すと、あの旧家の落ちぶれた橘って言われた。名前を隠して、場所を点々と移動して、隠れるように生活した。

「どうして、僕を頼ってくれなかったんだい?」

 礼央奈は押し黙った。

 握り締め震える鷹東の拳を、静流が強く握り閉めた。

「それを言ったら駄目だよ。基さんだって、分かってるはずだ」

「でも……!」

 その時の鷹東の葛藤も分かった。静流は、鷹東の両手を掴むと、その視線を自分に向けさせる。

「僕を見て…、冷静に僕の声を聴いて。今それを言っても、お互いを傷つけるだけだ。分かるよね。大事なのは今でしょ?」

 静流の黒い目を見つめた。その時の自分を静流は全て知っているから言える。鷹東は少し落ち着きを取り戻した。

「分かったよ。ありがとう、静流くん」

 礼央奈も感情的になりそうな自分に気付いた。もしもあのまま責められたら、あの時なぜ救ってくれなかったって、激しく罵っただろう。

 鷹東は大きな息を吐くと、礼央奈の俯いた姿に心を痛めた。

「………」

 橘の家系は、広大な土地と大きな屋敷、そして派手な生活を好んだ。維持管理に多額の資金がかかるので、衰退するのは時間の問題だった。以前から、その相談を持ち掛けても聞く耳を持たなかった。

 鷹東が知った時には、既に手遅れの状態だった。鷹東が持っているのは不動産だ。すぐにおいそれと多額の現金を用意出来るわけではない。両親も亡くなり、一命も失った後の鷹東には、どうすることも出来なかった。連絡が付かなくなり、どうしたものか悩んでいた時、火事と叔父母の死、礼央奈の失踪だった。

 行き場のない感情に、自分を責めた時もあった。

 でも、もうそんなことはどうでもいい。

「礼央奈、生きていてくれて良かった。ありがとう」

「お、叔父さま…、うっ…」

 可哀そうなくらい肩を震わしている礼央奈に、鷹東は静流の顔を見た。満面の笑みで大きく頷いている静流に、その手を強く握り締めた。

 冷めたお茶を飲みながら、鷹東は一息つくと、静流を見て廊下を促した。多分、ずっと立ったまま、心配している四人に視線を送る。

 礼央奈の涙を拭いているまりもを見ると、OKのサイン。黒縁眼鏡をかけると、何もない状態を保っている。

 静流はリビングのドアをゆっくり開けると、深沢の胸に顔を埋めているなつめと視線があった。

「なになに、こんなところで…」

「えぇ、あ、いや…」

「公開エッチなら、大歓迎だよ!」

「なんでだよ!」

 ぷんすか怒っているなつめをからかいながら、二人でソファに座った。

 まりもは不思議そうに、なつめの顔を見た。

「ねぇ、公開エッチするの?」

「……っ!」

 いつもより人数が増えている事を忘れていた、なつめと静流は固まった。

「もう静流さん!」

「ごめん、ごめん」

「お前ら、いい加減にしておけよ」

 ユーゴの台詞に、二人は胸を撫でおろした。

 鷹東は面白そうに見ていたが、

「それで、礼央奈。君はなんで雛元に…?」

 礼央奈はあぁと頷きながら、

「ちょっと風邪をこじらせたまま、ウロウロしていましたら、潤子さんの車の前に転がったみたいでして。そのまま介抱までして頂いて元気になりました」

「……っ!」

 鷹東は驚いて固まった。深沢とユーゴも驚いたように、礼央奈を見た。

「それはいつの事?」

「もう五年くらい前です」

「………」

 礼央奈の懐かしそうな笑みに、鷹東は引き攣った笑みを浮かべた。静流は慌てて、鷹東の側に駆け寄る。

「それで…、今は何をしているのかな」

 静流の抑えて抑えてのレクチャーを手で跳ね除け、棘のある問いかけをした。

「はいっ! 介抱して頂いたお礼に、出来るだけの事をさせて頂きました。今は、雛元財閥の管理室を一手に引き受けさせて頂いております。社長から、投資部門も好きにしていいと言われましたので、二年で倍にしたら、特別ボーナスまで頂きました」

「へぇ…、それは凄いね。で、君は先程、橘礼央奈の名前が付き纏うっていう事は、その名前は使いたくないって事だろう?」

 もはや、誘導尋問に気付かない礼央奈は、ほいほいと答えている。

「ですから、天井裏の住人ってニックネームまで頂きまして、幽霊社員として席もなく、社長と潤子さんの個人のポケマネを頂いております」

「……っ!」

 もしかして、物凄い迷惑を掛けているのではないだろうか。一度丁重に挨拶に行かなければと、鷹東は不安で胸が一杯になった。

「………」

 でも確かに、橘礼央奈の名前は重荷になったのだろう。すぐに居場所までばれてしまう。住む場所も名前も出さないですむように、礼央奈なりに生きる術を考えた事なのだろう。この子の少しずれた所を垣間見ると、

「ロボットちゃんは健在か…」

「あっ…」

 鷹東の呼び名に、礼央奈の頬を涙が流れた。本当は何度も鷹東を探し出し、その腕にすがりたかった。助けて欲しかった。でも…、

「…迷惑をかけたくなかったんです…」

 鷹東は立ち上がると、その頭を撫でた。

「そんな気遣いは無用だ。これからはどんな迷惑でも側でかけてくれ! その方が安心する…」

「叔父さま…」

 その光景を皆で温かく見守っていた。だが、なつめとまりもは、潤子との会話を思い出して、本当に大丈夫かなって内心思った。

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