第5話 まりも(森萬里)(1)
「うえーん、うえーん」
「やーい、泣き虫!」
「食べるのも動くのも、のろま!」
「のろまじゃないもん!」
「反論かよ、生意気!」
ドンッと肩を押されて、壁にぶつかり弾みで転ぶ。右の手首を捻ったらしく、ジクジクと痛んだ。一瞬、顔を顰めたが、唇を噛み締めて耐える。囲んでいた者たちが急に一瞬怯んだ。
「なにしてんだよ!」
自分の目の前に立つスポーツシューズが目に入る。
「……っ!」
縦になっている少年を見上げた。
「なつめ君…」
「なつめ、なんだって、そんなの庇うんだよ」
「おい、もう行こう!」
数人の足音が去っていくと、なつめは心配そうに見つめた。
「大丈夫か?」
「…グズッ、グズッ…」
「ちょっと待ってろ」
近くの水道でハンカチを濡らし、絞りながら戻ってくる。腫れて赤くなった右の手首を冷やしてくれる。涙は止まらないが、笑ってお礼を言う。
「なつめ君、ありがとう…」
「………」
不器用に笑う顔がとても眩しかった。
「なつめ君は、私のヒーローだね!」
「馬鹿!」
懐かしい記憶を思い出しながら、駅に貼ってある大きなポスターを見つめた。
「はーい、なつめ君笑って…」
引き攣った笑みを浮かべたなつめは、違う方向を向いて大きな溜息を吐いた。
此処はポスター撮りのための撮影スタジオ。ユーゴと某スポーツ会社のタイアップによるスポーツウエアが出来上がり、そのポスター撮りの為に、こんな所にいる。
「…おい、お前ら。往生際が悪いぞ」
スタジオの端の方で、こちらに背を向けて、必死に何かをしているユーゴは、チラッと冷めた視線を送ってくる。
カメラを向けていた相模原は、なつめの緊張した様子に、周りをうろうろしながら、自分のカメラで写真を撮っている静流を見て、
「静流さん、もういいでしょう。変わって下さいよ」
「………」
ピタッと止まった静流は、どうも居心地悪く、相模原を睨みつける。自分のカメラに重さを感じると、なつめが反対側からレンズを覗き込んでいた。視線は合うはずないが、涙目になったなつめが、
「どうして、こんな目に…」
「それは、僕も一緒…」
二人はレンズ越しに、大きな溜息を吐いた。
一カ月前…。ユーゴの乳母の
その時、ユーゴののんびりとした携帯の着信音が鳴った。
「はい、ユーゴです。お世話になっております。…はい、えっ。カメラマンが?事故ですか?」
なつめと深沢は顔を見合わせた。
ユーゴは、チラッとなつめの顔を見ると、
「えぇ、モデルは以前話した通り、もう決めています。元々、一任させて頂く条件でしたから…」
なつめは背中がゾクッとして、深沢の影に隠れた。
「うーん、そうですね。カメラマンもこちらで用意してもいいですか?心当たりがあるので…」
チラッと静流と目が合う。静流は眉間に皺を寄せると、フィッと視線を逸らした。
電話を切ると、ユーゴは面白そうに口許に笑みを浮かべた。
「じゃあ、宜しく!」
「…っ…!」
「……っ!」
なつめと静流は飛び上がった。
「待って! 俺は素人だよ。モデルなんて絶対無理だから」
「僕はアマチュアだ。プロの仕事なんかやった事もないのに、簡単に言うな!」
怒り心頭の静流と、困惑のなつめに詰め寄られても、ユーゴはただ楽しそうに笑うだけだ。深沢は大きな溜息を吐くと、
「ユーゴ、そんな態度だと誰も納得しないぞ。ちゃんとした理由を言わないなら、なつめの貸出は出来ないからな」
「……うっ」
深沢から言われてしまうと反論も出来ない。ブスッと押し黙ると、その光景を不思議そうに見ていた百々は、クスッと笑った。
「まあまあ。不器用なこと。ボン、本当に大切なご友人だと思うなら、きちんとお話してお願いしないと…」
「………」
ユーゴは偉そうに椅子に凭れ掛かると、ふてた様にソッポを向いた。だが、大きな溜息を吐くと、
「…元々、このウエアの作成に当たっては、なつめをイメージして作ったものだから、モデルはなつめ以外に考えていなかった。だから、契約の段階から、その話はしてあったし、なつめじゃないとダメなんだ」
「……えぇぇぇ」
情けないなつめの声に、深沢は渋々お手上げのポーズをする。ユーゴにしては誤魔化さずに言ったので、可哀想だがなつめの頭を撫でてやる。
「分かりたくないけど分かった…。どうなっても、知らないから」
「…ありがと」
素直に礼を言ったユーゴに、なつめは負けだ。
絶対に負けないって顔をしている静流を見て、ユーゴは一瞬折れそうになったが、
「…俺は、お前の実力は認めている。なつめをモデルに決めているなら、そのなつめを一番理解しているお前が撮るのが、一番だって思っている、今も。打ち合わせの時、本当はお前の名前を出したかったが、アマチュアでまだ無名のお前を、
「………」
チラッと静流を見るが、表情は動かない。
「お前なら、自分でちゃんとした評価を勝ち取るだろうが、もう遅くないだろう。チャンスはチャンスだ。師匠が茅野さんを作品の理解者だと感じたように、俺にとっても、お前は俺の作品の理解者だろう、静流?」
「……っ!」
初めて、ユーゴが名前で呼んだ。
静流は目を閉じると、眉間に皺を寄せた。奇麗な顔を顰めたがプッと吹き出した。
「お前、笑ったな。こっちは真剣に…」
「あぁあ~、負けたよ…」
テーブルに突っ伏した静流は、眩しそうになつめを見ると、お互いに困った顔をした。同じ作品に対する理解者と言われると断れない。さてさて、どうしようかなぁと、静流は天を仰いだ。そんな静流を見て、ユーゴは安堵の溜息を吐き、深沢と百々は可笑しそうに笑った。
ポスター撮影が初めての静流は、家に帰って、鷹東に相談した。ユーゴに口説かれた経緯を話すと、可笑しそうに笑いながら、弟子入り希望の相模原の名刺をくれた。直ぐに連絡を取ると、直ぐ様了解の返事がきて、プロの相模原が静流をアシスタントする、奇妙な形で仕事が始まった。
「───分かったよ」
静流は渋々、なつめを連れて、三脚の固定されたカメラを覗き込んだ。先程から感じていた違和感を考える。
「ユーゴ、コンセプトって何だっけ?」
「お前、あれ程説明したのに、聞いてなかったのか!」
側に寄ってきたユーゴが静流に詰め寄る。
「うるさい!」
「…ったく。二十から三十歳くらいが対象。働き尽くめの若者に、格好いいウエアで、もっと運動をしてもらおうってことだ」
「…で、お前のコンセプトは?」
ユーゴは押し黙ると、チッと舌打ちした。
「スーツを脱いで、開放感を味わって欲しい。運動だけじゃなくて、趣味でもなんでもいい。自分らしく弾けて欲しい…」
「…そっか。うん! いいな、それ。了解」
ユーゴは静流を見ていたが、背を向け、深い笑みを浮かべた。静流は相模原とライティングの変更と、背景のセッティングの相談をしていたが、不安そうななつめの顔を見た。
「まずは、なつめ君の不安を解消しないとね。ユーゴ!」
「あぁ?」
「深センっ!」
「もう呼んだ!」
静流はなんて手際がいいんだと、肩を竦めた。なつめは安心したように詰めた息を吐き出した。
少ししてドアが開くと、深沢がやってきた。その顔を見ると、なつめが直ぐ様走り出して近寄る。周りの目がある為、我慢しているが、落ち着かないようにウロウロしている。
「…遅かったな」
「あぁ、道が混んでたんだよ。なんだよ、これ」
差し出されたウエアに、深沢は顔を顰める。
「お前はモデルの仕事もしたことあったから、慣れてるだろう? なつめのリード宜しく」
先程からユーゴは、深沢サイズのウエアを直していたらしい。
「なつめ、着替え室分かるだろう? 宗司を案内してくれ」
「…あ、…うん」
静流は、ユーゴにナイスとサインを送った。
着替えてきた深沢となつめの並んだ姿に、数人が溜息を吐いた。深沢の鍛え上げられた上半身に、女性の何人かが赤くなっている。落ち着いたなつめを見て、静流は深沢に寄っていく。
「深セン、リクエスト。ルンバの二度目のサビの部分の、なつめ君が後ろに両手を広げて、深センが服を一瞬で奪い取るところあったでしょ? あれがみたいなぁって…」
「ああ、あれか。奪う服はこのジャケットか…」
「そうだよ…」
深沢は何度か広げて、宙に投げてみると、それを掴む。なつめに渡して、後ろ向きに奪うように取ってみるが、重さがあって、すぐに落ちてしまう。
「その生地じゃ無理だろう?」
ユーゴは腕組しながら、
「すれ違い様に、なつめが腕までずらしたジャケットを、可能な限り広げて奪えばいいんじゃねぇか」
「おいおい、簡単に言うなよ」
「でね、その時、なつめ君は最高の笑顔にしてね」
「お前ら、無茶過ぎるだろう…」
深沢の言葉が終わらないうちに、二人は去っていく。静流はなつめの化粧についてメイクと話しており、ユーゴはウエアの向きを思案している。
深沢は天井を見上げると、携帯で曲を探し、耳を寄せて聞く。何度かリターンで聞くと、なつめの側に寄り、携帯を耳に当て、何度も何度もカウントを取る。イメージの共有が出来上がると、静流を振り返った。
「…いつでもいいぞ」
深沢がカウントを取ると、ルンバのサビの部分を踊り始めた。その美しいダンスに、スタジオの中は溜息が漏れる。なつめが立ち上がり、深沢がその横を通り過ぎる際に、耳元で何かを囁いた。深沢がなつめのジャケットの袖を掴むと、一気に強く掴んで宙に振り上げる。と同時に、片足バランスによる上半身と両手を逸らしたなつめの柔軟なポーズに、時が止まったかのような静寂のなか、シャッターの音だけが響いた。天井を見上げたなつめは、幸せそうに笑みを浮かべていた。
「ハイッ!終了!」
静流の声に、我に返った相模原は、
「え、もうOK?」
「さーが、この瞬間は一回しかないんだよ」
静流のニヤッと笑った顔に、ガクンと項垂れた。満足げなユーゴは笑いながら、深沢となつめの肩を叩いた。
一か月後、町中に貼られたポスターに、人々は足と止めて見る。幸せそうに笑みを浮かべた青年の美しく柔軟な体に溜息を吐き、あんなふうになれたらいいなぁと呟いた。
『ね。運動しようよ。弾けるかも…』
そのフレーズ通り、若者から中高年に至るまで、話題となり、ユーゴのスポーツウエアは、即完売になる程の売れ行きだった。
重厚なドアを開けて、三段の階段を下りる。足取り軽やかに走っていく。数枚のパンフレットを抱えて、なつめは嬉しそうに笑みを浮かべ、歩道の端に寄った。人にぶつからないように、ビルの隙間に凭れ、ナップサックにパンフレットを大切にしまい込む。
「………」
停めておいたマウンテンバイクに乗ろうと鍵を出すと、視界に嫌な光景が目に入った。目を閉じ溜息を吐くと、そのままビルの間を抜けていく。
「───なぁ、そこまで付き合えよ」
「昨日もこの辺りをうろうろしていたよね、商売?」
「違います…」
小柄な女性の腕を掴むが、激しく振り払って抵抗する。二人の男に道を塞がれ、今度は手を掴まれ、引き攣られていく。周りで見ている人もいるのに、誰も目さえも合わせてくれない。
「触らないで!」
「おおぉ、怖っ!」
「さっさと来いよ」
「嫌っ!」
涙が溢れそうになり、心の中で強く叫んだ。
『助けて、……君!』
掴まれた手が急に振り払われる。痛む手を胸に唇を噛み締めると、びっくりして閉じた目を開ける。目の前に、スラッとした背中、黒のナップサックが揺れている。
「嫌がっているだろう」
「なんだ、お前!」
服を掴まれても、手加減なくビシッと手を払った。二人相手でも、怯む事なく、スッとファイティングポーズを取った。
「───お巡りさん、こっちこっち!」
誰かの叫ぶ声に、
「おい、まずい。逃げろ!」
二人は睨みながら、走って逃げていく。
その後ろ姿を見ていると、なつめは大きな溜息を吐き出した。
「なつめ君…」
走って来る静流と鷹東の姿に、なつめは苦笑した。
「もう、なにやってんのさ!」
「危ないなぁ…。戦う気満々だったじゃないか」
「いやぁ、最近、宗司と格闘ゲームしてるから、もしかしたら勝てるかなってさ」
静流は眉間に皺を寄せると、
「勝てるだろうけど、僕の作品に傷付けないでよ。無傷じゃないでしょ」
心配してくれていることに、なつめは苦笑した。
「…ごめん」
「ところでさ、さっき、宝石店から出てきたよね?」
「……うっ…」
なつめが明後日の方を向くと、静流が回り込んで顔を覗き込んでくる。ニヤッと意地の悪い笑みを浮かべ、
「へええ、なになに。あ、もしかして、この前の撮影での約束? 深セン、何言ったのか楽しみだったんだけどなぁ…」
「………っ」
踏ん張って逃げるなつめに、
「へええ…、もしかして指輪?」
なつめの一瞬の顔の表情を見逃さなかった静流は、
「いいなぁ、いいなぁ…」
静流の野生のような勘の前では、抵抗出来なかった。ガックリと肩を落としたなつめに、鷹東は気の毒そうな視線を送った。その鷹東を静流がジッと見上げる。
「えっ、なに?」
「…欲しい。僕も欲しい…」
鷹東は驚いて、静流を見つめる。腕を組んで、深く考える振りをして背を向ける。回り込まれて、顔を見上げてくる。
「……まいったなぁ」
「やった!」
「僕が選ぶのかい?」
喜んでいるが、鷹東の問いかけは聞いてない。そんな遣り取りの横で、やっと自滅から立ち直ったなつめは、忘れていたと女性を振り返った。
「あ、そうだ。大丈夫?」
「…なつめ君」
呼ばれて、なつめは女性を見つめた。ショートカットに大きな丸い黒い目、小柄の視線の角度が、なんか記憶を掠めた。
「………」
痛む手首を押さえているその姿に、ハッと思い出す。
「もしかして、まりも?」
「……うん」
なつめは呆然として、次に驚きの声をあげた。
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